四
二人で花道に膝をついて、そうっと覗きこむと、矢立てに帯を結んだ娘がかがんで何かを探していた。
「そこで何してるの?」
琥珀が呼びかけると、娘はふっと上を仰いで安堵の息を吐いた。
「あらぁ、琥珀屋はん。わたし小波です。三味線方の清元の娘の。昨日、父の撥をどこかに落としてもうて、探しとりますの」
小波は、白粉をはたいた顔が小作りな娘だった。話し言葉は流暢な上方弁だ。
芸事の大本山はあちらだが盛んなのは江戸の方なので、実力のある芸者が東海道沿いに越してきて定住する事はままあった。
清元といえば、瑠璃でさえ知っている三味線方である。
「失せ物探しなら付き合うよ。どんな撥?」
「鼈甲で出来とって、大きさは、ええっとどのくらいやったっけ」
「このくらいか?」
瑠璃が自前の撥をかざすと、小波は手を打って「そうそう」と頷いた。
「そのくらいやったわ。お父ちゃん、あれでないといい音は出えへんて、見つかるまで舞台には上がらんと言うのよ。お弟子さんも遠慮して、そんなら自分も休むと言い張って」
「それで、清元流はしばらく休むって運びになったんだね」
華座が休演したのは、小波の父が発端だったようだ。
小波は、丸留めの簪を差した鴛鴦(おしどり)を左右に振る。
「華座にまで迷惑かけて、娘として恥ずかしくてかなわんわ。それに、お父ちゃんが三味線弾いてくれへんと、わたしたち飢え死にしてまう」
「事情は分かった。表に出ておいでよ。昨日、清元さんがいたのは舞台上ではなくて黒御簾の方だ。そちらを探した方がいい」
琥珀が黒御簾を下げた筒に入ると、そこにもかがんで失せ物探しをする人物がいた。
菊五郎格子の裾を物売りのようにまくって、大太鼓の下に体をもぐり込ませている。
「なんだ、お前まで捜しもの?」
「へえ」
びくっと肩を揺らして男は立ち上がった。琥珀を見るなり、頭二つ分も高い背を申し訳なさそうに丸める。
「誰かと思えば琥珀さんでしたか。師範の撥が無くなってしまったそうで、小波さんと一緒に探していたんです」
男は清元の愛弟子である力弥だ。
几帳面な若者で、幕がない日でも月代を丁寧に剃って肌を青々とさせている。
琥珀と力弥が舞台に戻ると、舞台に上がってきた小波は、途方に暮れた様子で力弥にしな垂れかかった。
「困ったわぁ。これじゃあ、祝言だって挙げられない」
「すまない、小波さん。俺の稼ぎが足りないばっかりに……」
「そないなこと言わへんで。力弥さんは、芸事のことだけ考えといたらええ」
やけに近いなと眉をひそめていた瑠璃に、琥珀が耳打ちする。
「小波と力弥は恋仲なんだよ」
「それで、あんなにくっついているのか」
師の娘と弟子が結ばれるのはままある。芸事は、次代に伝承していかねばならない性質上、一門の者との結婚が一番歓迎されるのだ。
だが瑠璃は、小波の話を聞いていて嫌だなと思った。
三味線弾きは、金のために弾いているのではない。音曲に奉仕しているのだ。
結果的に日銭が手に入るのであって、金の沸く泉のように言われたら、いくら名跡と言われる父親でも弾くのが嫌になってしまうだろう。
だが小波はそれが分からないらしい。うんざりと首を振った。
「お父ちゃんだって、力弥さんが跡継ぎになったら安心やろ。少しくらい我がまま言っても聞いてくれはるわ。あとは撥さえ見つかったらええんやけど」
「それなら、瑠璃が役に立つよ」
琥珀は、瑠璃の両肩に手を当てて自慢げに紹介した。
「この子、失せ物さがしが得意なんだ。なんせ、あやかしを呼び出せるんだから」
