琥珀は瑠璃の手を引いて、楽しそうに歩きだした。

 傘を瑠璃の方に差しかけているので肩がしとどに濡れている。

 瑠璃は、三味線を片手でかばいながら、隣を歩く琥珀を見上げた。

 色々と聞きたいことはあったが、整った横顔を見ていたら急にお腹が空いてきた。

 そういえば、嵐の衝撃で朝から水も飲んでいない。ヒラキが倒壊しているのを見て、胃の腑が縮んでキリキリしていたのに、琥珀の顔を見たら忘れてしまった。

 つくづく嫌味な男だ。

 脳天気のようで計画的で、話を聞かないくせに良い奴だ。

 華座の勝手口に通された瑠璃は、かけそばを二人分取り寄せて残さず食ってやった。

 もちろん、支払いは琥珀だ。


「言質はとった。あいつが仕出しを取ってもいいって言ったんだ」


 七味でピリピリする舌を息で冷やしていると、ざわっと床が揺れた。

 一段が終わった騒々しさが建物を伝ってきたのだ。

 睦月の演目は人気の『義経千本桜』である。札止め御免の大入なので、熱気が裏まで感じられる。江戸っ子は判官贔屓の謂われでもある源九郎義経が好きなのだ。

 瑠璃は、先日ここの舞台で三味線を弾いた事を思い出す。

 立派な板、広い枡席、重箱のように三階まで人を入れられる桟敷。

 換気のために開けた天井の効果で、音が籠もらず響くいい空間だった。

 あんな気持ちのいい舞台に、琥珀は毎日のように上がっている。羨ましくないと言えば嘘になるが、立女形をつとめる重責に耐えられる自信は、瑠璃にはない。

 琥珀は強い。仕事は真面目で、芝居は迫真。未だに独り身で、吉原くんだりに通っているような醜聞もない。

 それが人気の一因になって、老若男女問わず贔屓にされているのだとか。

 だからあの男は、その気になれば、どんな大店の娘でも内儀に迎えられるし、傾城級の美人花魁だって身請けできる。

 それなのに、なんであたしなんか口説くんだ。

 物好きか、気まぐれか。

 どちらにせよろくでもないと唸っていると、楽屋から琥珀が走ってきた。


「お待たせ、お姫!」


 分厚く塗った白粉を首に残して、朝とは違う金刺繍の赤い着物を身に着けている。さすがに髢は付けていないが、狐忠信を従える静御前の彩りだ。


「着替えないのか」

「これは自前だよ。公演中は役と似た格好をして過ごしているの。瑠璃は……。なんだか荷物が増えているね」


 瑠璃が腰かける土間には、酒饅頭や手ぬぐい、でんでん太鼓が積んである。

 華座を支える芝居者たちが、家を失った境遇を知って色々とくれたのだ。

 困った人を放っておけないのが江戸っ子だが、手を貸したくなるのは瑠璃の外見も手伝っている。布でくるんだ三味線を華奢な腕で抱えて、柳の葉のような眉を下げて背を丸めている姿を見ると、自然と涙が出てくるのだという。

 表方に話を聞いた琥珀は、むうっと頬を膨らまして瑠璃の頬をつついた。


「瑠璃は悪い子。僕がいないのを良いことに、人の同情を誘うだなんて」

「突くな。華座の皆が良い人なだけだ」

「そんな簡単に人を信用したらだめだよ。心を開くのは僕だけにしてよね」


 琥珀は、懐から出した風呂敷でもらい物を包むと、背に回して土間に下りた。

 三味線には決して手を出さない。無言の気遣いが心地良いから、瑠璃はなんだかんだと気を許してしまうのだ。


「お先に」


 勝手口を出ると雨は上がっていた。

 幕間の時間を潰そうという客の流れに乗って、琥珀と瑠璃は広小路に出る。

 浅草見附まで下り、ひたすら歩いて琥珀の屋敷を目指すのだ。木挽町は遠くて息が切れたが、語りで鍛えた瑠璃の肺腑は音を上げなかった。

 途中で鼻緒の方が耐えきれずに切れて、琥珀が自分の役者紋が入った手ぬぐいを裂いて直してくれた。千切れた笹竜胆を見て、ごくりと息を呑んだのは見られていないはずだ。

 瑠璃に肩を貸しながら、丈夫そうな足を見て笑っていたから。


「瑠璃はいいね。とっても長生きしそう」

「お前、死なないとか長生きとか言うが、一体なんなんだ」


 この男、芝居のしすぎで情緒がおかしくなっているのではあるまいか。

 瑠璃は、砂を噛んだような顔で直された下駄に足を入れ、再び歩き出した。

 不忍池を右手に、湯島天神や神田明神には目もくれずに、三十三間堀に背を向けて進むと、武家屋敷ばかりの町へ入った。江戸広しといえども七割が武家地であり、残りの三割を町人と寺社で割って暮らしているので、まあ良くある光景だ。

 琥珀の屋敷は、町のちょうど中ほどにあった。

 丸瓦を敷いた武家門をくぐると、能楽堂の奥絵のように枝振りのいい松を植えた前庭がある。

 表玄関に入ると真正面には桜の屏風が置かれていた。こちらは男が使う玄関だ。

 女子どもは台所へ繋がる中の口を使うもの。瑠璃は自然とそちらに向かったが、「誰もいないからこっちでいいよ」と琥珀に呼び止められた。

 下駄を脱ぎ、琥珀が汲んできてくれた水で足を洗って屋敷に上がる。


「ここは、とあるお奉行様が隠居住まいにしようと建てた屋敷でね。門構えからするとこぢんまりしてるから、間取りは覚えやすいよ」


 そうはいっても、霜月長屋からすると広大な屋敷だ。

 廊下を進めば襖絵の違う座敷が見え、檜を敷いた広い稽古場、陽が差さないように暗幕を垂らした衣装部屋が現れては消える。まるで幽玄にあるという夢屋敷だ。

 琥珀は、表玄関から一番遠い奥座敷を瑠璃に与えると言う。

 桜の絵が描かれた襖を開けると、十畳はある広い居室だった。


「ここを使って。僕は桜の間と呼んでる」

「広いな」

「狭いよりいいでしょう。布団は使っていないのを出すね。箪笥や衣桁は自由に使って。鏡台も必要だね。姉さんのを取ってあるから運んでくる」


 至れり尽くせりの中に気になる台詞があった。


「お前、姉(ねえ)やがいるのか?」


 意外だった。琥珀に父や母や兄弟がいると言われても、にわかに信じられない。浮世離れしている様からすると、いっそ木の洞から出てきたくらいの方が信憑性もある。

 琥珀は「僕だって、ちゃんと家族はいるんだよ」と微笑んだ。


「もう死んじゃったけど。分家で良かったよね。宗家の跡取りは残ってるから、何の心配もなく断絶できる」

「は? お前は華座の宗家の人間なんじゃないのか?」

「養子なんだ。本家で暮らしたのは少しの間だけで、家族って感じがしないんだよね。すぐ離れないと仕方か無かったんだけどさ。だって、そうでもしないと」


 ――みいんな、死んじゃうからね。

 

 いつもと変わらない調子で、琥珀は毒を落としていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る