第52話

 仕事に出かける諒馬にお金を渡し、先に会計を済ませておいてもらったので、僕はカウンターの前に来ると、諒馬が後ろからかけてくれたコートに腕を通した。

「襟、立ってます」

「あぁ、ありがとう」

 僕の正面に立った諒馬は丁寧に襟を直してから、何も言わずに抱き締めてきた。

「諒馬……」

 僕は諒馬の背中に腕を回し、静かに目を閉じた。

「やっぱり、名残惜しいです」

「そうだな。恋人として抱き合うのは、これが最後になっちゃうもんな」

 それからしばらくの間、僕たちは言葉を交わさずに、お互いの抱き心地をしっかりと感じ合った。

「僕は結婚します。だから、貴史さんとは別れることになります。でも、好きなままで別れるわけですから、僕は貴史さんのことを、ずっと好きでいられます。そして、男の人を好きになるのは、これで最後にするつもりでいますから、僕が人生で一番好きになった人は……、ずっと、貴史さんのままです」

「諒馬……」

「一年間、僕の恋人でいてくれて、本当に、ありがとうございました」

 諒馬が涙声で言い終わると、僕の目から涙が溢れ出た。

「こちらこそ、僕の恋人でいてくれて、本当に、ありがとう」

 僕たちは最後にぎゅっと力を込めて抱き合い、どちらからともなく身体を離した。

「やっぱり、泣いちゃいました」

「泣かないなんて、無理な話だったんだな」

「でも、恋人としての最後は、お互いに笑顔の方がいいですよね」

「そうだな」

 諒馬が両手で目を拭ってから微笑んでみせたので、僕は目を潤ませながらも意識して頬を緩めた。

「何か、ぎこちないですよ」

「諒馬だって、人のこと言えないだろ」

 お互いに笑顔の不自然さを指摘し合うと、お互いの口から自然な笑い声が漏れた。

「じゃあ、行くよ」

「はい」

 諒馬は先に進んで自動ドアを手で開けた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 外に出ると、僕たちは再び向かい合った。

「じゃあ……、またね」

「はい。また」

 何とか笑顔を崩さすに答えた諒馬に頷き返し、僕はゆっくりと背中を向けた。短く息をつくと、何とか堪えていた涙がまた溢れてきたので、僕は歩き始めた。

 じゃあね。

 声には出さず、そして、振り返ることもせずに、僕は高く上げた手を振った。涙ぐみながら手を振り返している、そんな諒馬の姿が頭に浮かんでくると、ますます涙が止まらなくなり、僕は嗚咽を漏らしたのだった。

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