「あやかし?」
小波と力弥が、ぎょっとした風に瑠璃を見下ろした。
「お前、勝手なことを言うな」
瑠璃は琥珀の手を叩いた。いきなり話に出されて怒りより戸惑いの方が大きい。
「あたしはここに出る鬼と知り合いじゃない。よしんば呼び出せても教えてくれないかもしれないだろう」
「そこはこれ。やってみないと分からないじゃない?」
琥珀と瑠璃が「できない」「できる」と押し問答している横で、小波は首をひねった。
「あやかしを呼び出せるって、神通力みたいなもんかいな。よう分からへんけど、やってくれたらありがたいわ。どうやるん?」
微笑まれた瑠璃は、観念して背負っていた布包みを下ろした。
「あたしは娘義太夫だ。浄瑠璃しかできない」
結び目を解くと、中から出てきたのは商売道具の三味線だ。
長い竿に三本の弦を張っているところからこの名が付いた楽器は、三つの部品で出来ている。
頭は天神という。弦の張り具合を調節する駒が差し込まれていて、簪をいくつも挿した花魁の頭のようなのでこの名が付いた。
太棹は、様々な木で作られるが、瑠璃が愛用しているものは紅木と花林の合わせだ。しなりがよいので、粘りの強い音を響かせられる。
銀杏型の撥で弾く胴には猫の皮を張っている。
音を大きく響かせるために一番いいのは年老いた猫の腹の皮だ。若い猫だと皮が薄くて音が弱くなるのである。
艶のある棹と真っ白な胴を見て、力弥は「いい三味だ」と誉めた。
「特に胴に張っている皮が良いね。傷がなくて厚い。長生きした猫の腹だ」
「だろうな。化け猫になるくらいだから」
「ばけねこ?」
「はいはい。話はそこまでにして。僕らは枡席に下りて聞こう」
琥珀は、小波と力弥の背を押して舞台を下り、枡席を縦横に仕切る梁に腰かけた。上手く誤魔化してあげたよと言わんばかりに片目をつむられたが、瑠璃は知るものかと思った。
誰のせいでこんな目にあっていると思っている。
こういう男だと知っていたのに、芝居小屋を見られると淡い期待を抱いて、のこのこついてきたのが間違いだった。
奈落の手前に座った瑠璃は、三味線を左手に構えて、右手で撥を振るった。
べべん、と小気味いい音が鳴る。
この音を聞くと、瑠璃の背筋は上から糸で吊られたようにしゃんと伸びる。
――さても源牛若丸 父の修羅の魂魄を慰めんと 川風添ゆる夜嵐の夕べ程なき――
今日の獲物は鬼なので『鬼一法眼三略巻』にした。
瑠璃が語り出すのに合わせて、琥珀は目を光らせて舞台を俯瞰する。幽鬼が見える類の人間ではないが、瑠璃が呼びだしたあやかしは何故か目に映るのだ。
紅玉の訴えでは、鬼は真っ赤な肌の子どもだったらしいが……。
「娘義太夫って、こんなに綺麗なんやなあ……」
小波が熱い溜め息を吐いた。
「本当に綺麗な娘義太夫だ……」
同じく見蕩れていた力弥は、小波に膝を抓られた。琥珀がそれを見て笑った刹那、赤いものが視界の端で動いた。ちょうど瑠璃がいる辺りだ。
視線を向けると、義経千本桜の四の切で跳ね回る狐忠信みたいに、小さな鬼が一匹、二匹、三匹と奈落の底から飛び上がってきた。
「ひゃーっ!」
小鬼が見えた小波は、悲鳴をあげてひっくり返った。
力弥には見えていないらしく、小波の背を抱えて困っている。
「瑠璃!」
琥珀が舞台に駆け上がると、瑠璃は演奏を止めて、横に並んだ小鬼を睨む。
「なんだ、このちみっこい奴らは」
「噂の鬼だよ。僕もまさか下から来るとは思っていなかったけど」
小鬼は琥珀の膝くらいの背丈だ。腰に雷模様の布を巻いていて、体つきは赤子のようにぽっちゃりしている。なだらかな額には一本の角が生えていた。
