琥珀が瑠璃と初めて出会ったのは、雪がちらつく夜だった。

 楽屋風呂上がりの体が湯冷めしないように袷羽織をかき合わせて華座を出る。木挽町にある屋敷に帰ろうと雷門の前を通ったとき、切ない音曲が聞こえた。

 舞台で聞き慣れた太棹の音なのに、不思議と胸にくるものがあった。

 誘われるようにヒラキに入ると、今にも脚が折れそうな床几がぽつねんと置いてある。

 その向こうの、板を渡しただけの簡素な舞台に、三味線を構えた娘義太夫がいた。

 照明は灯し油一つしかない。安い魚油を使っているようで少し臭う。職業柄、空気が悪いと気になるものだが、このときの琥珀は何も考えられなかった。

 闇に浮かび上がる娘の、白い頬と赤いくちびる、吐く息の白さが、目を離した一瞬の隙に消えてしまいそうに妖しかったから。

 どさっと床几に座ると、かくも美しい声で語られたのは、義経千本桜の大物浦だった。

 わずかな緊張の滲む声と色艶を帯びた語り口に琥珀の心は奪われて、意識はあっという間に話の舞台である御裳裾川の流れに飛んでいた。

 後から聞いたらば、師の元を飛び出して初めての披露だったらしい。

 瑠璃の語りに感動した琥珀は、黒盆に有り金をすべて載せた。

 ちょうど月末で持ち金は一分金二朱金合わせて一両分もあったが、瑠璃は少しも嬉しそうではなかった。

 僕相手になんてつれない女子だろうと、琥珀の胸は騒いだ。


 なにせ琥珀はただの男ではない。人気の歌舞伎役者なのだ。

 江島生島事件で没落した山村座の代わりに、中村座、市村座、森田座と並んで江戸四座に数えられるようになった華座を背負う立女形、琥珀屋こと華山琥太郎(はなやまこたろう)といえば、若輩者ながら通好みの演技を魅せると大評判の極上上吉。

 役者紋である笹竜胆の手ぬぐいは飛ぶように売れ、往来を歩けば茶屋の看板娘から色目を送られ、すれ違う町娘を見蕩れさせ、商家の女将に密通を持ちかけられる。一度なんか「舞台で見たお前さんが忘れられない」と、奥女中が奉公先から着の身着のままで押しかけてきた事もあった。

 どれも袖にしたので恋愛には発展しなかったが、これだけの経験があれば誰だって自覚する。自分はとてつもなく持てる、と。

 男女の比率が偏っていて男余りが加速する江戸では、男は自分磨きが寛容。色白の優男を地でいく琥珀には、必ず勝てる勝負が色恋沙汰だった。

 そんな自分に、瑠璃は少しも靡いてくれない。全身がぞくぞくした。

 この美しい娘義太夫は、他にどうしたら喜んでくれるのだ。

 甘味か? 着物か? はたまた花か?

 毎日、様々な物を持ってヒラキに通い詰める琥珀に、瑠璃は「あんたがあやかしだったら食べてやるのに」と、迷惑そうに漏らした。

 ああ、この娘は〝あやかし〟が好きなのだ。胸の奥がじんと熱くなった。


 そうと分かった琥珀は、瑠璃に猿若町に伝わる怪談を教えてやった。

 浅草には、芸事に引き寄せられたあやかしが出る。

 往来に紛れて町をうろつき、暮六つの鐘が鳴っても家に帰らない子どもを、長い爪で捕まえて食べてしまうんだよ。食べられた子は骨だけペッと吐きだされて、朝一番に通りかかる棒手振りが腰を抜かすんだ。

 ようは、夕刻になったら遊ぶのを止めて帰ってくるように言い含める話だが、瑠璃は気に入って「他にそういう話があれば教えろ」と強請った。

 口実を得てヒラキに通い詰めること一カ月。琥珀は、ある場面に出くわした。

 瑠璃が具合のおかしい御客から何かを――厄払いの台詞で引き剥がした、あやかしのようなものを――ちゅるりと吸い込むところに。

 見られた瑠璃はバツが悪そうに「恐ろしいだろ。もう来るな」と言ったが、琥珀の想いは燃え上がった。

 君は格好いいよ、瑠璃!

