奮闘編

第12話 新しくなった農牧試験場

 北海道農牧試験場の脇を走る国道36号線から、場内に入る道路は2か所しかなく、1ヶ所はカラマツ並木が続く畜牧部庁舎にへの道であった。

 昭和40年(1965年)、琴似から畜牧部以外の研究部や総務部が移転してくるのに伴い、新しい庁舎が、畜牧部の庁舎から北に500メートルくらい離れた、国道に出るもう一つの道路沿いに完成した。


 新庁舎は、鉄筋コンクリート造りで、中央から三方に、それぞれ長さ約40メートルの三階建ての建物が伸びる斬新な構造の建物であった。国道側から入ってくる道の角から眺めると、広い芝生の奥に、中央から左右に両腕を伸ばしたような形に見え、一層大きく見えた。

 新庁舎の周辺には、移転してくる研究部のために、新しい温室や作業室などが、順次建てられ、圃場も整備されていった。また、移動してくる職員とその家族が住む官舎も、カラマツ並木がある八間はちけん道路の南側にある圃場の一部や雑木林を切り開いて建てられた。


 官舎は、原則として役職や俸給表の等級によって入れる規格が異なっており、この規格毎に何ヶ所かに分かれて建てられた。官舎は、場長や部長などの幹部用を除き、一棟二軒の平屋であった。また、一度に多くの官舎を建てる必要があったため、パネル工法と呼ばれる当時としては最新工法を一部取り入れて建てられた。寺山のようなヒラの研究員や業務科員が入れる官舎の家賃は安かったが、その分狭かった。寺山は、すでに結婚して子供もいたが、まだ子供が小さかったので、狭くても問題なかったが、中高生の子供や、たくさん子供がいる職員は、官舎が狭くても我慢して住むか、場外に家を借りるか、建てて移るしかなかった。ただ、新築の官舎に住めることを喜ぶ職員も少なくなかった。


 新庁舎ができたので、まずは琴似の研究室の引っ越しが先で、寺山たちの牧野開発部と畜牧部は、しばらくの間、元の庁舎にとどまることになった。しかし、すでに牧野管理部の作業小屋や温室などは建設済みで、試験の実施に困ることはなかった。これらの建物群がある場所は、新庁舎から1キロ、元の庁舎から500メートルくらい離れており、牧野センターと呼ばれることになった。その近くには、20ヘクタールほどの牧野3研や牧育研の試験圃場があった。

 これらの圃場は平坦で、格子状に細分化され、いくつかの研究室によって、品種改良中の牧草や施肥条件を変えた牧草を栽培されていた。このため、それぞれに圃場番号が付けられていた。しかし、新庁舎周辺に、本場から移ってきた研究部の圃場を作ったため、ここで行っていた牧草や飼料作物の栽培試験が、牧野センターの圃場に移転したことで、圃場の区割りが変更になるなど、いろいろと混乱する事が起きていた。


 5月の連休明けのある日、牧野3研の一木いちのきが自分の試験圃場に行ってみると、圃場がすべてプラウで起こされ、植わっていた牧草がすべて土の中に埋まっていた。

プラウというのは、洋犁ようすきとも呼ばれ明治になって欧米から入ってきた犁のことで、湾曲した撥土板に沿って土が反転され、地上部分の植物と土を土中に入れ、土中に埋まっていた土を地上に出す、天地返しとも呼ばれている作業を行う器具である。


 一木は一瞬目を疑ったが、すぐに怒りが込み上げてきた。彼は、周りを見回し、少し離れた所で除草をしている牧草研担当の業務科員木村を見つけ、何か知っていないか尋ねた。


「あそこの畑を起こしてたの、見てたか。」

「ああ、見てたよ。最初はおかしいなと思って、始める前に見に行って確かめたんだけど、班長から指示された圃場番号だから間違いないっていうんだ。あんたが頼んだんでないんかい。」

