橋本の屋敷に赴くのは華座の休演日である翌日になった。

 朝餉の膳を運んできた琥珀は、瑠璃に桃色の色無地と白足袋を差し出す。


「今日はこれを着て。橋本様は多少の粗相があっても目をつぶってくださるけど、それに甘えるのはちょっとね。僕の身の丈で悪いけど」

「悪いな」


 瑠璃は素直に受け取った。武家を訪問するとあっては、いくら貧乏義太夫でも身なりを整えなければならない。

 相手は御家人である。

 幕府から扶持をもらって生活する武士は、帯刀を許された特権階級だ。瑠璃や琥珀のような町人の上に存在する、別格の人間である。

 切り捨て御免という言葉からも分かる通り、武士に礼儀を失すれば殺されても文句は言えない。

 食事を胃に押し込んで桜の間に戻った瑠璃は、渡された着物に着替え、髪に瑠璃色の玉簪を挿した。手絡も桃色に変えて着物との釣り合いをとる。

 三味線を抱えて階下に下りていくと、長着と羽織という男の格好をした琥珀がいた。


「三味は置いていったら。盗まれるのが不安なら奥の隠し庫に入れるよ」

「持って行く。相手があやかしなら、この間の小鬼のように呼び出せるかもしれない」


 二人で門を出て歩いていく。平たい道だが屋敷一つ分の移動となるとかなりの距離だ。日影が二分する道の暗い方を瑠璃が、明るい方を琥珀が歩いた。

 さぞ立派な屋敷が構えていると思いきや、橋本の屋敷は琥珀のものとそう変わらなかった。

 大名屋敷は、上屋敷、中屋敷、下屋敷と別れていて、奉公人のための長屋や能舞台を備えているが、御家人というとこの程度が一般的なのだそうだ。

 橋本は昨日と同じく硬い表情で二人を出迎える。


「某一人だ。気兼ねなく上がってくだされ」


 座敷に通された瑠璃と琥珀に、橋本は白湯のようなお茶を出した。

 霜月長屋の住民でもあるまいし出涸らしとは珍しい。


「申し訳ござらん。男やもめでは満足に客をもてなせん」

「前にいた奉公人は辞めてしまったのですか?」

「三月ほど前に暇を出した。どうかな、琥珀殿のお内儀。先日見かけた童は我が家にいるだろうか」


 話しかけられた瑠璃は、辺りを見回して首を振った。


「あたしはこいつの家内じゃないが……見えない。試しに三味を弾いたら出てくるかもしれないけれど」

「三弦を?」

「瑠璃の浄瑠璃はあやかしを惹きつけるんですよ。特に取り憑かれた人には効果覿面で、背なからこう、影みたいにふわりと浮き上がって来るんです」


 琥珀が袖に手を入れて動かす。絹織りはまるで心を持ったように頭を上げていった。


「僕のこれは手妻師の真似事ですが、これがまさにあやかしの動きなんですよ」

「なんとおぞましい」


 橋本はぶるりと身震いした。武家の生まれだが怖がりらしい。


「美しい音曲には、どんな素性でも聞き入るということだな。お二人が来てくれて助かった。が、どこに席を設けるべきか」

「どうせなら座敷童がいそうな場所がいいですね」


 橋本と琥珀の相談に耳を傾けていると、どこかでゴウという音が鳴った。

 続いて、枯れた井戸に釣瓶を落としたような音もする。

 琥珀を見るが気づいていない。橋本も変わりない。笊と小枝で座敷童を捕える罠をこしらえる話題が、火鉢に乗せた鉄瓶のように熱を持っている。

 はっきり聞こえたので瑠璃の空耳ではないはずだ。

 音曲を奏でていると耳が様々な音を拾うようになる。瑠璃が聞いたのは常人では見逃してしまう、生活音よりもか細い違和だ。


「あたし、少し歩いてくる」

「手水ならば奥座敷の向こうである」

「……どうも」


 厠に行きたいわけではなかったが、否定する暇も惜しくて速足で座敷を出た。

 茶の間を過ぎて奥に向かうと、納戸の戸が少し開いていて、前髪だけ残して剃髪にした子どもが顔を覗かせていた。

 例の座敷童だ。

