二幕 琥珀屋敷の座敷童
一
浄瑠璃にとって歌舞伎は商売敵だ。
瑠璃は三味線を習っている時分からそう思っていたし、琥珀につきまとわれるようになってからもその気持ちは変わらない。
義太夫は、座敷に呼ばれることも多いが、本領は芝居小屋で語る舞台芸だ。
戦国時代から人々を涙させてきた語りの数々は、傀儡師と組んで行われる人形浄瑠璃に枝分かれした。
その頃の歌舞伎は、せいぜい派手な衣装で踊るだけ。
棲み分けができていた両者の均衡が崩れたのは、歌舞伎の世界で浄瑠璃の筋を下敷きにした狂言歌舞伎なるものが生み出されてからだ。
浄瑠璃が芸術性を重んじていたのに対して、踊りに起源を持つ歌舞伎は自由だった。
衣装から大道具小道具背景に至るまで凝りに凝り、伴奏だけでなく効果音や宙づりや早着替えといった客を沸かせる手法を次々と編み出した。
目で見て分かりやすく華やかな歌舞伎は、江戸っ子特有の大きく咲いて華々しく散る精神に響いた。
浄瑠璃も同じ内容で興行を打つが、同じ筋書きを二度見るのはよほどの通か物好きだ。
結果的に、浄瑠璃の御客は歌舞伎に奪われていった。
客が寄り付かない芸事は続けていくのもままならない。小さな寄席ばかりの座組は金払いを切っ掛けに喧嘩分かれで消えていったし、残った義太夫も細々とした生活を送る。番付に載ったところで、大座敷に呼ばれるわけでも客が殺到するわけでもないからだ。
報酬は少なくとも誇りが芸を支えている、義太夫とはそういう世界だった。
その中でも、娘義太夫は少しばかり立ち位置が異なる。
十五、六の少女たちが、華奢な体に男のように裃を着けて、遊女のように白粉を塗って紅をさし、嗄れていない麗らかな声で語るのだ。
物珍しい一席に、面白さ以上の価値を見出す男は数知れない。
春をひさごうと多めの銭を盆に載せたり、食べ物で釣って仲良くなろうとしたり、仕事にも行かずに家からの行き帰りをつけて回ったりするような屑野郎もいる。
琥珀が輩と違うのは、下品な妄想をしない一点のみだ。
瑠璃を嫁にもらおうと狙っているが、あれは単純に自分の屋敷に置いておけば楽しそうという興味だ。組み敷いてどうこうしようという発想がない。
贈り物の見返りを求められたことは一度もないし、どんなに粗暴に扱ってもめげない。
顔が良いから、つきまとわれても暑苦しくないのは利点だ。
家に入れて食べ物を貢がせたら追い出せばいい。
琥珀がいるかぎり、瑠璃は、霜月長屋の家賃と換え弦の費用だけ考えていればいい。
そう暢気に思っていた。
梅雨の脅威にさらされるまでは。
「酷いな」
雷門の裏手にいそいそと出勤した瑠璃は、自分のヒラキを見て眉をひそめた。
丸太と菰で作った簡素な小屋は倒壊しており、床几を置いていた辺りは大きな水たまりになっている。
ぽたりと降った水滴で、水たまりが波立つ。
空を仰ぐと、雷門の屋根の端から長雨の絞りかすのような雨垂れが落ちていた。
「あれが原因か……」
大雨で滝のように流れた雨が、ヒラキの天に張っていた菰を突き破り、地面をえぐって丸太を倒したのだ。
水たまりに浮かんだ提灯を拾うと、泥水で『瑠璃』の字が滲んでしまっている。これはもう使えない。
丸太も六本立ていたうちの三本が盗まれていた。材料が無ければ、銭のない身では立て直せない。
義太夫としていられる場所を失った瑠璃の心は、濡れた体より冷たくなった。
「あーあ。ずいぶんと派手に壊れたね」
振り向けば、琥珀が緋色の番傘を差しかけてくれていた。
「あんた、公演は?」
「これからだよ。湿気で気が塞ぐから、先に瑠璃の顔を見ておこうと思って」
真っ赤な元禄袖を口元に当てて、琥珀は麗しく笑った。
瑠璃は琥珀と対面すると、女形とは皆こういうものなのかと不思議に思う。
役者らしく若衆髷を結い、野郎帽子を被って女物を着て、調子づいている時は下がりの簪を挿す。それだけなのに、振る舞いの一つ一つが町娘より女らしく見えるのだ。
琥珀が持っていると破れかけの番傘さえ華々しく、すわ赤姫が持っていた傘御か、と返事もないのに問いかけたくなる。
琥珀と瑠璃は、同じ江戸にいても住む世界が違う。
方や貧乏な娘義太夫、方や大盤振る舞いの立女形。だが琥珀は、瑠璃を見下さない。
それが瑠璃の調子を狂わせている事にも気づかない。
「昨日の雨は酷かったからね。倒れた丸太を見つけた誰かが持って行ったんだろう」
「迷惑だ。犯人が分かれば取り返すのに」
