第10話 牛の脱走と蹄耕法

 喜久知の愛馬マサルの死が、畜牧部と牧野研究室の変化の始まりだったかのように、いろいろなことが動き出した。まず、高木室長が大学の教授となって転出することになり、その後任に喜久知が付くことになった。


 一方、牧野開発が進むに従って、放牧した牛が病気になる事例が増え、牧畜衛生の研究を強化する必要が出てきていた。このため高木室長の転出と前後して、牧野研究室に新たに牧畜衛生を研究する河内主任研究官が配属になった。河内は獣医の資格を持っていて、下村より5歳年上だった。また、牧野の土壌や施肥管理に関する研究を行う牧野土壌研究室が新設されるなど、牧野に係る研究勢力が年々強化されていった。

 

 北海道内では、ミルカーや人工授精の普及による省力化と乳牛の能力向上が、酪農家の増頭意欲をかき立て、増頭のために必要となる後継牛を共同で飼養管理する公共牧場の整備が急がれていた。このため、道内各地に公共牧場が開設されることになり、それまで利用されてこなかった山野を切り開き、大規模な牧野の開発が行われていった。山林といっても、大規模な牧野を造るには大型機械による作業が必要となるため、頂上部分が比較的平坦な丘のような場所が選ばれた。しかし、平坦部分の面積が十分に確保できないことが多く、機械作業が難しい傾斜地も含まなければならなかった。

そこで、牧野研究室では、できるだけ機械作業を伴わない、傾斜地向けの牧草地の造成方法を開発することに取り組んだ。


 通常の造成では、樹木や石などの障害物を除去し、火入れをした後、播種床を造り、施肥・播種、覆土(種に土をかぶせること)・鎮圧(種が動かないよう地面に押しつけること)の順で作業を行うのであるが、いくつかの作業は傾斜地のため機械で行うことができない。特にローラーによる鎮圧ができないことは、牧草の出芽定着に大きく影響するので、これに代わる方法を考える必要があった。そこで、下村がニュージーランドで、山を焼いた後に牧草の種を播くと同時に羊などを放牧し、種を踏ませることで牧草地ができることを調べてきたので、早速場内の圃場で試すことになった。


 今回彼らが造成するのは、部内にある焼山やけやまの東側にある四望台しぼうだい直下の南東側斜面6ヘクタールで、15~18度の傾斜がある場所であった。ここから下は、傾斜が10度以下で、機械作業が可能であったため、20ヘクタールほどの牧草地が、造成済みであった。この草地の下から三分の一くらいの所に、寺山たちが使っている作業小屋や庁舎に繋がる道が延びていた。


 四望台周辺は、よく山火事が発生するところなので、付近に大きな木は少なく、点在する幼齢の白樺の下にミヤコザサやクマイザサが広がっていた。寺山が初めて火入れを経験した圃場では、場外に飛び火して、多くの人に迷惑をかけていた。今回は、そのようなことが無いように、万全を期して行なった結果、無事に火入れを行うことができた。しかし、播種をいつ行うかで議論が分かれた。火入れを行う前の研究室の会議で寺山は、

「播種は、火入れのすぐ後がいいと思います。その方が、地面が露出しているので、種が土に付きやすいですし、ササが再生してくるまで時間が稼げます。」

と、火入れ直後の播種を主張したが、下村が反論した。

「火入れの直後じゃ、牛が食べるものがないだろ。」

「短期間だから大丈夫だと思います。それに、火入れまでして中断するより、一気にやってしまった方が、現場の人も受け入れ易いと思います。」

「お前なあ、現場の人に気を遣うのはいいが、食べる草が無ければ、脱柵して、かえって迷惑を掛けることになるんだぞ。」

二人の主張は平行線をたどり、なかなか決着が付かなかった。そこで室長の喜久知が、

「それでは、牧区を二つに分け、一つは寺山が言うように火入れ直後に、もう一つは下村が言うように、ササが再生してきてから入牧させることにしよう。」

ということに決めた。


 火入れが終わると、早速牧柵で周囲を囲み始めた。この頃から牧柵の杭は、木の杭からアングルと呼ばれる、L字形の鋼材を使うようになっており、ランマーと呼ばれる打ち込み用の道具で杭を立てていくので、穴を掘って立てる木の杭より格段に作業性が上がっていた。このため、比較的短期間で牧柵を張ることができた。牧柵を張り終えると、早速、肥料と種を播き、体重200キロ程度の乳牛の育成牛6頭を放牧することにした。


