山と運ばれてきた女物の着物を借り、雇いの風呂焚きが沸かした内風呂に入らせてもらった瑠璃は、ほかほかと温まった体が冷めないうちに桜の間に急いだ。

 琥珀は、晩飯を共に食べたあとは顔も見ていない。

 あの口説き魔のことだから、真夜中に這い寄るのではと警戒していたが、空が白むまで足音一つしなかった。


「何なんだ、あいつ……」


 全く女扱いされないというのも腹が立った。瑠璃もなかなかの我が侭だ。

 顔を洗いに縁側から井戸に行き、部屋に戻ると朝餉の膳を持ってきた琥珀がいた。


「おはよう、瑠璃。よく眠れたかな。朝餉は一人で食べてね」

「もう出るのか?」

「幕が開くのは早いからね。食べ終わった膳は台所に置いておいて。掃除もしなくていいからね。それじゃあ行ってきます」


 箱膳を置いた琥珀は、赤い着物の袖をひらめかせて遠ざかっていった。若衆髷がすっかり見えなくなってから、瑠璃は三つ指ついて送り出すべきだったと気づいた。


「これでは、あたしはただの穀潰しじゃないか」


 居候らしく振る舞おうとしたが、琥珀を前にするとどうにも素直になれず、七日ほど同じ朝が続いた。

 瑠璃は、昼間のうちは三味線の手入れをしたり語りを練習したりする。

 ここは壁が薄っぺらい霜月長屋と違って、隣の昼寝どきに休む必要はない。

 好きなだけ床本をさらって、帰宅した琥珀と飯炊きが作ってくれた夕餉を食べて、布団を敷いて寝る支度を調えたら、その傍らでまた弾く。

 梅雨の間はヒラキを作っても倒壊する恐れがあるので、しばらく興行は休みだ。

 いつもどこかが騒々しい仲見世辺りと違って、木挽町は静かだった。大屋敷には奉公人が大勢いるというが、立派な門で隔たれているので全く人の気配がしない。

 縁側の向こうには荒れ果てた畑がある。

 畝には雑草が多い繁り、雨に黒く濡れていた。手入れする人間がいないのだ。

 毎日のように飯炊きや風呂焚きが通ってくるが、仕事をしたらすぐに帰る。それも三日ごとに入れ替わって長居しない。

 琥珀は、長く自分と一緒に暮らすと死んでしまうと言っていた。

 瑠璃を自室から離れたところに泊めているのも、あまり顔を合わせないようにしているのもそのためか。

 琥珀から、あやかしの気配は感じない。もしも取り憑いているなら瑠璃の厄払いで剥がせるが、周りを死なせるのが琥珀自身の影響ならば手立てはない。

 体から毒霧でも出ているのか。天竺徳兵衛が乗る大ガマみたいに、口から白い煙を吐きだす琥珀を思い浮かべる。似合うし滑稽だが、そんな様相なら、犠牲になった人々は殺される前に逃げるだろう。

 殺されるまで近くにいるのは、馬鹿か心中希望の愚か者だ。


「だとすれば、あいつが殺したか……」


 床本をまくる手を止めて、瑠璃は一人ごちた。

 一緒に暮らす人間を琥珀自身が手にかけていけば周りは死に絶える。

 そして、あたかも被害者のように振る舞えば、不憫な被害者の完成だ。

 殺した理由が私怨なら瑠璃に危険はない。だが人を殺めたいという奇矯な業の持ち主ならば、いずれ殺意は屋敷に入った瑠璃に向く――。

 匕首を手に襲いかかってくる琥珀を想像した瑠璃は、ペちんと頬を平手で打った。

 馬鹿らしい。そんな筋書きがまかり通ったら、岡っ引きも町奉行もいらない。

 まず私怨はない。養子に取られなければ生きていけないような年齢の子どもにとって、家族は自分の全てである。それを自ら失するはずがない。

 そもそも、子どもの手でどうやって大人を殺したというのだ。

 人は殺そうとしても死なないものだ。どうせ死なないと高をくくると死ぬものだ。

 この世は、一切合切が無情で、思い通りにはいかない。

 それは、素性の明らかでない瑠璃を近くに置きたがるほど人恋しい琥珀が、誰より実感しているだろう。


「あいつの周りで人死にが出るのには、理由があるはずだ」


 瑠璃は、琥珀に探りを入れると心に決めて、撥で弦を弾いた。

 べべん、と響く音色は以前と変わりない。嵐で猫の皮が痛まなくって良かった。張り替えるにしても、化け猫なんてすぐには見つからないもの。

 今日の手習いは何にしようか。ぼんやり弾いていくと、音が旋律に変わる。

 口から零れるのは吉野山の一節だ。

 今頃、琥珀が舞っているだろう静御前の道行きで演奏される音曲である。

 もう一人の主役である狐忠信が手にする初音の鼓には、親の皮が張ってある。自分を残して逝ってしまった親恋しさに、狐は忠臣・忠信に化けて静に同行するのだ。

 板の上で演じている琥珀は、本心では相棒の狐忠信に共感するだろう。

 一方の瑠璃はというと、義経を思う静御前の気持ちが分かる。

 だが気に入らない。義経には妻の他に愛妾が何人もいた。行きずりに関係を持った姫の中には、浄瑠璃の語源となった浄瑠璃姫もいる。


 浄瑠璃姫は、矢矧という国司が薬師瑠璃光如来に祈願して生まれた申し子だ。

 数えで十六の頃、京都の鞍馬から奥州へ向かう義経と出会い、一夜の契りを交わした。翌朝、旅立った義経は大病を患い吹上の浜に捨てられるが、神のお告げでそれを知った浄瑠璃姫が駆けつけて蘇生させて再び見送った。姫はそれを知った母に家を追い出されて川に身を投げた。軍勢を率いて京へ上る義経は道中でそれを知り、寺を建立したという。