 思わず抱きつくと蹴り飛ばされた。


 それから三カ月つきまとい、今では、瑠璃が三味線であやかしを払って食べてしまう人間で、昼日中でもじめじめした霜月長屋に住む独身者だと把握した。

 出自は不明で貧乏だが、傾城のような美しさを持ち、どんな男にも靡かない気質を足したら余裕で釣りがくる。

 瑠璃の事を知れば知るほど、琥珀は、嫁にもらうならこの娘しかいないと思った。

 そうとなれば、徹底的に口説く。口説いて口説いて、口説きまくるしかない。

 琥珀は、今日も今日とて手土産の団子を持って、今にも崩れそうな霜月長屋の、裏店の角の部屋の戸を引いた。


「お姫、今日こそ僕と夫婦になろう」

「帰れ」


 四畳しかない畳の上に正座して床本を読んでいた瑠璃は、一息に言い放った。

 琥珀が贈った瑠璃色の小袖を来て、同じ色の手絡を銀杏返しに結った髪に飾っている。人形浄瑠璃で操られる人形のようだが、目元には蔑みの感情があった。

 めげない琥珀は、ずりずりと畳に上って瑠璃と向き合う。


「そう言わずにさ。美味しい三色団子を持ってきたよ。いつも芝居茶屋で出されるのを特別にこさえてもらったんだ」


 笹の葉包みを開けると、桃色と白、草色の団子が四本並んでいた。

 瑠璃の視線が釘付けになったので、琥珀は包みごと薄い膝に載せてやった。


「全部一人で食べていいよ。茶葉も持ってきたから湯をもらうね」

「ありがとう」


 邪険に扱いつつも、お礼は忘れないところが瑠璃だ。

 三味線と撥を丁寧に並べて置き、団子を口に入れる瑠璃をにこにこと眺めながら、琥珀は火鉢で沸かされていた湯で二人分のお茶を淹れた。

 瑠璃は言葉こそ粗雑だが物を大切に扱う。土間にある鉄瓶には琥珀が来るのを見越して水を汲んであるし、家財のほとんどない部屋は拭き清められて心地良い。

 この子が自分の妻になったら、毎日が愛おしいものに変わるだろう。

 琥珀は「あれそれこうしなさい」と主人が言えば、「はいかしこまりました」と考えなく動く武家の妻みたいな女は求めていないのだ。

 年齢も瑠璃は十五、琥珀は十八と適齢だし、瑠璃のような跳ねっ返りなら長生きもしそうではないか。

 串を二本食べ終えた瑠璃の前に、琥珀は湯飲みを出して向かいに座った。


「あんた、いつもより来る刻が早いな。幕はどうした」

「華座はお休みになったんだ。ちょっとした理由があってね」

「理由?」

「三味線弾きや義太夫が一斉に休むって言い出したんで、それなら役者も休もうって事になったんだよ。事故があったり病人が出たわけじゃないから心配しないで」

「心配なんかしていない。休演の理由があやかしなら、食べに行こうと思っただけだ」


 団子を平らげた瑠璃が、赤いくちびるを舐めた。

 小さく愛らしいこの口で、瑠璃はあやかしを飲み込む。

 初めて見た時は、驚いて動けなかった。けれど、今では彼女が食べる姿を、もっと見たいと思うようになっていた。

 瑠璃は、団子も飯もあやかしも、それはそれは美味しそうに飲み込んでしまう。

 どうしてそんな物を食べるのか理由は知らない。知らない方が愉しいからだ。


「……華座にも、あやかしはいるみたいだよ。僕の下に紅玉って女形がいるんだけど、そういうのを感じる性質らしくてね。幕を下ろした舞台に走ってくるのを観たんだって」

「なにを」

「鬼さ」


 琥珀が両手の人差し指を立てて額に当てると、瑠璃は湯飲みを下ろして考え込んだ。


「鬼は女が化けるものだ。安達ヶ原の鬼婆も鬼女紅葉も元は人間だろう。男しかいない野郎歌舞伎の舞台に出るのは妙だな」

「不思議だよね。せっかくだから僕と一緒に鬼探ししてみないかい。今日なら華座に入っても怒られないよ。だって誰もいないんだからね」


 琥珀の狙いはここにあった。

 瑠璃が自分に興味を持ってくれないのは、華座がどれだけ立派な芝居小屋なのか知らないからだ。檜舞台に上がれるのは選ばれし者だけで、しかもその上澄みに琥珀がいると想像が付かないから、簡単に袖にしてくるのだろう。

 それなら、連れて行って実際に見てもらえばいい。賢い瑠璃は、自分につきまとう琥珀が実は江戸一いい男だと、すぐに理解してくれるはずだ。

 目を輝かせる琥珀に対して、瑠璃は「それより稽古がしたい」と冷ややかだった。


「鬼だって歌舞伎を見たい日もあるだろ」

「もしもの事があるかも。その前に正体を暴いておくというのも一興じゃない?」

「あんたのために厄払いする気はない。お腹がいっぱいで歩くの嫌だし」


 瑠璃は自分の腹を撫でた。子どもみたいな駄々に、琥珀は満面の笑みで応える。


「僕がだっこして連れてってあげようか。それともおんぶがいいかな?」


 すると、かちんときたように瑠璃が眉尻を上げた。負けず嫌いなのだ。


「あたしを子ども扱いするな。一人で歩ける」

「迷子にならないように手は繋ごうね」


 子を抱き止める父のように両手を広げると、ぺちんと頬を叩かれてしまった。

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