 牧野研究室の研究員と業務科員が見守る中、牧区内に放たれた牛たちは、最初は牧区の真ん中で、各々飛び跳ねていたが、すぐに一つの群れになると牧柵に沿って歩き始めた。2周ほど回ると頭を下げて、えさとなる草を探し始めた。しかし、地面には焼けて炭になったササの葉や茎ばかりで、わずかながら焼け残った部分に生えている草をつまんでは、うらめしそうに寺山たちを見つめていた。やがて一頭が有刺鉄線の間に頭を入れ、牧柵の外に生えているササの葉を食べ始めると、他の牛も同じように牧柵の外のササやススキの枯葉を食べ始めた。この動きを見て下村が、

「このままじゃ、いつ脱柵してもおかしくないぞ。やっぱり入れるのが早すぎたんだ。すぐに出そう。」

と言った。しかし寺山は、

「いや、まだ入れたばかりで種を十分に踏んでません。乾草をやりながらもう少し入れさせてください。」

と言って、喜久知に放牧の継続を願い出た。

「確かに下村君の言うとおり、このままではいつか脱柵するだろう。しかし、入れたばかりでは、牛による踏みつけの効果の比較ができないな。寺山君が言うとおり、乾草をやりながらしばらく様子を見よう。迫田君、大急ぎで乾草をとってきてくれ。」

喜久知はそう言って、迫田に乾草を取りに行かせた。


 迫田が乾草を持ってきて牧区内に投げ入れると、たちまち牛たちは集まってきて食べ始めた。しばらくして牛たちは、乾草を十分に食べて満足したのか、座って反芻はんすうを始めた。寺山はそれを見てホッとした。

「もう落ち着いたみたいです。しばらくは、このまま様子を見させてください。お願いします。」

「そうだな。しばらくこれで様子を見るか。寺山君、責任を持って視てるんだよ。」

「はい。了解しました。」

寺山は、脚をそろえて敬礼して答えた。

しばらくの間全員で牛を視ていたが、牛たちの反芻が続いていたので、寺山を残してみんな山を下りて行った。


 一人残った寺山は、牧区の中に入り、播いた種がどうなっているか見て歩いた。牛が歩いたり飛び跳ねた跡は、種がしっかりと踏みつけられていたが、そうでない場所は、種が乗っているだけで、風で飛ばされたり雨で流されたりしそうな感じであった。反芻を終えた牛たちは、立ち上がって牧区内を歩き回っていたが、牧柵沿いを歩くばかりで、なかなか牧区の中央に出て歩くことはなかった。やがて日も傾き、終業の鐘が鳴ったが、遠く離れたこの場所までは、聞こえるはずもなく、寺山は、そのまま牛たちを視ていた。

 春の北海道の日の入りは遅いが、この場所は、山の背に日が沈む東向きの斜面なので、早めに暗くなり出す。そのため彼は、もう一度乾草を投げ入れてから山を下りることにした。


 翌朝、夜が明けると、寺山は、自分のオートバイに乗って、前日牛を入れた山の牧区に向かった。彼が、傾斜放牧草地の下の方にある牧区の入口でオートバイを降りて登っていくと、牛たちが昨日投げ入れた乾草の近くにたむろしているのが見えてきた。とりあえず脱柵した牛はいなかったので寺山は安心したが、牧区の外に頭を出して牧区外の草を食べている牛がいたので、一抹の不安を覚えた。乾草を足したいところであったが、オートバイで来ており、始業前で部の車も持ち出せないので、しかたなく祈る思いで一度山を下りた。


