「しーっ」


 瑠璃の赤いくちびるを、琥珀は指で留めた。


「僕は分かってるよ。でも、それを言ってはだめなんだ」


 正直者の瑠璃には察しづらい事かもしれないが、組織に属する人間というのは、小さな不祥事に目を瞑る判断も必要だ。

 琥珀が指を離すと、瑠璃は不服そうな顔で口を閉じた。細い肩から羽織が落ちそうになったので、直してやろうと琥珀がつまむと、ずっしりと重い。


「うわあ」


 見れば、先ほどの小鬼たちが、わんさかと羽織にまとわりついていた。

 肩や腕の横から、恐る恐るといった様子で顔を出して、清元の様子をうかがっている。


「この子たち、助けた人間が怖いのかな?」


 琥珀が首を傾げると、べべん、と三味の音が響いた。


「え?」


 瑠璃は弾いていない。片手に持った三味線が独りでに鳴ったのだ。


「小鬼といえど鬼は鬼。人の隙を見逃しはしない」


 三味線を構え、撥を手にして、瑠璃は、小鬼と同じ方向を見ながら語り出した。


 ――浮かれがらすのただ一羽 ねぐらに帰る川端で 竿の雫か濡れ手で粟――


「瑠璃、どうして厄払いを……」


 もしや誰かがあやかしに取り憑かれているのか。

 琥珀は、ばっと力弥を見たが、彼は目を丸くするばかり。

 異変があったのは、小波の方だった。

 清元から手を放したかと思うと、耳を塞いで頭を左右に振る。


「うるさい、うるさい、うるさくてかなわんわ!」


 頭をもたげた小波は、もはや愛らしい娘ではなかった。

 顔にはいくつも皺が走り、油で固めた結いは崩れて、頭には小鬼とは比較にならない大角が伸びていた。

 清元は青ざめて後ずさった。


「なんということや。小波が鬼になってしもうた……」

「誰のせいで、こんなになったと思うとるんや!」


 小波は、かっと目を見開き、二重三重にたわんだ怒号をあげた。


「夫婦になりたいと頭まで下げたんに、うちと力弥さんを添わせへん言うたのはお父ちゃんやで。才能がないから清元は継がせへんて、力弥さんを破門にしはったやないの!」


 琥珀は怪訝な表情で竹本を見た。


「清元さん、あなたそんなこと言ったの。力弥は才能があるって可愛がっていたのに」

「む、娘を取られるとは思わなかったんや。力弥が小波を慕ってとると気づいていたら、贔屓などせんかった!」

「結婚に反対したいがために、一番弟子を破門なんてめちゃくちゃだよ」


 名跡が晒す人間くささに琥珀の鼻は曲がりそうだった。

 気分で破門を言い渡して一門が続けられるほど、芸事の世界は甘くない。

 ましてや、それで犠牲になるのは小波の心だ。いくら娘が愛しくても、やってはならない事である。


「うちは、お父ちゃんが憎くて憎くて泣きながら夜を明かして気づいたんや。お父ちゃんが去ねば、力弥さんはうちと添うて三味線を弾いて生きていける。そう思いついたら、もう殺しとうて殺しとうてたまらんかった!」


 恋に狂った小波は、自分の父親を殺したい願望に取り憑かれた。

 そして、理性や道徳といった人間らしさをかなぐり捨てて、鬼女へと変貌を遂げてしまった。


「お父ちゃんの撥を盗んで梁に載せたんはうちや。お父ちゃんが梯子を登っていったのをつけて、後ろから殴って転がして縄を首にかけて……あとは落ちれば完璧やったんに!」


 顔に皺を走らせて叫ぶ小波に、清元はいよいよ本気で恨まれていると気づいたらしい。震えながら愛娘だった化け物を見る。


「小波。そこまで力弥を思うとるんか。なんでそいつがええんや。お前が望むならもっといい婿を探してきてやるんに」

「うちの人生やのに、どうしてお父ちゃんが決めるんや。そうやって何でも思い通りにできると思うとるところが大嫌いやわ。いっそ、しね、しね、しね、しね!」


 小波は清元を蹴飛ばした。ほうほうの体で逃げようとする父を、なおも追いかける小波を止めたのは力弥だった。


「小波さん。苦労して育ててくれた父親に、そんなことをするもんじゃない」

「なんで止めるんや。力弥はんだって、うちと添えなくて、しかも破門にされて、お父ちゃんを殺してやりたいほど憎んでいるはずやろ!」

「憎んではいないよ。執着してまで弾くものじゃないんだ、三味は。清元流を破門されてもどこかに三味線弾きの仕事はある。本当は今日、小波さんに別れを告げるつもりだったんだ。破門された自分では、今のような暮らしはさせてあげられない」

