むすめ浄瑠璃 浅草あやかし芝居

来栖千依

一幕 雷門裏の娘義太夫

 浅草といえば、まず思い浮かぶのが金龍山浅草寺だ。

 親しい仲間と連れだって観世音菩薩を詣でたあとは、仁王門から伝法院までの通りがかりの仲見世で団子でも腹に入れて、楊枝で歯を梳きつつぶらぶらと手妻を観る。

 歌舞伎興行をお上に認められた本櫓の一つ、華座の芝居小屋に入れたら御の字だ。人気の女形に見惚れて酒でも引っかければ得てして幸福。

 それが江戸っ子というものだ。

 

 日がとっぷりと暮れた亥の刻。

 井戸から幽霊が出てくるにはいささか早い雷門で、べべんと三味線の音が響いた。

 小粋な音の出所は、門の裏に建てられた丸太の掘っ立て小屋だ。

 菰で葺いた小屋の軒先には、『瑠璃(るり)』と書かれた赤提灯が下がっている。

 江戸っ子なら、ここで閃く。

 なあるほど、この菰がけのヒラキは粗末ながら芝居小屋だな。中には浄瑠璃の義太夫が一人いて、音曲を求める客を待っているんだろう。

 派手に遊んだ帰りに金が余っているわけでもなし、おいそれご免と通り過ぎようとする。

 しかし、足は止まるはずだ。

 ヒラキの中から響く、雲雀のように美しい声を聞いたらば。


 ――恋と忠義はいずれが重い かけて思ひははかりなや――


 義太夫は男の仕事である。

 しかし聞こえてきたのは女の、しかも年端も行かない娘の涼やかな声だった。

 演目もいい。『義経千本桜』の道行初音旅は、義経恋しと一人で都を発った静御前のいじらしさが男心をくすぐる段だ。この役ならば、どんな年増も可愛らしく見える。

 それならちょいと覗いてみるかと暖簾をくぐったら、もう鴨だ。

 板を張った簡素な舞台には裃を着けた娘がいて、灯し油のか細い火によって愛らしい容貌が照らし出されている。その顔は、あたかも春の月のように真っ白だ。


 ――今は吉野と人づての 噂を道のしほりにて 大和路――


 突然の客にも驚くことなく弾き続ける彼女こそ、雷門裏の娘義太夫・瑠璃。

 三味線を弾く指先はまるで白魚。声は晴天の青空より高く澄んでいる。

 浮世離れした美しさに、虜にならない人間はこの世にいない。

 今宵の鴨改め御客は、腹の出た中年男だった。よろめくように床几に座り、糸のように細い目を見開いて、舞台上に釘付けになっている。

 くたびれた小銀杏を、一人の青年――琥珀(こはく)は斜め後ろから見ていた。

 だらしない腹だ。それに酒臭い。ろくでも無い客の予感がする。

 そうは言っても客は客。しぶしぶ盆を渡してやると、語りに魅入っていた御客は、財布の紐を解いて有り金をすべて捧げた。

 面倒にならなければいいがと思ったら、案の定、鼻の下が伸びている。

 あ、これはまずい。琥珀が察した時にはもう遅かった。

 客は、下心が透ける表情のまま、語りを終えた瑠璃に声をかける。


「いい声だねえ姐さん。あんた一晩、これで足りるかい」


 鴨が盆を掲げた。載せられているのはたったの五文だ。これでは豆腐の一丁さえ買えやしない。

 だが男は、これだけあれば十分だろう、さあ好きにさせろと前のめりになる。

 瑠璃の方は、夜鷹扱いにも慣れたもので「芸は売るが身は売らない」と言い切った。


「なんだとてめえ。銭とってから袖にするたあ、俺様を誰だと思ってる!」


 御客が瑠璃に飛びかかろうとしたので、琥珀は懐に隠していた匕首に手をかけた。

 武士でもなけりゃ殺しはご法度。だが好きな女のためなら斬って捨てても仕方ない。

 覚悟を決めたが、それより早く瑠璃が弦を鳴らす方が早かった。


 ――月も朧に白魚の 篝もかすむ春の空――


『三人吉三巴白波』のお嬢吉三が唱える〝厄払い〟の台詞に合わせて、寝取の笛のヒュウドロドロという音がどこからともなく響いてくる。

 御客の体から影法師が浮き上がる。ずずずと大きくなる影には、丸い耳が二つあった。


「ひええ、なんだこりゃ!」


 背後を見て尻もちをついた御客を、影はじろりと見据える。


「瑠璃、化け狸だ!」


 琥珀が叫ぶ。

 娘義太夫はこくりと頷くと、赤い唇をにんまりと引いた。

 

 ――一文の銭と違ってあやかしもの。こいつは春から縁起がいいわえ。


 瑠璃が唱えると、ヒラキの中に一陣の風がごうっと吹いた。

 風はつむじを描きながら化け狸を取り巻いて、瑠璃の口に飛び込んでいく。

 地面に残るは気を失った御客だけ。

 ぺろりと赤いくちびるを舐めて撥を下ろした瑠璃は、琥珀に命じる。


「外に捨ててきて」

「こんな大狸を背負ったら筋がいかれちまうよ。僕は明日も幕があるってのに、そんな重労働させるのかい?」

「あんたが明日からあたしに付きまとわないなら、やらなくていいわよ」


 そう言って、瑠璃は三味線を片づけにかかる。

 素っ気なくされた琥珀は、うな垂れた。

 名の知れた華座の看板役者である琥珀にここまで興味がないのは、江戸中を探しても瑠璃だけだろう。それでも好きなのだから、琥珀もずいぶんと毒されている。


「分かったよ、お姫(ひい)。御客は風邪を引かないように茣蓙で巻いて、雷門のたもとに寝かせてくる。君が暮らす霜月長屋まで送るから、勝手に帰らないでおくれよ」


 女子の一人歩きは危ないんだから。

 そう言って、琥珀は着物の裾をからげて御客を簀巻きにする。竜胆柄の召し物を割って現れた脛は、毛が剃ってあり驚くほど白かった。

 あら、あんたも見た目は女よ。

 瑠璃はその言葉を飲みこんで、琥珀の結い髪に被せた野郎帽子が落ちそうになるのを、人形のように黒々とした眼で見つめたのだった。

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