第11話 牧野研究部の新設

 寺山たち牧野ぼくや研究室が開発した家畜を用いた草地造成法(蹄耕法ていこうほう)は、北海道開拓庁の北海道開拓局が実施予定の草地開発のための調査事業に組み込む意向を示していた。

 この事業は、十勝管内の上士幌町で実施されることになっており、施肥・播種に飛行機を用いるという大がかりなものであった。ヘリコプターによる施肥は、我が国でもすでに行われていたが、飛行機を用いるのは、初の試みであった。しかし、この事業に当たって開拓局は、牧野研究室に対して蹄耕法についての概要説明を求めたものの、実際の調査は、牧野研究室の前室長で帯広畜牧大学の教授である高木が行うことになった。それでも飛行機による播種作業については、実施日の連絡があり、寺山たちも見学を行うことになった。


 造成予定地は、上士幌町の北部に位置する丘陵地帯で、機械作業が可能な傾斜地が広がっているが、沢が入り組んでいるため、急傾斜地も多かった。今回牧野を造る場所は、平均標高約500メートルの所にある、約10ヘクタールの野草地であった。


 調査を実施する高木たちの他、寺山たち、開拓局や農務省、北海道と上士幌町の関係者、さらには、報道機関も多数来ていた。彼らは、試験区から100メートルほど離れた場所で飛行機が飛んでくるのを待っていた。報道機関の取材を受ける高木を見て寺山は、悔しがっていた。

「蹄耕法は、こっちが開発したのに、この試験に参加できないなんて、なんか悔しいですね。」

「まあそう言うな。君が苦労して調査、とりまとめたのはわかってるが、今回は、農務省ではなく開拓局が実施する調査事業だから仕方ない。それに、調査事業があると言うことは、いずれ大規模な牧野開発が行われるだろうから、その時にやれればいいさ。今回は蹄耕法より、飛行機による作業がメインだから、経験豊富な高木さんに任せたのは正解だったんじゃないか。」

「それはそうですけど。」

寺山は、不満そうな顔をして呟いた。

「見てみろ、飛行機による作業時間や散布量を測るために、たくさんの学生や開拓局の職員が作業に当たっている。これだけのことをするには、しっかりとした計画と準備、関係機関との調整が必要だ。俺たちはまだ、これだけ大きな所で試験を行ったことはない。試験方法のことや現場の人との接し方などを、あとで高木さんから聞いておいた方がいいぞ。」

喜久知も、不満顔の寺山を諭すように言った。


 実際、数年後、ここでの国営牧野開発事業が始まると、彼らは、牧草地の利用方法や作業方法などについての調査研究を実施することになる。そうこうしているうちに、飛行機のエンジン音が聞こえてきた。

 寺山たちが、播種予定地より少し高い位置から眺めていると、単発の小型プロペラ機が、彼らがいる丘の影から飛んできた。いったん彼らの前を通り過ぎ、試験区の上を何回か旋回した後、南側の林の上で反転してから、高度を下げて侵入してきた。高さは、5から10メートルくらいで、目印のポールを過ぎた辺りで、機体の下から白い煙のようなものが一瞬見え、寺山たちの前を、あっという間に通り過ぎていった。高度が低かったので、小型機とはいえ、風圧に圧倒された。


 この飛行機は、アメリカ製のパイパーポニーと呼ばれる機体で、アメリカでは、種以外に肥料や農薬の散布に使われていた。今回は、牧草の種を播いたので、遠くからでは、落下する種はよく見えなかった。白い煙のように見えたのは、シャッターが開いた瞬間に、種を入れたタンクの底に残っていた埃のようなものが出たのが煙のように見えたのであった。

 一回の散布が終わると、飛行機は、もと来た丘の影に向かって飛び去っていった。試験区の北側にある音更川支流の段丘の上に、急ごしらえの滑走路があり、そこで種子や肥料を積み込むのである。高木から聞いた話では、この作業のために、開拓局が短期間で造成し、滑走路としての認可を得たらしかった。寺山は、さすが土木工事に長けた開拓局のやることはすごいと感心した。


 何回かの散布が終わると、高木と学生たちが試験区に飛び出していき、区内に設置していたシートに駆け寄り、写真を撮ったり、シートに落ちた種子を回収したりしていた。牧草の種子が上手く散布できたかを調査しているのである。寺山たちもシートに近寄って見てみると、きれいに牧草の種が散らばっていた。

