第16話 アンガスを助け出せ

 昭和40年代、好景気が続く中、食肉への需要が高まっていった。北海道では、黒毛和牛(品種名:黒毛和種)以外にも、道南を中心とした沿岸部で、短角牛(品種名:日本短角種)が飼われていたが、道内で公共牧場の整備が進むと、その豊富な草地資源を活用した肉牛生産を推進することが提唱され、和牛に属するあか牛(品種名、褐毛かつもう和種)の他、アンガス種(品種名:アバディーンアンガス種)やヘレフォード種などの外国品種が導入された。アンガス種などの外国品種の導入と品種改良は、国の種牛牧場と道庁の畜牧試験場が行い、後継雌牛の生産、供給や種牡しゅぼ牛の飼養と貸し出しは、どうの農業公社の牧場が行った。


 北海道農牧試験場でも、牧草を活用した低コストで省力的な肉牛生産技術を構築するため、これらの品種の特性について調査研究を行い、牧草だけでもよく育ち、肉質も良いアンガス種について引き続き試験研究に用いていくことにした。

 アンガス種はイギリス原産で、角がないのが特徴で、角がないことで、角による損傷がでないので、省力的な管理ができる群飼に適していた。体毛が黒いので、黒毛和牛と間違えられることもあるが、和牛より黒く、足が短くて全体的にずんぐりしていた。性質は、臆病なところがあり、人が近づくと逃げる傾向にあったので、逆に牛群の誘導はしやすかった。

 これに対してヘレフォード種は、あまり神経質ではなく、近寄っても動じない牛もいたため、誘導に手間取ることもあった。ちなみにヘレフォード種もイギリス原産で、体毛は、頭部から肩にかけて白く、肩から後ろは暗褐色で胸や腹部に白斑がある。アンガスに比べると大柄で、西部劇でカウボーイとともに出てくる牛の多くがこの品種か、その雑種である。


 試験場に導入されたアンガスが降ろされると、業務科員は口々に、

「真っ黒だな。熊みたいだべさ。」

「んだな。山で会ったら、間違いなく熊だと思っちまうな。」

「でも、けっこうめんこい顔してっぞ。」

などと、見た目の感想を言いあった。

 すぐに試験に使いたいところであったが、まだ10頭程度しかおらず、親牛ばかりで、試験に使える月齢の牛がいなかったので、導入されてから2、3年は、頭数を増やすことに努めることになった。

 繁殖は、種牡牛を用いた自然交配で、確実に妊娠させることができたので、年々頭数が増えていった。アンガスの雌は、ホルスタインに比べ、若干気性が荒かったせいか、当初、牛を集めたり体重を測ったりする作業の時、牛も業務科員も緊張していた。中には、棒でたたいたり、蹴ったりする科員もいた。角がないので、角でケガをすることはないが、蹴られたり、突かれたりすると危険なので、その都度、寺山たち研究員が科員を注意して、牛にできるだけストレスを与えないように努めていった。そのかいもあって、アンガスも科員も徐々に慣れ、放牧地で分娩した際に、生まれた子牛の体重を測るために、業務科員が抱きかかえて連れてきても、親牛は後を追ってくるだけで、科員を突いたりしなくなっていった。


 牛が増えてくると、放牧地が足りなくなってくるので、少しずつ拡張していった。北海道の牧野で使われている牧草は、ほとんどがヨーロッパ原産のもので、寒さには強いが、暑さに弱いので、夏になると生育が停滞する。このため、春の草の伸び方に合わせて放牧する頭数を決めると、夏に草が足りなくなってしまう。アンガスの頭数が少なかった頃は、草が足りなくなることはなかったが、頭数が増え、余裕がなくなってきていた。そこで寺山は、夏用の放牧地を造ることを提案し、研究室内で合意を得ていた。


 アンガスを放牧している放牧地は、ほとんどが富岡砦の下側にある傾斜地にあり、砦がある傾斜地の上は、平坦で開けていたが使われていなかった。ここは、元々羊の放牧地だったが、戦後、山火事があったり、駐留軍が演習に用いていたりしていたので、しばらくは裸地であったが、演習地の返還があってからも利用されずにいたため、白樺の幼木が生え、ススキやワラビなどが広がっていた。


 寺山たちは、白樺が少ない所を選んで、5、6ヘクタールの放牧地を造ることに決めた。放牧地の外周を囲うのは、相変わらずバラ線だったが、それを留めておく支柱は、寺山が試験場に入った頃に使っていた木製から鉄製のものに代わっていた。

 各地で牧野開発が進み、牧柵を扱う業者も増え、いろいろ工夫した支柱が寺山の所にも持ち込まれ、試しに使って欲しいとの依頼が時々あった。持ってくる柱材は、さび止めのため、亜鉛メッキされていたが、その分単価が高かった。寺山は、持ってきた業者に対し、