「そんな訳ないっしょ。この前追肥したばかりだ。誰だよ、やったの。」

「1科の岡島だよ。」

「わかった。ありがとう。岡島か。ちきしょう。」


 一木は、木村に礼を言うと、自転車に飛び乗り、旧畜牧部庁舎と牛舎の間にある、業務科の格納庫に向かった。格納庫の前では、岡島がプラウに水をかけて洗っていた。それを見つけた一木は、一直線にそばまで行って、自転車を飛び降りた。

「おまえさんが岡島君か。」

岡島は、まだ20代前半と若く、ここに入ってからあまり年数が経っていなかった。顔を真っ赤にして近寄ってくる一木を見て、戸惑いながら答えた。

「そうだけど。あんた誰。」

その答え方に、一木の怒りは頂点に達した。

「俺は、牧草3研の一木だ。おまえさん、さっき、牧野センターの畑を起こしただろ。何で勝手に俺の畑を壊したんだ。」

一木の怒鳴り声は、格納庫周辺に響き渡り、近くにいた科員がみんな振り返り、不穏な空気を察知して集まってきた。一木に怒鳴られた岡島は、何のことなのかわからなかった。

「なんも。俺は言われた通りに畑を起こしてきただけさ。」

「牧草が植わってたろお。おかしいと思わなかったのか。」

「牧草なんてどこにでも植わってるべさ。俺は言われたとおりやっただけだ。間違ってたんなら、言った奴が悪いべや。」

「何だと、責任転嫁するつもりか。」

つかみかかろうとする一木と岡島の間に寺山が割って入った。寺山は、ちょうどその時、別の用事で業務科に来ており、騒ぎを聞きつけてやってきたのだった。寺山は一木を制しながら岡島に、

「班長から言われたのか。圃場の番号はちゃんと聞いたのか。」

と、尋ねた。

「眠かったから、プラウで起こせと言われたことは覚えてっけど、圃場番号のことは、メモを渡されたから、それを見ればいいと思ってたからよく覚えてない。」

と、言ってポケットからメモを取り出して寺山に渡した。寺山はそれを見ながら一木に、

「おい、お前の起こされた圃場って、何番だ。」

と、聞いた。

「11の1番だ。」

それを聞いて、傍にいた他の業務科員が、

「岡島、聞いてなかったのか。確か1の11番だったぞ。」

と、言った。岡島は、驚いて寺山からメモを取り上げてそれを見た。そこには、「|―||」と、縦棒三本が、二本と一本に分かれ、間を横棒で繋ぐ形で書かれていた。1は、縦に引いただけなので、1の11をひっくり返すと11の1にも見えた。岡島は、メモを逆さまに読んで11の1番を起こしてしまったのである。寺山が岡島からメモを取り戻すと、一木や集まっていた科員がのぞき込み、口々に責め立てた。

「おい、これ、逆さまに見たろ。まあ、この書き方じゃ、間違っても仕方ないか。」

「おまえ、やっぱり聞いてなかったんだな。」

「なんで確かめなかったんだ。」

これを聞いて岡島は、うつむいて黙っていた。

「やっぱり間違ってたべ。どうしてくれるんだ。」

一木が岡島を、さらに問い詰めるように言ったが、岡島は、言葉を発することができなかった。

「まあ、この書き方じゃ、反対から読んでも仕方ないな。こんな書き方した人も悪い。でもな、やっぱりよく確かめなかったお前が悪いぞ。まずは一木君に謝んな。」

寺山は、意気消沈した岡島の姿を哀れに思い、彼の肩を軽く叩きながら言った。すると岡島は、

「すみませんでした。俺が間違ってたみたいです。」

と言って、一木に向かって深々と頭を下げて謝った。一木は、岡島のメモを何度か回転させて、書いてある文字を見ながらそれを聞いていた。彼は、メモを見ているうちに、確かにどちらにも読めるのがだんだんおかしくなってきて、こんな初歩的なミスで起こされたことが、あまりにも残念であったが、あきれてしまい次第に岡島が可哀想になってきて怒る気が失せてきていた。