「もっと偏って落ちるのかと思ったら、上手く散らばっていますね。」

「そうだな、風や散布量を計算に入れて、種の落とし口の隙間を調整しているのかな。イネ科とマメ科では、種の重さや形が違うから、何らかの工夫が必要だ。どうやってるのか、あとで高木さんに聞いてみよう。」

などと、寺山と喜久知が話していると、調査作業が終了し、開拓局の職員が見学者に対して、次は、肥料の散布を行うので、見学者は、試験区から出て、離れるようにと、拡声器を使って伝えた。


 見学者が元の場所に戻ってしばらくすると、再び飛行機が飛んできて、播種と同様に何回か肥料の散布作業を行った。少し風が出てきたので、肥料は粒状だったが、つぶれたり削れたりして粉状になったものが、風下になった寺山たちに少し降りかかってしまった。量は少なかったが、突然のことだったので、寺山たち見学者は、慌てて鼻と口を押さえて試験区から離れ、服に掛かった肥料を払った。


 肥料の散布作業も数回にわたって行われ、その後、播種の時と同様な調査が行われた。寺山たちは、高木にいろいろ聞きたい所であったが、学生たちの指揮や取材対応に追われる姿を見て、挨拶だけ済まして現地を後にすることにした。帰りの車の中で3人は、飛行機による作業について語り合った。

「飛行機による作業は、ダイナミックですごかったですが、日本でこれが行える場所は、何ヶ所もないんじゃないですかね。そうなると高い飛行機が、宝の持ち腐れになっちゃいますね。」

「そうだな、飛行機だと飛行場も必要になる。今回は、開拓局が造ったからいいが、民間でそこまでしていけるかな。」

「それに、これから開発される牧野は、大概山の上にあるから、飛行場が造れる平坦地は少ないでしょう。何回も往復することを考えると、離れた所にある飛行場を使うこともできないでしょうし、山を削って飛行場を造るんですかね。」

3人とも日本における飛行機の利用は、将来性が低いと感じていた。その後も、車中で様々なことを語り合いながら、約6時間かけて札幌に帰っていった。まだ高速道路はなく、所々未舗装の道を走ったので、帰り着いた時には、若い寺山でも、肩や腰が痛かった。



 昭和39年(1964年)になると、北海道農牧試験場の組織再編が行われ、畜牧部から牧野研究室など、牧野、牧草育種関係の研究室が分かれ、それらで構成された牧野開発部が新たにできた。さらに牧野研究室も、牧野改良・草地造成を研究する牧野第1研究室(牧野1研)と、牧草や飼料作物の利用方法を研究する牧野第2研究室(牧野2研)に分かれた。この他、牧野土壌研究室が牧野第3研究室(牧野3研)となり、畜産の経営を研究する牧野第4研究室(牧野4研)、牧草の育種を行う牧草開発研究室(牧草研)、トウモロコシなど飼料作物の育種を行う飼料作物開発研究室(飼料作研)が設けられた。


 寺山は、牧野1研配属となり、室長は喜久知だった。下村と河内は、牧野2研となり、河内が室長に昇任した。また、牧野1研には、寺山の一つ年上の塩野が異動してきた。このため、一年後輩で、すでに琴似から牧野土壌研究室の研究員として異動してきていた牧野3研の一木いちのきとともに部内には同世代の高卒研究員が3人になった。


 塩野は、体が大きかったが、おっとりした性格で、誰にでも優しく接していた。また、トラクターの運転操作ができ、口数は少ないが頼りになった。

 一方の一木は、誰にでもズバズバものを言うが、カラッとした性格で、スポーツ万能で、世話好きだった。寺山と塩野は、傾斜地の放牧地にいることが多かったので一木と顔を合わすことは少なかったが、同世代ということもあり、仲は良かった。


 試験場が変わるのは、これだけでなく、本場ほんじょうの全ての研究室が琴似から移転してくることが決まった。そのため、羊ヶ丘の場内は、本庁舎を含む新しい施設や琴似から移ってくる職員のための宿舎の建設、圃場や道路の整備などが開始されていた。