「犯人を見つけるのが難儀だよ。ここは天下の浅草往来。人々が来ては去る江戸一番の盛り場だ。両国橋の袂みたいにお上の一存でしょっ引かれることもないから、表向きは皆お行儀良くしてる」
浅草猿若町にある華座は、芝居小屋として公的に認められた一座である。
対して、東両国にあるような見世物小屋は無許可だ。
火事が延焼するのを防ぐための火除地なので定期的に検分が入る。土地を勝手に占拠していた芸人は、菰と丸太で作った小屋を素早く解体し、江戸を出て名古屋や上方へと姿を消す。ほとぼりが冷めたら戻ってきて、またすぐに壊せる小屋を建てるのだ。
鼬ごっことは彼らのための言葉だろう。それを参考に作ったのだから、瑠璃のヒラキが壊れやすいのは当たり前だった。
だが、今は時期が悪い。
「どうしよう、帰る家もないのに……」
瑠璃がこぼすと、琥珀はしっとり濡れた髪を払って立ち上がった。
「霜月長屋はどうしたの?」
「吹っ飛んだ」
昨晩の嵐は、瑠璃が借りている霜月長屋をも襲った。
行灯の火を吹き消して眠りについたら、真夜中にごうっと風が吹き込んできた。安普請の長屋は大きく揺れ、建付けの悪い腰元障子が一瞬で吹き飛ばされる。
まさか、あやかしの襲撃か。
瑠璃は命より大事な三味線を抱き締めて目を凝らしたが、妖しい影は見えなかった。
となればこれは天災。つむじ風というやつだ。巻き込まれれば空にまで飛ばされる。
煎餅布団を抜け出して壁に張り付き、やっとのことで息を吸って吐いてしていると、隣の大工が「お瑠璃ちゃん、生きてるか!」と叫んだ。
「返事をするのと、三味を守るので手一杯だった。風が止んで部屋を出たら、向こう正面の長屋の屋根と戸は飛んで、奥にある厠も壊れていた。家財は濡れて全部おじゃんだ。差配に別の長屋を斡旋されたが、どこも浅草から遠くて……。ヒラキで寝泊まりしようと思ってここへ来たら」
「こっちも壊れてたってわけだ」
瑠璃がこっくり頷くと、ぽつりぽつりと降る粒が大きくなって、あっという間に本降りになった。ここにも長くは居られないようだ。
瑠璃は体の影になるように三味線を抱えた。濡れると皮がだめになってしまう。
「あんたの傘を貸してくれないか。千住辺りの旅籠で寄席をさせてくれるよう頼む」
無償で寄席を行うと言えば、客間は無理でも物置くらいなら泊めてくれるだろう。
町を彷徨って追剥に身ぐるみ剥がされるよりずっといいと思ったが、琥珀は体をひねって傘を遠ざけ「それは無理」と意地悪した。
「娘義太夫が旅芸者の真似事をするもんじゃないよ。寄席に拍手をくれた酔っ払いが、夜中に布団に入ってきたらどうするの。匕首を突き付けられるかもしれないし、三味線を壊すと脅されるかもしれない。娘義太夫を夜鷹よりは上等な女郎だと思ってる輩なんかいっぱいいるんだよ」
「そんなのが来たら、股間を蹴飛ばしてやる」
「瑠璃の蹴りじゃ子猫だって逃げないよ」
「は? だってお前……」
あたしに蹴られると痛がって離れるじゃないか。
強く言ってやろうとした瑠璃は、琥珀の心配そうな顔つきを見て急に腑に落ちた。
あれも演技か。自分は部屋に入れても怖くない男だと示すための。
狐に化かされていた気分で口を閉ざす瑠璃に、琥珀はいかにも優しそうな声で語りかけた。
「それよりか、ずっと安全な場所があるよ。瑠璃、僕の屋敷においで」
「あんたの?」
琥珀の屋敷は、木挽町にあると聞いたことがある。
浅草近くの芝居町ではなく、三十三間堀川の東の、大名の別邸があるような武家地に門を構えて暮らしているのだ。贅沢の極みである。
「部屋はたくさんあるし、仕舞屋だから夜中も三味を弾き放題だ。布団に入ってくる酔っ払いもいない。僕は稼ぎが良いから店賃は取らないよ。最高だと思わない?」
「嵐の過ぎた霜月長屋よりは良さそうだ。あんたが顔を見せなければね」
憎まれ口をきいたつもりだったが、琥珀はにこりと微笑んだ。
「近づかないようにするよ。僕と距離を取っていた方が、死ににくいみたいだから」
「は?」
今、死ににくい、と聞こえたような。
いぶかしむ瑠璃の手を、琥珀はぎゅっと握った。
「そうと決まったら行こう。僕は昼に少し出たら終わりだから家まで案内するよ。それまで三味が濡れないように休んでて。芝居茶屋にいてもいいし、華座の奥にいて僕の名前で仕出しを取ってもいい」
「ちょっと待て。あたしは行くって決めてない」
「大丈夫、大丈夫。見てから考えてくれてもいいから」
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