 あやかしにしては輪郭がはっきりしていて、足も床についている。

 瑠璃と目が合うと裸足で庭に下りた。


「待て」


 瑠璃も庭に出て、白足袋が土で汚れるのも構わずに追っていく。

 敷地にある井戸によじ登った座敷童は、失敗して地面に転がった。ばたばたと手足を動かす仕草は幼子と同じ。瑠璃は手を伸べた。


「立てるか」


 小さな手が瑠璃の手を取った。柔らかな皮膚は血の通った温かみがある。

 この子は座敷童ではなく人の子だ。

 子どもは、瑠璃の手を井戸の縁へと置き、蚊の鳴くような小さな声で言う。


「おっかあ、おっかあ」

「お前の母君がここにいるのか?」


 まさか井戸に転落したのか。事故か、それとも自ら身を投げたのか。

 怖気立つ耳に聞こえてきたのは、ざぶんという飛沫の音。

 ごくりと唾を飲み込んで井戸を覗き込む。

 釣瓶が落ちた水面には瑠璃の顔が映るのみ。他には誰もいない。


「誰もいないじゃないか……っ」


 起き上がった瑠璃は戦慄した。子どもの横に、乱れ髪の女が寄り添っている。

 上半身は裸で、腰から下に巻いた着物は血に染まっている。


「産女……」


 産褥熱で死んだ女が化けるあやかしだ。

 死してなお子どもへの執着強く、育て親のない赤子を攫って人前に現われる。

 出会った人間が逃げると赤子は産女が育て、人間が逃げずに受け取ると役目は終わったとばかりに消えるという。

 瑠璃は、三味線を構えて強く弾いた。


「その子から離れろ!」


 産女はすうっと立ち上がると消えた。子どもはまた「おっかあ」と呟く。


「あれは、あんたのおっかさんじゃない。あんたが受け取られなかったから、井戸で育てていたんだ」


 瑠璃は子どもの背を撫でながら屋敷を振り返った。

 ここには橋本しかいない。橋本は武士だが威張る様子もなく、周りの家々のために座敷童を捕えると決めた正義感のある男だ。

 もしも産女が攫った子を見せたら、同情から受け取りそうなものである。

 しかし受け取らなかった。だから産女は、この井戸で赤子を育てていた。

 井戸水だけでは死んでしまう。奉公人か誰かが飯をやっていたはずだ。

 橋本は、仕えていた奉公人に暇を出したという。この辺りで座敷童が目撃されたのは三月ほど前から。暇を出した時期と重なる。

 この子は、食事にありつけなくなって、他の屋敷に足を伸ばしたのではないだろうか。


「橋本は、どうしてこの子を見捨てたんだ」


 戸惑う瑠璃の脳裏を、琥珀の言葉がかすめる。


 ――僕の家の周り、どこも災難続きですね。


 それに「左様」と答えた橋本は、自分の家はどうかという話をしなかった。琥珀も心配しなかったということは、すでに橋本家では災難が起きていたのだ。

 瑠璃は再び井戸を見る。

 伸びた草に紛れているが、複数の盥が散乱して苔むしていた。

 多く盥を必要とするのは病人の看病をする時。そして、お産の時だ。お湯を沸かして産婦の体を温めたり、血を洗い流したりする。

 出産は命がけだ。死産も多い。産婦が亡くなることも赤子が残されることもよくある。

 よくある災難だが、当事者からすれば受け流せない出来事だ。

 瑠璃は子どもの手を取った。紅葉より小さな手は痩せこけている。

 ぐうと鳴った腹の音は、井戸の中から響かせればゴウと聞こえる具合だった。


「あたしがあんたを守ってやる」


 子どもの手を引いて縁側に向かうと、雨戸に背をつけた琥珀が立っていた。


「橋本様は罠を作るための笊を探しに蔵へ言ったよ。その子、どこにいたの?」

「納戸に隠れていた。井戸で産女に育てられていたようだ」

「それで、食べ物を他の屋敷にねだりに行っていたわけだ。こんなに小さければ、どこの子だろうと憐れんで、飯の残りを別けてやっても不思議じゃない。坊や、おいで。僕の屋敷でご飯を食べようね」