「よしわかった。やっちまったことは仕方がない。もう一度プラウで天地返ししても元に戻るわけじゃないしな。ちゃんと間違いを認めたから、今回だけは許してやる。これからは、きちんと確認するんだぞ。それから、口の利き方にも気をつけろよ。」

そう言うと一木は、倒れていた自転車を立ち上げてまたがると、

「さあて、あの試験は、どう始末しようかな。」

と、呟きながら牧野センターの方に向かって走り去っていった。


 岡島は、ホッとした表情を浮かべると顔を上げた。一木が、思ったよりあっさりと怒るのをやめて行ってしまったことに寺山は拍子抜けしてしまったが、岡島がホースとブラシを持っているのに気づくと、

「プラウを洗うのは早すぎるんじゃないか。本当に起こさなきゃならない1の11番の方は、まだ起こしてないんだろ。さっさと行って、起こしてこい。」

と言って、岡島の頭を軽くたたくと、周りにいた科員に向かって、

「さあ、もう終わったから、みんな仕事に戻って、戻って。」

と言い、集まっていた科員を解散させた。岡島は、ホースとブラシを片付けると、トラクターに乗って牧野センターに向かっていった。


 寺山は、一緒に来ていた迫田とともに、乗ってきたトラックに乗り込み、岡島のことを話しながら、牧野センターに向かった。

「一木の奴、ずいぶんあっさりと矛を収めたな。もっと怒り続けるかと思った。」

「なんも、岡島みたいな奴は、いつまでも言われてると、返って言うことを聞かなくなるのさ。一木はそれをよく分かっているのさ。それより、岡島が謝ってる姿は愉快だったよ。あいつ、この頃調子に乗ってたからいい気味だ。他にもそう思ってる奴は多いと思うぜ。あっ、今言ったことは、内緒だぜ。あいつの一族に知れたらうるさいからな。」

「わかってますよ。岡島君は、この間辞めた長岡さんの甥っ子の子でしたっけ。」

「そうだ。長岡さんの親戚は、業務科だけでなく、総務や出面でめんさんの中にもいるから、気をつけないと、あっという間に話が伝わるからな。下手なことは言えん。」


 長岡というのは、長く業務科で飼料生産の班長を務め、寺山も新人の時に、業務科で研修を受けた際、世話になっていた人物である。この頃は、職員の退職年齢が定まっていなかったので、60歳をすぎても働き続けていた。このため、次第に科長より影響力がある存在となり、気に入らないことがあると、作業を遅らせたりすることもあった。また、科員の採用募集の時に、自身の親戚や知り合いが有利になるよう働きかけたこともあったと噂されていた。岡島も、そう噂される一人で、長岡の親戚と言うこともあり、若くても態度が大きく、一部の科員からは疎まれていたのである。

 一方、彼以外にも、職員同士が兄弟だったり、婚姻によって親族になったり、親戚になった者もいて、古くから羊ヶ丘にいる職員の相関図は複雑であった。迫田も岡島たちと異なる家系に属しており、親類が何人か職員の中にいた。これらは一種の派閥のようなもので、上手く立ち回らないと、試験作業の実施に支障を来すこともあったので、寺山も気を遣うことが多かった。しかし、本場ほんじょう機能の移転により、本場から移ってきた職員が増えるに従って、このようなことは少なくなっていった。

 なお、「出面さん」というのは、北海道で季節雇用の臨時職員あるいはパートタイマーのことを指す言葉である。


 この一件は、たちまち場内に広まったが、明らかに岡島に落ち度があり、メモを逆さまに見たと言うことが面白かったので、一木が、件の一族から嫌がらせを受けるようなことはなかった。反対に、すぐに非を認めて謝ったことと、それをすぐに許したことで、両者の評判は高まった。なお、この後、指示した班長が一木に謝りに来たことは言うまでもない。岡島も、この件をきっかけに一木を慕うようになり、一木が立ち上げた職場の野球チームに参加するようになった。彼は、スポーツが得意だったので、たちまち主力選手として活躍していくのであった。


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