「酷いよ、瑠璃。僕はこれでも浅草一、いいや江戸一の女形だよ。商売道具の顔を平手打ちなんて、浅草寺の観世音菩薩ですら血相変えて叱りにくる悪事だよ」

「うるさい。黙って歩け」


 頬に紅葉のような手跡を付けた琥珀は、綾織りの袋に入れた三味線を背負った瑠璃と付かず離れずの距離で猿若町までの道を歩いていた。

 華座は休演日といっても浅草の混み合いは変わらない。はぐれてしまうと大変なので、瑠璃の手首を琥珀が掴む。

 仲見世の外には、瑠璃が建てているようなヒラキがいくつもあり、手妻師や講談師が日銭を稼いでいる。東両国の見世物小屋では、やれ奇矯なる猫娘だ、大イタチだ、馬の曲芸だと見境ないが、こちらはお上の目が行き届いた娯楽場なので、宮地芝居や絡繰、浄瑠璃など治安の乱れに繋がらない出し物ばかりだ。

 瑠璃のように美しい娘義太夫が昼の寄席に出たら、客が殺到するだろう。だが、彼女は闇が辺りを包む頃合いにしか三味線を弾かない。

 吉原の遊女だってもう少し働くが、琥珀にとってはそれも僥倖。

 瑠璃が控えめであればあるほど独り占めできる。

 顔馴染みである水茶屋の看板娘に手を振ると、彼女はぽうっと頬を染めてから、手を引かれる瑠璃に気づいて鬼の形相になった。


「美人って怒ると迫力があるよね、瑠璃。……瑠璃?」


 腕が重くなったので振り返ると、瑠璃は絵双紙屋を見ていた。

 写楽や広重、鳥居派の浮世絵が隙間なく並べられ、一枚二銭で売られている。中でも人気なのは役者絵だ。安くて嵩張らないので、芝居見物の土産としても好まれる品である。

 軒先に重ねられた枚数を見ると、その役者の人気が分かると言われている。

 人気の姿絵ほど、よく売れるからだ。

 琥珀の赤姫は一番の売れ線で残りわずかだった。


「欲しいなら買ってあげるよ。僕の絵でいい?」

「ありがとう。竈に火を付けるのに使う」

「さすがお姫。あとで五百ぐらい発注しておくね」


 火種に紙はさほど使わないので、五百枚もあれば燃やしきるまで十年はかかる。それだけ長い間、瑠璃のそばに自分の姿絵があるのは愉快だ。

 上機嫌で進んだ琥珀は、瓦葺の立派な建物にたどり着いた。


「ここが華座だよ」


 目を引くのは真正面の物見櫓だ。人寄せの太鼓を叩く場で、一座の紋である蔓桔梗が描かれた幕が三方に張られている。櫓はお上に興行を認められた江戸四座の印であり、これにちなんで四座は本櫓とも呼ばれている。

 ちょいと左に視線を流すと、その月の演目が一幕からずらりと並ぶ。初日には木戸芸者が立って狂言の演目や配役を読み上げ、役者の声色を真似て観劇をあおる。その出来によって、客は目当ての幕だけ見るか、長居するか決めるのだ。

 芝居は明け六つ頃から暮れ七つまで。大体が一番目と二番目の二本立てだ。

 札売り場で見料を払うと、櫓の幕と同じ色の暖簾の下へ案内される。

 鼠木戸をくぐれば、そこはもう広々とした客席だが、今日は固く閉じられている。


「御客を入れないから留場もいないんだ。僕が裏から入って開けてくるよ。少し待っていてね」


 琥珀は小脇の格子門を通り、勝手口から小屋に入った。程なくして木戸が開く。

 中に入った瑠璃は、奥から吹いてきた冷えた風に体を震わす。


「寒いな」

「熱が籠らないように、天井にも風穴が開いているんだよ。御客を入れると人いきれで暑くなるからね」


 そう言いながら、琥珀は瑠璃の肩に自分の羽織をかけてやった。普段から女子の格好をしているので着物も女物なのだ。羽織は桜色。瑠璃色の着物に重ねると桜餅のようだ。

 舞う花びらのように裾をひらめかせながら、瑠璃は席へと進んだ。

 広がるのは本花道と反花道に挟まれた升席だ。萌黄色と柿色、黒の定式幕がかかった舞台を前に、両壁には高見の桟敷席が三階まで積み重なっている。

 桟敷の上は回り廊下になっていて、障子戸から差し込む光が舞台を明るく照らす。


「広い……」


 思わずと言った声が漏れ聞こえたので、琥珀は誇らしくなった。


「すごいでしょう。ひとたび幕が開けば、ここは老若男女さまざまな人々で埋め尽くされるんだ。桟敷にはお偉方が、枡席には町人が羅漢台まで詰めかけて、家族や友人と芝居を楽しむんだよ。酒を飲む人、眠っている人、お見合いをする人までいる」