 琥珀は、泥だらけの子どもを抱き上げた。

 瑠璃が汚れた足袋を脱いで縁に上がる間も、優しく子どもに言い聞かせる。


「お前のおっかさんはね、お前を生んだ時に死んでしまったんだ。僕は、その後でお前も死んだと橋本様に聞かされていたけれど……嘘だったみたいだね」

「――琥珀殿」


 庭先に、笊を手にした橋本が立っていた。

 瑠璃は緊張する。橋本が意図的に子どもを無視しているのなら、保護した琥珀と瑠璃に逆上してもおかしくない。

 しかし、橋本の目は琥珀の腕にいる子どもには止まらなかった。

 見えていないのだ。自分の子どもが。


「このくらいの大きさで良いだろうか。つっかえ棒は、割れた井戸蓋を切って作ろうと思うのだが」


 琥珀は、子どもの口を指で塞いで、にこりと微笑んだ。


「ちょうどいいと思いますよ。そのまま庭先に設置してください。その後は近づかないようにして、夜中に確認しましょうか。座敷童が気に入りそうな玩具を持っているので探してきますね」

「承知した」


 琥珀は、器用に子どもを抱いたまま、逆の手で瑠璃の手首を掴んで歩き出した。

 下駄を履いて門を出て、橋本の家が見えなくなると急にしゃがみこむ。


「琥珀、どうした?」

「緊張した……。斬りかかられたらどうしようかと思ったよ。この子とお姫、どちらも守って逃げるにはどう考えても体が足りないんだもの」

「お前に守られなくとも、あたしは平気だ」

「相手は武士だよ。しかも我が子を前にしても見えていない偏奇なね。ふいには見えるんだろう。だから座敷童だと思い込んでいる」

「どうしてああなったんだろうな……」


 もしもあやかしが現実を見えなくさせているなら、瑠璃は初対面で気づいた。


「橋本様は、あやかしでないものに取り憑かれてしまったようだ」

「あやかしでないもの?」

「悲しみだよ」


 琥珀は、自分の屋敷の門をくぐると、ぱっと瑠璃の手を離した。


「人はあまりに大きな感情を抱えると別人に変わる事がある。関の扉の関兵衛が大友黒主にぶっかえるみたいにね。変化するまで周りには分からないんだよ」


 ぶっかえりは歌舞伎の仕掛けだ。衣装の上半分を糸で留めておき、引き抜いて下に垂らすことで一瞬の内に着替えたように見せる。


「橋本を元に戻すにはどうしたらいいんだ」

「悲しみも厄落としできたらいいね。瑠璃がいつもあやかしにしているみたいに」


 琥珀は、子どもの足を桶水で洗ってやってから、泥を落とした瑠璃の足を拭いた。


「いっそ寄席でもしてみる?」

「してどうなる。あやかしが取り憑いているわけじゃないんだぞ」

「そうさ。問題はあやかしじゃない、それなら本職の方の出番だよ。美しい語りを聞けば橋本様の心は癒やされる。やらないなら、僕が舞うけど」


 瑠璃は、茶の間をとてとてと歩く子どもを見た。

 華座でもらったでんでん太鼓を見つけて、声を上げて笑っている。


「橋本の目を覚まさせなければ、あの子は井戸の中にしか生きる場所がないんだよな」


 わずかな間を置いて「やる」と瑠璃は言った。

 そして、すぐに子どもが視界から消えたと気づく。


「おい、そっちは危ないぞ」


 走り寄って子どもを捕まえた瑠璃は、大事そうに抱き上げる。その姿が、覚えてもいない母親と重なって、琥珀を内から突き上げる。

 やっぱり瑠璃でなければだめだ。琥珀が心から欲しいのは瑠璃だけ。

 どうせ言っても聞いてはくれないから、その言葉は飲みこんだけれど、火事場の近くを通り過ぎたときのような渇きは、いつまでも消えてくれなかった。

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