二
琥珀は瑠璃の手を引いて、楽しそうに歩きだした。
傘を瑠璃の方に差しかけているので肩がしとどに濡れている。
瑠璃は、三味線を片手でかばいながら、隣を歩く琥珀を見上げた。
色々と聞きたいことはあったが、整った横顔を見ていたら急にお腹が空いてきた。
そういえば、嵐の衝撃で朝から水も飲んでいない。ヒラキが倒壊しているのを見て、胃の腑が縮んでキリキリしていたのに、琥珀の顔を見たら忘れてしまった。
つくづく嫌味な男だ。
脳天気のようで計画的で、話を聞かないくせに良い奴だ。
華座の勝手口に通された瑠璃は、かけそばを二人分取り寄せて残さず食ってやった。
もちろん、支払いは琥珀だ。
「言質はとった。あいつが仕出しを取ってもいいって言ったんだ」
七味でピリピリする舌を息で冷やしていると、ざわっと床が揺れた。
一段が終わった騒々しさが建物を伝ってきたのだ。
睦月の演目は人気の『義経千本桜』である。札止め御免の大入なので、熱気が裏まで感じられる。江戸っ子は判官贔屓の謂われでもある源九郎義経が好きなのだ。
瑠璃は、先日ここの舞台で三味線を弾いた事を思い出す。
立派な板、広い枡席、重箱のように三階まで人を入れられる桟敷。
換気のために開けた天井の効果で、音が籠もらず響くいい空間だった。
あんな気持ちのいい舞台に、琥珀は毎日のように上がっている。羨ましくないと言えば嘘になるが、立女形をつとめる重責に耐えられる自信は、瑠璃にはない。
琥珀は強い。仕事は真面目で、芝居は迫真。未だに独り身で、吉原くんだりに通っているような醜聞もない。
それが人気の一因になって、老若男女問わず贔屓にされているのだとか。
だからあの男は、その気になれば、どんな大店の娘でも内儀に迎えられるし、傾城級の美人花魁だって身請けできる。
それなのに、なんであたしなんか口説くんだ。
物好きか、気まぐれか。
どちらにせよろくでもないと唸っていると、楽屋から琥珀が走ってきた。
「お待たせ、お姫!」
分厚く塗った白粉を首に残して、朝とは違う金刺繍の赤い着物を身に着けている。さすがに髢は付けていないが、狐忠信を従える静御前の彩りだ。
「着替えないのか」
「これは自前だよ。公演中は役と似た格好をして過ごしているの。瑠璃は……。なんだか荷物が増えているね」
瑠璃が腰かける土間には、酒饅頭や手ぬぐい、でんでん太鼓が積んである。
華座を支える芝居者たちが、家を失った境遇を知って色々とくれたのだ。
困った人を放っておけないのが江戸っ子だが、手を貸したくなるのは瑠璃の外見も手伝っている。布でくるんだ三味線を華奢な腕で抱えて、柳の葉のような眉を下げて背を丸めている姿を見ると、自然と涙が出てくるのだという。
表方に話を聞いた琥珀は、むうっと頬を膨らまして瑠璃の頬をつついた。
「瑠璃は悪い子。僕がいないのを良いことに、人の同情を誘うだなんて」
「突くな。華座の皆が良い人なだけだ」
「そんな簡単に人を信用したらだめだよ。心を開くのは僕だけにしてよね」
琥珀は、懐から出した風呂敷でもらい物を包むと、背に回して土間に下りた。
三味線には決して手を出さない。無言の気遣いが心地良いから、瑠璃はなんだかんだと気を許してしまうのだ。
「お先に」
勝手口を出ると雨は上がっていた。
幕間の時間を潰そうという客の流れに乗って、琥珀と瑠璃は広小路に出る。
浅草見附まで下り、ひたすら歩いて琥珀の屋敷を目指すのだ。木挽町は遠くて息が切れたが、語りで鍛えた瑠璃の肺腑は音を上げなかった。
途中で鼻緒の方が耐えきれずに切れて、琥珀が自分の役者紋が入った手ぬぐいを裂いて直してくれた。千切れた笹竜胆を見て、ごくりと息を呑んだのは見られていないはずだ。
瑠璃に肩を貸しながら、丈夫そうな足を見て笑っていたから。
「瑠璃はいいね。とっても長生きしそう」
「お前、死なないとか長生きとか言うが、一体なんなんだ」
この男、芝居のしすぎで情緒がおかしくなっているのではあるまいか。
瑠璃は、砂を噛んだような顔で直された下駄に足を入れ、再び歩き出した。
不忍池を右手に、湯島天神や神田明神には目もくれずに、三十三間堀に背を向けて進むと、武家屋敷ばかりの町へ入った。江戸広しといえども七割が武家地であり、残りの三割を町人と寺社で割って暮らしているので、まあ良くある光景だ。
琥珀の屋敷は、町のちょうど中ほどにあった。
丸瓦を敷いた武家門をくぐると、能楽堂の奥絵のように枝振りのいい松を植えた前庭がある。
表玄関に入ると真正面には桜の屏風が置かれていた。こちらは男が使う玄関だ。
女子どもは台所へ繋がる中の口を使うもの。瑠璃は自然とそちらに向かったが、「誰もいないからこっちでいいよ」と琥珀に呼び止められた。
下駄を脱ぎ、琥珀が汲んできてくれた水で足を洗って屋敷に上がる。
「ここは、とあるお奉行様が隠居住まいにしようと建てた屋敷でね。門構えからするとこぢんまりしてるから、間取りは覚えやすいよ」
そうはいっても、霜月長屋からすると広大な屋敷だ。
廊下を進めば襖絵の違う座敷が見え、檜を敷いた広い稽古場、陽が差さないように暗幕を垂らした衣装部屋が現れては消える。まるで幽玄にあるという夢屋敷だ。
琥珀は、表玄関から一番遠い奥座敷を瑠璃に与えると言う。
桜の絵が描かれた襖を開けると、十畳はある広い居室だった。
「ここを使って。僕は桜の間と呼んでる」
「広いな」
「狭いよりいいでしょう。布団は使っていないのを出すね。箪笥や衣桁は自由に使って。鏡台も必要だね。姉さんのを取ってあるから運んでくる」
至れり尽くせりの中に気になる台詞があった。
「お前、姉(ねえ)やがいるのか?」
意外だった。琥珀に父や母や兄弟がいると言われても、にわかに信じられない。浮世離れしている様からすると、いっそ木の洞から出てきたくらいの方が信憑性もある。
琥珀は「僕だって、ちゃんと家族はいるんだよ」と微笑んだ。
「もう死んじゃったけど。分家で良かったよね。宗家の跡取りは残ってるから、何の心配もなく断絶できる」
「は? お前は華座の宗家の人間なんじゃないのか?」
「養子なんだ。本家で暮らしたのは少しの間だけで、家族って感じがしないんだよね。すぐ離れないと仕方か無かったんだけどさ。だって、そうでもしないと」
――みいんな、死んじゃうからね。
いつもと変わらない調子で、琥珀は毒を落としていった。
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