「いくら亜鉛メッキしてるからって、高すぎるんじゃないか。これじゃ、バラ線も入れたら、1ヘクタールで何十万も掛かっちゃうぞ。これで売れるのか。」

と、聞いた。これに対して業者は、

「なんも、補助金が出るから、公共牧場なんかから、けっこう注文が入ってます。」

と、うれしそうに笑みを浮かべて返してきた。それを聞いて、寺山はあきれると同時に、一木いちのきだったら、「儲けてるんだから安くしろ」と値切り交渉を始めるだろうな、とも思った。


 新しい牧区を造るのに支柱は必要だったが、研究費で買うには高すぎるので、これらの既成品の柱を使うことは諦めることにし、試供品だけ受け取り、自前の物を使うことにした。自前の物と言っても、以前のように木を切り出して牧柱を作るのではなく、アングルという、幅や厚み、長さなど種類が豊富で、単価も安いL字型をした鉄骨で作った物だった。

 これは、アングルを、長さ2メートルで切り、バラ線を留める針金を通す穴を、片方の端から30センチ間隔で四ヶ所に開け、さび止めのペンキを塗った物だった。これを50センチくらい地面に打ち込み、バラ線を張ると、高さ150センチの牧柵が張れるのである。この時も、必要分のアングルを購入すると、迫田が冬の間に作り上げてくれた。業者には悪いが、これもコストを下げる方法の一つであった。


 この頃は、景気が良く、研究予算も年々増えていたが、他に欲しい機器もあるので、抑えられるところは抑えることにしていた。雪が融けたらすぐに牧柵を張って新しい牧区を作りたいところであったが、試験区への入牧や、出張などが重なったため、作業は6月下旬にずれ込んでしまった。牧区と言っても、試験に使うわけではなく、夏に使ういので、皆、作業がずれ込んでも問題ないと考えていた。新牧区は、出来上がった後も、何もしないでそのまま放置していたので、ススキやワラビが伸び放題だった。このことが、この後大変なことになるとは、誰も想像していなかった。夏になり、富岡砦から下の牧区の草が少なくなってきたので、いよいよこの新牧区で放牧を始めた。


試験に用いていない親牛や若牛を放牧して1週間後、会計検査院の調査で、頭数を確認することになり、体重測定をかね、富岡砦の下にある追い込み柵に牛を集めることになった。迫田が追い込み柵に向かって牛群を追い始めたのを、寺山は砦の上から眺めていた。牛群が一体となってこちらに向かって動き始めると、すぐにワラビが広がっている場所で、群れがバラバラになり、ある一点を中心に放射状に広がり、中心を向いて立ち並んでいるのが見えた。そして、大きな牛の鳴き声が聞こえてきた。牛群を追っていた迫田が、こちらに向かって叫んでいるのが見えたが、何を言っているのかは、よく聞こえなかった。寺山は、追い込み柵の所で牛群がやってくるのを待っていた塩野と広中に向かって、

「おい、何かあったみたいだ。行ってみよう。」

と叫ぶと、砦を駆け下り、牛のいる方に向かって走り出した。


 牛たちの近くに行くと、多くの牛が鳴いていた。その中で、ひときわ大きな声でなく牛が、ワラビの中に座っていた。しかしよく見ると、普通なら座っていても見えるはずの脚が見えなかった。なんとその牛は、脚が四本とも一つの小さな穴に落ち、スッポリとはまっていたのである。寺山はすぐに、以前喜久知が言っていた、駐留軍が演習の時に掘ったタコツボに落ちたのだと思った。一緒に来た塩野が、牛の姿を見て、不思議そうな顔をして言った。

「どうなってるんだ。脚はどこにあるんだ。」

「脚は、この下の穴の中だ。昔米軍が掘ったタコツボに落ちたんだ。脚四本が入るのにちょうどいい大きさだったんだ。でも、そのせいで脚が穴にはまって、身動きが取れないようだ。このままじゃまずい。今日は暑いから、早くなんとかしなくちゃ」

寺山が答えると、さらに広中も聞いてきた。

「なんでこんな所にタコツボがあるんだ。」

「その説明は後だ。助け出すのが先だ。迫田さん、頭絡とうらくを付けてください。とりあえず引っ張ってみましょう。」

そう言うと寺山は、迫田に、牛の頭に「頭絡」と呼ばれる、牛を引き歩いたり繋いだりする時に使う縄を牛の頭に付けさせた。さらにこの頭絡にロープを付け、みんなで引っ張り上げようとした。しかし、牛はびくともせず、ただただ泣き叫ぶだけであった。脚が四本とも穴の壁に密着していて、動かすことができない状態であった。このままでは、暑さにやられるだけでなく、自分の重さが、穴につかえた胸や下腹に掛かり、呼吸ができなくなる可能性があった。そこで、フロントローダーという装置を付けたトラクターで、牛をつり上げることにした。フロントローダーとは、油圧で2本のアームを上下させ、土砂などの積み込みに使う機械で、アームの先端に付けるアタッチメントを取り替えることで、、様々な作業ができた。この頃の日本には、フロントローダーが付いたトラクターはまだ少なく、試験場にも入ったばかりだった。