「こんな騒がしいところで見合いをするのか?」

「さりげなく出会える場所だから都合がいいんだって。振り袖でめかし込んだ娘を見たら放っておくのがここの礼儀だ」

「まるで芝居は添え物だな。演じる方は気が気じゃないだろうに」


 演者にとって舞台は恐ろしい場所である。御客が入ると特にそうで、大波で荒くれる海のようにも、底なし沼のようにも見える。

 琥珀は三歳で初舞台を踏んだが、物心ついた十二の頃には舞台が燃えさかっているように見えた。経験不足から来る心の弱さがそう見せていたのだろう。

 怖さは己の弱さが産み出すもの。それを自覚してから琥珀の芸はぐんぐん上達し、先輩役者を追い越して、華座の人気を支える立女形まで上り詰めた。

 指名された当時の琥珀はまだ十七。訳あって中二階の大部屋ではなく三階の楽屋を使っていたが、当然のごとく若すぎるという声が内外から噴出した。

 しかし、やっと本櫓入りした華座が他の三座と肩を並べてやっていくには大胆な挑戦が必要だ。華座を仕切る華山青吉は、座元でありながら頭を下げて芝居者や奥役、華座贔屓まで集め、琥珀の独り舞台を見せた。

 そこで、今まさに花開いた一輪の、瑞々しくも確かな演技力を見せつけた琥珀は、見目の美しさも相まって華座の名に相応しいと太鼓判を押され、立女形に収まったという。

 瑠璃は、義太夫としてここまでの大舞台に上った経験はないが、演じる側の人間だ。芸事を見せるのがどれだけ勇気のいる行為なのか知っている。

 琥珀の独り芝居は見ていないが、たぶん奈落に突き落とされるように怖かっただろう。


「舞台に上ってもいいよ」

「いいのか。女なのに」

「お上が禁じているのは女子どもが歌舞伎をやることだよ。歩いたって雷は落ちないさ」


 それならと、瑠璃は慎重な足どりで進んで行った。

 ふわりと漂う木の香りに包まれながら舞台へ上がり、下りたままのセリに気をつけながら中央に立って、広い客席をゆっくりゆっくり見回すと、沸々と心の奥が沸き立った。


「すごい」


 今はがらんと寂しい席が、自分目当ての御客で大入となる場面を想像する。すると足がうずうずして、飛び跳ねたいような逃げ出したいような不思議な気持ちになった。

 桟敷を見上げていくと、下手側にある黒御簾の一角が目についた。


「ここは?」

「そこは床という場所。語りの義太夫や三味線弾きが座る席で、御客からは見えないようになってるんだ」


 歌舞伎の伴奏は四種。長唄、義太夫、常磐津、清元がある。

 長唄は、細棹に合わせて詞を歌う。明るい調子で、チントンシャンと響くので分かりやすい。

 義太夫は、義太夫狂言の事で、太夫がしぼり出した声で心の内を語り、三味線が弦で合いの手を入れる。

 常磐津は、義太夫節よりも音曲が派手。語りも三味線も叙情的で、江戸っ子の好みに合わせた江戸発である。

 清元は、常磐津からの派生で、中棹を使って高音を多用した技巧的な伴奏だ。

 どれも三味線と語り手がいて、形だけ見れば浄瑠璃に近い。

 瑠璃が語る浄瑠璃と、琥珀が演じる歌舞伎には、浅からぬ繋がりがある。

 歌舞伎とは、音楽と舞踊と技芸の集合体。

 能狂言の舞台性、浄瑠璃の物語性、人形浄瑠璃の装飾性から良いところ取りして、派手な演出や衣装で味付けした大衆演劇である。

 歌舞伎で使う台本は、浄瑠璃の人気作を脚色したものが多い。

 つまり浄瑠璃とは、歌舞伎の母であり祖なのだ。

 琥珀は、瑠璃と並んで床を見上げながら息を吐いた。


「歌舞伎の演者は男だけという掟があるから、娘義太夫には演奏させられないけど、瑠璃があそこで三味を弾いてくれたらなぁ。僕はもっと美しく舞えるのに……」

その時、舞台に空いたすっぽんから、か細い女の声が聞こえた。

「ないわぁ……やっぱりないわぁ……」


 反響する震えた声に、瑠璃と琥珀は顔を見合わせた。


「なんだ今の」

「件の鬼かな?」

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