「な、なにを言うてんの。今さらうちを捨てる気。そんなん許さへん。そんなことするなら、あんたも殺してやる!」


 力弥を突き飛ばした小波の影が濃く大きくなった。

 頭に大角がある影は、小波の体からはみ出している。

 瑠璃は、にいと唇を引いた。


 ――一文の銭と違ってあやかしもの。こいつは春から縁起がいいわえ。


 途端に突風が吹いて、小波を中心にとぐろを巻いた。


「きゃああっ」


 猛々しい勢いで影を巻き取った風は、瑠璃の小さな口に吸い込まれていった。

 後に残るは、髪を振り乱した小波が一人。

 大きな目で瞬きして、周囲を見やる。


「あら、うち今なにしてたん。力弥さんも、お父ちゃんも、なんで尻もちついてんの?」


 憑き物が落ちてちゃきちゃき動き出した小波は、清元の体を支えた。

 白粉を叩いた顔には皺がない。あれほど目立っていた角も消えている。


「撥が見つかったんやね。お父ちゃん。よかったやないの」

「小波、お前もうええんか?」


 人が変わったように優しくなった小波に、清元は動揺している。


「もう心配ない。小波がああなったのは、鬼に取り憑かれていたからだ」


 瑠璃が説明すると、安堵したように涙ぐんで娘の手を取った。


「そんなに力弥と一緒になりたいんか」

「そう言うたやろ。お父ちゃんが破門にするなら、二人で上方にでも行って、一から三味線弾きとして成り上がって、お父ちゃんの方から力弥さんに戻ってきてくれって泣きつかせたるからな。それまで孫の顔は見せてあげへんよ」

「分かった、分かった。認めるわ。力弥、この跳ねっ返りをよろしく頼むで」

「ありがとうございます、師匠」


 力弥は、その場に手をついて低頭すると、小波と視線を合わせて笑った。

 こういうのも大団円と言うのだろうか。

 匕首に手をかけて事態を見守っていた琥珀の耳に、瑠璃の呟きが飛び込む。


「……ごちそうさま」


 背中に小鬼をくっつけて奈落のそばに戻った瑠璃は、気持ちよさそうに弦を弾いた。

 あやかしを食べて満たされたのか。それにしては表情が可愛い。

 多分、小波と力弥が認められて嬉しいのだ。


「幸せな結末の方が、やっぱりいいよね」


 セリの縁には、羽織から下りた小鬼が並んで、音曲に耳を澄ませている。

 瑠璃が節をつけて語り出したのは『妹背山婦女庭訓』。

 浄瑠璃の人気作で、王代物と呼ばれる公家を舞台にした叶わぬ恋人達の物語だ。

 妹背は愛し合う男女をさし、中では女の戦いも描かれる。

 世俗的な恋を説く演目を、瑠璃は気分がいいときに語る。


 ――古は神代の昔山跡の 国は都の初めにて 妹背の初め山々の 中を渡るる吉野川 塵も芥も花の山 実に世に遊ぶ歌人の 言の葉草の捨て所――


 段の終わりでもないのに小鬼は拍手喝采だ。

 立ち上がった清元は、舞台袖から顔を伸ばした。


「いい音や。あの娘義太夫、素人さんかい」

「ぽっと出だけど素人より弾けるよ。僕、あの子の三味が好きなんだよね。力弥のも力強くて好き。思い切って流派を任せてみたらどうですか、清元さん」


 清元は、力弥と寄り添って浄瑠璃を聞いている小波を見て、しゅんと背を丸めた。


「そうしますわ。また鬼になられてはかなわん」

 

 

 雷門の裏手にあるヒラキの中で、瑠璃は三味線の駒を回して調弦していた。

 床几には琥珀がいて、ふてぶてしい顔で見つめてくる。


「今日くらいは休んだら? さっき厄払いしてお腹はいっぱいでしょう」

「休んだら店賃が払えない。売れっ子のお前とは違う」

「僕と一緒になったらいいよ。僕が帰ってきたら、三つ指突いて出迎えてほしいな。お前さん今日もお疲れ様、なんて瑠璃に言われた日には、何でも買ってあげちゃう」

「いらない。あたしが欲しいのは舞台と客とおあしだけだ」


 あがる舞台がなければ芸なんてただの手慰み。

 娘義太夫は三味線を持った素人で、歌舞伎役者は派手で声の張る奇矯者だ。

 おんぼろ小屋でも提灯を下げれば瑠璃にとっての舞台になる。

 華座に比べたらみみっちくても、御客を入れられる大事な場所だ。

 琥珀はいよいよぶうたれて片膝を折った。


「……僕、瑠璃の浄瑠璃なら毎日でも聞くよ。うちにきてよ」

「しつこい。あんまり言うと、あたしも鬼になるぞ」

「瑠璃が鬼に?」


 女が鬼になるのなら、瑠璃もいつか小波のようになるのだろうか。

 声を荒げて家族を蹴り、殺してやると叫んで襲いかかってくる――。

 鬼になった瑠璃を想像した琥珀の体に、雷が走った。


「いける……」

「は?」

「僕は鬼になった瑠璃でも愛せる。だって瑠璃ったら、いつも僕のこと殺すような目で見てくるもの。化けなくとも瑠璃は、もう鬼そのものだよ」

「そうか。さっさと帰れ。二度とそのあほ面を見せるな」


 冷や水より冷たい声をかけられたが、琥珀は物怖じしなかった。

 女は鬼に化ける。

 琥珀は女に化ける。

 人は誰しも演じながら生きている。

 だから、瑠璃にも、少しくらい化けてみてほしい。

 個人的な事情により、琥珀はちょっとやそっとのことでは驚いたりしないのだから。


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