 迫田と広中が、業務科にトラクターの応援を求めに行き、残った寺山と塩野は、スコップで、腹の周り掘って、穴を広げることにした。つり上げるにしても、ロープを腹の下に通さなければならないからである。地面は固かったが、徐々に穴が広がってくると、穴の中が見えてきたので、塩野と寺山は、代わる代わる穴の中を覗いてみた。

「やっぱり脚が宙ぶらりんだ。でも、底まではそんなに離れてないぜ。」

「ほんとだ。すぐに足が着きそうだ。ホル(ホルスタイン)だったら着いてたな。」

「そうだね。アンガスは脚が短いからね。とんだ弱点をさらしちゃったな。」

牛の方は、日差しも強くなってきたこともあり、徐々に息が荒くなってきていた。他の牛たちは、最初こそ心配そうに、こちらの動きを眺めていたが、すでに白樺林の中に移動して、ササやススキを食べたり、木陰に座ったりして、涼しそうな顔で、反すうを初めていた。それを見て寺山は、穴に落ちた牛を不憫に感じるとともに、一刻も早く助け出してやりたいと思っていた。

「もう少し穴を広げよう。それから、削った土は、穴に落として底上げしよう。そうすれば、牛も立つことができて、少しは楽になるだろう。」

「そうだな。みんな、まだ来そうにないしな。」

2人は、牛の腹から尻にかけて、穴の壁を少しずつ削り、その土を穴の中に落としていった。


 寺山たちが必死で作業を続けていると、迫田たちを乗せた研究室のジープと業務科のトラクターが、科員を乗せたトラックとともにやってきた。ジープには、室長の富岡も乗っていた。

やってきたトラクターのフロントローダーのアームの先には、マニュアフォークという、通常は、堆肥の切り返しに使うアタッチメントが付いていて、鋼鉄製の槍が、4本並んでいた。

 迫田と業務科員たちは、寺山たちが広げてくれた部分から、荷揚げなどに使われる帯状のロープを2本、牛の前脚のすぐ後ろと後ろ脚のすぐ前のところに通すと、ローダーのフォークに縛り付けた。トラクターに乗った業務科員が、トラクターのエンジンを吹かしながらローダーの操作レバーを動かすと、ローダーのアームがゆっくりと上がり始めた。すると、牛に架けられたロープがピンと張り、牛とともにゆっくりと引き上げられていった。やがて、牛の脚が穴から抜けて宙づりになった。宙づりになった牛は、かなり弱っていたようで、脚をばたつかせることもなく、おとなしくつられていた。

ローダーがバックして穴の外で牛を下ろすと、ぐったりして、倒れ込んでしまった。息は荒かったが、脚は折れておらず、大丈夫そうであった。それを見て、この場にいた者みんな、「いかった。いかった。」と、安堵の声を交わした。


 富岡は寺山に、どうして穴に落ちたのか尋ねた。

「ここは昔、米軍の演習地だった時期があって、その時造られたタコツボが残っていたんです。穴のことを忘れていたこともありますが、入牧するまでにワラビが繁茂して、穴が見えなくなってしまったんで、こんなことになったと思います。」

寺山の説明を聞いて、富岡や広中が、改めて牛が落ちた穴を見ると、穴の上の方は広げられ、底も浅くなっているが、確かに人一人が隠れるのにちょうどいい広さの穴であった。助っ人にやってきた業務科員は、寺山より若い人ばかりで、タコツボがあったことなど知らなかったので、珍しそうに見ていた。


 寺山は、来てくれた業務科員に向かって、

「どうもありがとう。おかげで一つの命を守ることができた。」

と、礼を言った。すると一人の科員が、

「なんも、いいさ。それより一つの命じゃねえ。二つだべさ。こいつ妊娠してっから。」

と、この牛が妊娠していることを伝えてくれた。当の牛は、穴から出てぐったりしていたが、木陰で休んでいた牛たちがやってきて、舐められると、やっと立ち上がり、群れのいる林に向かって歩き始めていた。それを見て寺山は、改めて二つの命が救えたことに安堵した。


 会計検査院によるこの日の調査は、他の調査に手間取っていたのか、来る時間が予定より遅くなった。このため、何事もなかったように牛群を追い込み柵に集め、頭数確認をうけた。真っ黒い牛が、子牛も含めて二十数頭、追い込み柵の中でぐるぐる動くので、検査院の調査官も、数えるのに苦労していた。可哀想に思った富岡は、寺山たちに命じて、追い込み柵の中にある、レースとよばれる通路に牛を入れ、数えやすくしてやった。調査が終わると、調査官を富岡砦の上に案内し、石狩平野の眺望を堪能してもらったのは言うまでもない。

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