 寺山たち牧野1研の作業小屋は、すでに牧野研究室時代に建てられており、その近くに牧野開発部各研究室の作業小屋や試験牛舎、温室などが順次建てられていった。


 組織再編が行われた年、東京では、オリンピックが開催されることになっていた。当初、寺山も含め、職員の多くは、遠くの世界のことのように感じていた。しかし、アジア諸国を走る聖火リレーのニュースが毎日のように伝えられると、徐々に話題に上るようになっていった。9月には、聖火が千歳から札幌に向かう途中、畜牧部の前の国道36号線を通ることになっていたので、聖火を見たいという気持ちが高まっていった。


 聖火が走る当日は、朝から小雨が降ったりやんだりするあいにくの天気であった。昼を過ぎた頃、正門近くの沿道には、近隣の住民とともに場内の職員もやってきて、聖火が来るのを今か今かと待ち受けていた。やがて、白い煙をたなびかせた聖火を掲げたランナーが、白バイに先導されて、正門前の国道を千歳方面からやってくるのが見えた。一木が、どこからか手に入れた日の丸の小旗を寺山と塩野や周りにいた臨時職員のおばさんたちに渡してくれたので、みんな一緒になって声援を送った。

 この年は、例年に比べ気温が低く、9月上旬にしては、少し肌寒く感じる日だった。寺山は、ちょうど10年前に天皇が来場されたときのことを思い出していた。あの時も、朝から小雨交じりで涼しかった。そんな思いにふけっていると、聖火が近づいてきて、あっという間に寺山たちの前を通り過ぎていった。

 聖火を見ながら隣にいる塩野が、

「僕も聖火リレーに参加したかったな。」

と、呟いた。すると一木が、

「なんも、冬季大会があるっしょ。この間のオリンピック委員会で、札幌が次の大会に立候補して落ちたけど、その次も立候補するはずだから、決まればリレーに出れるかもしれん。そん時に立候補したらいいんでないかい。」

と、言った。塩野がニコニコしながら聞いていると、

「えっ、オリンピックって冬もあるの。」

と、近くにた畜牧部の畠が、驚いた表情で言った。

「あんた何年札幌に住んでんだい。スキーやスケートなど、冬の競技があるしょや。それに、今年の初めにもあったっしょ。冬季オリンピックのことくらい覚えときな。」

と、一木からたしなめられた。また、塩野からも、

「何年か前に、猪谷千春選手が回転で銀メダル取ったの覚えてないかい。有名なトニーザイラーと争ったの。」

と言われ、畠は右手で拳を作って左の手のひらにポンと当てると、

「思い出した。冬のオリンピックで日本人初のメダルだって、大騒ぎだったっけ。ニュース映画でも見たよ。最近日本人の活躍が聞かれないから、すっかり忘れてたよ。」

と、言って周囲の笑いを誘った。


 それまで冬季大会は、欧米でしか開催されておらず、アルプス周辺諸国での開催が多かったため、ラジオの生中継があっても夜中になってしまうことが多く、メダル獲得が期待できる選手がいなければ、注目が低かった。


「でも、その次の大会って、いつだい。」

と、塩野が一木に尋ねた。

「この間決まったのが、68年だから、次は72年、昭和47年だな。早くてもこれだ。これがだめなら、その次の76年、次が80年。」

「76年とか80年とかだと、もう40代後半で、走る自信ないよ。72年にして欲しいな。」

「そったらこと言ったって、あんたの都合なんか聞いてくれんべさ。それに、あんたが走れると決まってるわけでもないんだから、心配してもしょうがないっしょ。」

聖火ランナーを見に来た一団は、二人の微笑ましいやりとりを聞き、ひとしきり冬季オリンピックのことで盛り上がると、自転車やバイクなどに乗って、カラマツ並木を庁舎に向けて戻り始めた。すると、国道の向こう側で9月に操業したばかりのパン工場から、パンの焼ける匂いが漂ってきた。

 試験場をめぐる環境は、中だけでなく、周辺も変わり始めていた。皆が庁舎に着くころ、昼休み明けの鐘が鳴った。


 冬季オリンピックが、1972年に札幌で開催されることに決まるのは、この2年後のことであった。また、聖火ランナーは、11歳から20歳までの少年少女から選ばれることになったので、塩野の心配は杞憂に終わるのであった。

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