 年頃の娘であれば一度は夢に見るような悲劇的な恋。

 その大元である浄瑠璃姫は、娘義太夫の憧れだ。

 瑠璃だって、恋に対して、霜月長屋の万年畳を歩く蟻の触覚ほどの興味ならある。

 でもしない。恋なんか苦しいだけだ。それで命を失うなんて大馬鹿者だ。

 ふと縁側に視線を落とすと、前髪だけ残して頭を剃った子どもが、床板に顎をのせていた。


「うわっ」


 びっくりして声を上げる。

 子どもの方も驚いて、荒れた畑を踏みつけて裏門から出てった。

 盗人だろうか。こんなとき家に一人でいる身はどうしたらいいのだ。

 震える撥が弦に触れてびーんと鳴る。ほぼ同時に、襖がガタリと開いた。


「もう終わり?」

「琥珀……。お前、帰ってきてたのか」

「一刻前には。ただいまを言いにきたら、あんまり良い声で語ってるから廊下で聞いていたんだ。どうしたの?」

「縁に子どもがいて驚いた。裏庭から逃げていったぞ」

「裏庭の囲いが壊れているんだ。そこから入ったのかな」


 木で出来た柵は、板がいくつか抜けていた。

 子どもなら出入りは可能だが危うい。ここは大名の別邸があるような土地だ。いたずらに敷地に侵入したら、問答無用で切り捨てられても文句は言えない。

 江戸の町人は、七つまでの子は神からの授かり物として育てる。粗相をしても叱らないし、習い事も七つになるまでは通わせない。好きなように遊んで元気に大きくなれと、町中で愛情をもって見守るのだ。

 だが、武士は別だ。町人とは階級が違う。礼儀を怠れば問題になる。子の不敬のために親が斬り殺された例はいくらでもあった。

 先ほどの子どもは、たまたまここが琥珀の屋敷で、目撃したのが瑠璃だったので、運よく逃げられただけである。


「子どもねえ。ここに何の用だろう。侵入しても野菜一つ生えていないのに」

「食べる物でなくても盗む品は色々とあるだろう。衣装とか、大事な物とか」

「大事な物……そうだった。今は瑠璃がいる。僕、大抵の物は失っても割り切れるけど、瑠璃だけは無くなったら困るね」


 歯が浮くような台詞をよく素面で言えるなと思ったが、幸せそうに微笑まれてしまったら憎まれ口も叩けない。結局、瑠璃は行き場を失った気持ちを胸で飼うことになった。


「それはそうと、帰りにお団子を買ってきたよ」


 手を叩いた琥珀は、懐から笹包みを取り出した。


「僕の座敷で一緒に食べよう。盗まれたら心配だろうから荷物を持っておいでよ」


 瑠璃は、三味線だけ持って、表玄関近くの大部屋に移動した。

 琥珀が茶を淹れるというので一人で笹包みを開く。緑色の団子からは蓬の匂いがした。串を手に取ると、身につけた着物に映える。

 黄色に鳶色の格子が入ったこれは、黄八丈という。人形浄瑠璃の『恋娘昔八丈』の衣装として使われ、大人気となった八丈島の織物だ。

 流行り物が好きな琥珀は、仕立てると満足して興味をなくし、これまで袖を通さずに保管していたらしい。

 台所を覗くと、湯を沸かす琥珀の赤い着物が、雪中に咲く万両のように鮮やかだ。

どうして今日は着物ばかり目に付くのか。

 表座敷を見渡した瑠璃は、他に色がないからだと気づいた。

 桜の間と違って、唐紙には墨絵が施されている。天井は虫除けのために煤で黒く塗りつぶされ、縁側は丹念に磨き上げられて黒く光る。敷かれた畳は真新しくて白っぽい。

 ここは、まるで水墨画の世界だ。時間の流れさえ止まっているかのような、生も死もない一枚絵である。


「お待たせ」


 盆に二つの湯飲みをのせてきた琥珀は、当たり前のように下座に座った。

 ここでは瑠璃が御客というわけだ。

 団子を口に入れると、柔らかな甘みがした。


「おいしい」


 頬を緩めると、湯飲みに口をつけた琥珀がはにかむ。


「気に入ったら僕のも食べていいよ。これから舞の稽古となると胃は軽い方がいい。なんていったって静御前だからね。満腹満足だと雰囲気が出ない」

「その舞、ここで稽古してはだめか」


 瑠璃は団子の串を下ろすと、小脇に置いていた三味線に触れた。


「音曲はあたしがやる。家賃と食費と諸々の代わりだ。ただし歌舞伎の伴奏ではなく、浄瑠璃の方だが……」

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