第55話

 僕と長内が待ち合わせたのは、通っていた高校から一番近い場所にある、昔ながらの喫茶店だった。

 注文したコーヒーが運ばれてきても、僕はしばらく立ち上る湯気をぼんやり見つめていた。

「濱本君は、何も入れないの?」

「えっ?」

 その声に視線を上げると、長内がミルクポットに手を伸ばしかけていた。

「あぁ、うん」

 僕は何となく答えてしまったのだけど、何となくブラックで飲みたい気分だったので、ちょうどよかった。

「ブラックで飲むようになったんだ」

「えっ?」

「あの日は、角砂糖二個入れてたのに」

「あぁ……。だって、一個が小さかったし」

 僕は角砂糖の瓶に目をやった。瓶は変わっていたものの、角砂糖の大きさは変わっていないように見えた。

「あの日から、三十年近く経つのかぁ……」

 ミルクだけ入れたコーヒーをかき混ぜながら、長内は感慨深そうに言った。

「まさか、三十年近く経って、またこうやって濱本君と向かい合って座ることになるなんて、ちょっと想像してない未来だった」

「そうだね……」

 緊張感から解放されるために、告白の返事をすることに決めた僕は、コーヒーを一口飲んでから、短く息をついた。

「ごめん。長内とは付き合えない」

 僕はそう言ってから、小さく頭を下げた。

「もしかして、付き合ってる人と、別れられなかったの?」

「いや、その人とは別れた」

「じゃあ……」

「新しく、付き合うことに決めた人がいるんだ」

 長内は僕をじっと見つめるだけで、言葉を返してこなかった。同性愛者であることを打ち明ければ、仕方ないことだと諦めてくれるんじゃないか、そんな考えが頭に浮かんだのだけど、そこからまた説明が必要になってくるような気がしたので、僕はすぐに思い止まった。

「あの日、他に好きな人がいるから、って断った、その人なんだ」

 恐らく驚いているであろう、長内の表情を見ないように、僕は残っていたコーヒーを一気に飲み干した。

「本当に、ごめん」

 僕は再び小さく頭を下げた。そして、テーブルの上に置いてあった伝票を手にすると、その場でコートを着ることはせず、そのまま席を立った。

 会計を済ませて外に出た僕は、数歩前に出てから空を見上げた。喫茶店に入る前は青空が覗いていたのに、淡い灰色の薄い雲にすっかり覆われていて、頬に触れる空気も一段と冷たく感じられた。僕は脇に抱えていたコートを着てから、栗山が車を停めて待っている駐車場に向かって歩き始めた。

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