 始業後、寺山は、迫田と河内とともに乾草を持って戻ってきた。しかし牛たちは、昨日入れた牧区のすぐ下の牧区で草を食んでいた。今回造った牧区は、四望台の東斜面の牧区の上から三分の一の部分で、そこから下にも牧草地が広がっていた。寺山が乾草を投げ入れた場所は、この草地との境の牧柵がある所であった。乾草は食べ尽くされ、その近くの有刺鉄線が垂れ下がっていた。ここから脱柵したようであった。不安が的中して落胆の表情を浮かべている寺山を見て河内が、

「どうする寺山君。もう一度入れるか。」

と聞いた。寺山は、牛たちを見ながら、

「残念ですがあきらめます。下村さんが言ったとおりでした。もう一度入れても乾草を食べさせていればそこから離れません。そうなると、牧区全体の種をまんべんなく踏みつけることはできないでしょう。牛はこのままここにいさせることにします。」

と答えた。その時迫田が、「一頭足りない。」と言って、牛を探し始めた。すると、牧柵の外側のササ地を歩いている牛を見つけた。迫田が、一度有刺鉄線を切って中に入れようとするのを河内が制して、

「見てみろ。腹から脚に掛けてダニが無数に付いている。たぶん藪の中で食い付かれたんだろう。このままこちら側に入れると他の牛に広がってしまう。一度隔離してダニを殺さないと。」

と、二人に言った。彼は家畜衛生、特にダニが媒介する病気の研究者であった。

「それじゃ、牧柵の先にある追込み柵に入れましょう。迫田さん。手伝ってください。」

と言って、寺山は、牧区の頂上方面から下ってきた牧柵の先にある、鉄骨などで造った牛を集める追込み柵と呼ばれる施設に向かって走って行った。


 通常の追い込み施設では、牧区の中にいる牛をここに追い込んで体重を測ったりするので、牧区との間にゲートがあるだけであるが、この施設には、このような脱柵も想定して、牧区外に向けても小さなゲートを設けていた。


 寺山が、牧区側のゲートを閉めてからこの小さなゲートを開け、河内と迫田に合図を送った。二人は牧区内にいる牛たちを牧区外にいる牛がいる牧柵の方に向かって追い始めた。牧区外にいる牛は、仲間の牛が近づいてくるのに気が付くと、牧柵に近寄り、柵を挟んで牧区内の牛と一緒になった。そこで、迫田が牧区内の牛群を上の方からゆっくりと追い始めると、牧柵の外の牛も群れについて下り始め、そのまま小さなゲートから追い込み柵の中に入っていった。


 牛が入ると、牛に気づかれないよう隠れていた寺山がすぐにこのゲートを閉じた。その後、寺山と迫田がこの牛を視ている間に、河内は作業小屋に殺虫剤とダニをサンプリングする道具などを取りに行った。

 河内は戻ってくるとすぐにダニの数を数え、十数匹をサンプリングした。ダニが付いてから時間が経っていなかったようので、あまり血を吸っておらず、比較的簡単にサンプリングができた。次に、箒でダニを牛の体から払い落とし、家,畜用の殺虫剤を全身に掛けた。そうこうしているうちに、他で作業していた喜久知と下村がやってきた。寺山は、このまま放牧を続けるのは諦めることと、下村が言ったとおり自分の仮説は見込み違いだったことを告げた。それを聞いて喜久知は、

「仮説が間違っていたことはよくある。しかし、実際にやってみて納得できたんだからそれでいい。次は、火入れからどれくらい期間を空けるかを決めなきゃならない。そのためには野草の再生量や栄養価が分からないといかん。これらの調査をやってくれ。」

「はい。わかりました。」

と、大きな声で答えると、追い込み柵内に留め置いていた牛を解放した。牛は、柵の外に出ると、一目散に他の牛たちの所に駆け寄り、一緒に草をついばみ始めた。


 その後彼は、一週間おきに、火入れ後に再生してきた野草の量と栄養価を調べていった。その結果、施肥・播種と牛を入れるタイミングは、火入れ後1ヶ月程度空けるのが適当であるとすることが分かった。

 なお、この造成法は、これらのことに加えて、入れる牛の頭数などの諸条件を整理して、蹄耕法ていこうほうと名付けられ、喜久知が中心となって、農業関係の雑誌に紹介した。その結果、機械作業ができない急傾斜地の造成法の一つとして注目されるようになった。


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