様子をうかがうと、琥珀は丸くした目を輝かせていた。


「いいの!? 瑠璃の演奏で舞えるなんて夢みたいだ。準備するからちょっと待っていて。髢ははぶくとしても、せめて鼓は持ちたい」


 琥珀は衣装部屋に走って行くと、赤い房の下がった鼓を持ってきた。

 べべん、と弦を弾いた瑠璃は、『義経千本桜』の道行初音旅を語りだす。

 五段続きのこの演目、実は題名にある義経は主役ではない。源平合戦後に義経が都落ちしたのを契機に、実は生き延びていた平家の武将と巻き込まれた者の悲劇を描く。

 そう、悲劇だ。

 源九郎義経は、その一生のうちに多くの人間を不幸な結末へと追いやった。

 だから、瑠璃は好きになれない。義経は身勝手で傲慢で最低な男だ。

 音曲に合わせて踊り出した琥珀は、花ざかりの吉野山を通る静御前を見事に舞う。

 化粧もしていないのに、その姿は姫君に見えた。

 背を限界まで寄せて作ったなで肩や鼓を構えて打つ仕草、周りを見回す首のひねりに見え隠れする愛嬌は、計算し尽くされた美だ。

 琥珀が目を向けた先には雨戸しかない。だが桜は確かに咲いている。目には見えずとも感じる吉野山は満開。墨絵のような座敷は、あっという間に春爛漫だ。

 華座をひっぱる立女形の実力に、瑠璃の演奏がともなっていない。

 恥ずかしくて演奏を止めると、鎧に初音の鼓をのせる格好で琥珀が我に返った。


「瑠璃、どうしたの?」


 姫君だった琥珀がその人に戻ると、はて背景の桜たちは露と消えてしまった。


「……お前、あやかしみたいだな」

「それ誉めてるの? けなしてるの?」

「誉めてもけなしてもいない。ただ少し……怖くなった」


 琥珀は演じている間、役そのものになる。あやかしが人に取り憑いて操るなら、琥珀は役を己に取り憑かせて操られているようなものだ。

 だから不安になる。こんな風に演じていたら、琥珀はいつか、役ごとに作られる人形浄瑠璃の人形のように、役そのものになってしまうんじゃないか。


「役に己を明け渡してしまったら、自分が分からなくならないか?」


 沈んだ調子で問いかけると、足音を立てて近づいてきた琥珀は、瑠璃の鼻にちょんと触れた。


「どんなお役をやろうと僕は僕だよ。歌舞伎役者ってのは月ごとに違う役をやるんだよ。切り替えできなきゃ舞台に立てない」


 歌舞伎は毎月違う演目を披露する。睦月狂言、弥生狂言といった風に月ごとに区切りをつけて、霜月初め神無月締めで一巡なのだ。


「だから安心してよ、僕は瑠璃への思慕には溺れても、役には溺れない主義なんだ」


 にっと白い歯を見せた琥珀は自信に満ちあふれていた。

 この男は迷う事などないのだろう。才能でも人生でも与えられた物を全て享受して、自らの力で芸に昇華している。

 琥珀は強い。そしてやはり、少し怖いと瑠璃は思った。


「訂正する。お前なんか怖くない。怖がってたまるか」

「それ恐妻って感じがしてすごくいいよ! 死神ですら蹴っ飛ばして追い返しそう。さすが僕のお姫は一味違う」


 琥珀がありとあらゆる言葉で瑠璃を褒め称える中、表玄関から声がかかった。


「――ご免」


 来客のようだ。琥珀は速足で出ていった。

 瑠璃がこっそり覗くと、凧のように角張った顔つきの男が立っている。

 擦れのない上等な紺鼠の着物と縞の帯。丁寧に剃り上げられた月代や、芯を入れたように真っ直ぐなたぼから、武士なのはすぐに分かった。


「お隣の橋本様でしたか。うちに何かご用事でしょうか?」

「琥珀殿にお頼みもうしたい事柄ありて参った。其方は独身と思っていたが、お内儀をお迎えになったのだろうか?」


 武士――橋本が襖から顔を半分出した瑠璃に目をとめて言う。

 瑠璃はぶんぶんと首を横に振ったが、琥珀はでれっと鼻の下を伸ばした。


「可愛いでしょう。娘義太夫なんですよ」

「お相手も芸達者か。いずれ某も寄席にお邪魔いたそう」

「そうしてください。雨の季節が過ぎるまで仕事に出ないので、もう七日も僕が独り占めしてるんですけどね」

「七日か。それだけいれば、其方もご覧になったであろうか。あの座敷童を……」

「座敷童?」


 琥珀は瑠璃と顔を見合わせた。


「それって、家に取り憑くと福を呼び込むけれど、去ると没落するという、あの?」

「ああ。そのせいで困っているのだ」


 橋本を座敷に上がらせた琥珀は、瑠璃と並んで事情を聞いた。


「詳しく聞かせていただけますか?」


 橋本は、出された茶に口を付けて、ごほんと喉を整える。


「三月ほど前に、一ノ橋向こうの河内守の屋敷で人死にが出たのは知っているか」

「知っていますよ。亡くなったのは三の姫様だと聞いています。三十も上の側用人との縁談に嫌気が差して、火消しの恋人と玉川上水に身を投げたとか。その後、母君は伏せって何度も医者を呼んでいますよね。よく駕籠を見かけます」

「では、二月前にその斜め向かいの主膳正の屋敷に盗みが入ったことはご存じか。金庫の千両を奪われて、これでは面目丸つぶれと切腹しかけた」

「それは知りませんでした。この辺り、どこも災難続きですね」

「左様」


 橋本は袖に腕を通して、蜂にでも刺されたようなしかめっ面を作った。


「まるで家々を移り歩いているように災難が移動しておる。気にかけて調べたら、どうも三月前からこの辺りを童子が渡り歩いているらしい。そして先日、縁で刀の手入れをしておったら庭先に現われた」


 芥子坊主の子どもだったという。年は三つか四つほどで、蜻蛉を追って庭を駆けまわり松の木の裏にもぐって消えた。

 次の日も同じように現われてすぐに消えた。

 姿が見えなくなった松の木の裏を覗くと、囲い塀に穴が空いていて、その先は琥珀邸の荒れ果てた畑に繋がっていた。


「あれは、あやかしだったのか」


 驚く瑠璃に橋本が食いついた。


「さてはご覧になったのだな?」

「さっき三味の稽古をしていたら縁側に現われた。荒れた畑を踏んで逃げて行った」

「畑の向こうは我が屋敷だ。戻ってきたのか。座敷童が出ていった家は没落するが、出戻ってきた家はどうなるか分からぬ。お二人とも某に協力してはもらえまいか。さらなる厄災を招く前に、その座敷童を捕まえてしまいたいのだ」

「座敷童って捕まえていいものなんですか。恨まれて不幸な目にあったりしません?」


 琥珀の疑問に、橋本はそれを言ってくれるなと唸る。


「家々を巡って不幸を撒き散らすよりは、どこかの家に留めておく方がよかろう。この辺りには大名屋敷もある。そういった家が没落すれば大勢の人間が苦しむ」

「そういうことなら、あたしは協力する」


 瑠璃が頷くと、橋本は我が子を愛おしむような目で頷いたのだった。


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