「絵双紙から出てきたみたいだ。だっこしてもいいかな。聞いてみてよ、瑠璃」
「待て。様子がおかしい」
小鬼はキーキーと鳴きながら上を指している。
なんだと思って琥珀が目を凝らすと、梁のから人の腕がだらりと垂れ下がっていた。
手に握りしめているのは、鼈甲の撥だ。
「誰かが上で倒れている。手の甲に大きな痣が見えるな」
痣と聞いて、小波が飛び起きた。
「それ、お父ちゃんだわ! お父ちゃん。そんなところで何寝てはるの。起きてえな!」
小波が呼びかけると、清元の手がびくっと動いた。
危ない。細い梁の上で急に起き上がれば転落する可能性が高い。
「力弥。小波を黙らせて」
琥珀は袖に走った。歌舞伎では、天井から役者を吊り下げて客席の上を浮遊させる宙乗りという演出がある。そのため、梁に上がる梯子があるのだ。
梯子の下には清元の下駄が揃えてあった。自分の意思で梁に上ったのだろうか。
稽古で鍛えた足で梯子を駆け上った琥珀は、太い梁に横たわる清元を見た。
そして、すぐさま異常に気づいた。
「これは……」
清元の首に、輪に結んだ縄がくくり付けられている。
もしも起き上がって落下していたら、そのまま首をくくっていただろう。
明確な殺意に背が凍るが、縄の結び目は蝶々だった。縛りが緩かったので、匕首は出さずに指で解いていく。
「華座の人間なら、こんな柔な結び方はしない」
舞台で使う縄仕掛けは、男が数人がかりで引っ張って締め上げる。本番中に解けたら、大事故に繋がるためだ。締められる方は苦しいが耐える。
美しい衣装に身を包んでしなを作っても、歌舞伎役者は男。下手なところで遠慮する必要がないから様々な演目が発展して、江戸っ子に支持されてきたのである。
「う、うう……」
唸って目を開けた清元は、自分に覆い被さっていた琥珀に驚く。
「琥珀さん、何してるんです」
「まだ動かないで。ここは梁の上だ。下手したら二人とも落ちて死んじゃうよ」
「ひえっ。あたしゃ気を失っていたんですか。梁からちょいと撥がのぞいているのが見えたんで、梯子で上ったら、後ろからがつんと殴られたのは覚えてるんですが……」
清元の額にぶわっと汗が噴き出す。
当たり前だ。御年六十も近い三味線弾きが、高い場所に慣れているはずがない。
琥珀が手を貸して梯子をゆっくり下らせると、袖で待っていた小波が抱きついた。
「お父ちゃん、よかった、よかったぁ」
「小波、お前は年頃なんやから、もうちっとお淑やかにしな。力弥もあたしを探していたのかい」
「探していたのは、師匠の撥です。小波さんに手伝ってくれと言われて……」
師匠と愛弟子のはずなのに、清元と力弥の間に流れる空気が悪い。
仲違いでもしているのかと訝しがる琥珀に、三味線を抱えた瑠璃が寄ってきた。
「上には何かいたか?」
「なにも。清元さんが寝ていた。それだけだよ」
首に縄がかかっていた事を、琥珀はあえて口にしなかった。
近くには清元本人がいる。誰かが自分を殺そうとしたと知ったら、娘の祝言費用を稼ぐどころではなく引退してしまいかねない。
清元は浅草界隈で最上の三味線弾きだ。ここで失うには惜しい人材だった。
「撥を探していて、転んで頭を打ってしまったようだね」
「それはおかしい。撥が、うっかりであんなところに飛ぶわけがない。故意にあそこに置かれたんじゃ――」
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