第51話
諒馬にとって、『ラウレア』で最後となる施術が終わった。
諒馬は簡単に床掃除を済ませると、二人分のコーヒーを入れた。
「お待たせしました」
諒馬が運んできたトレイの上には、二個のカップと一緒に小さな紙箱も載っていた。
「えっ、まさか、ケーキ?」
「オーナーが、スタッフみんなで食べる分とは別に、貴史さんと食べる分も買ってきてくれたんです」
「そうなんだぁ……」
「貴史さんが特別なお客さんだってこと、オーナーはよく分かってくれてるんで」
「ひょっとして、僕たちが付き合ってるの、ばれてた?」
「それはない、と思いますけど……」
「ある可能性ある、ってことだな」
「貴史さんを担当するようになってから、お客さんが増えた、っていう意味で特別だと思ってるだけです、恐らく」
「また曖昧な言い方になってるし」
「どうぞ」
諒馬はケーキを載せた皿を僕の手元に置いた。
「あぁ、ありがとう」
諒馬が自分の皿にケーキを移したのを見届けてから、僕は居住まいを正した。
「じゃあ、いただくとしますか」
「はい、いただきましょう」
「オーナー、ごちそうになります」
「僕は二つ目です。ごちそうになります」
僕たちは両手を合わせてから、フィルムを丁寧にはがし、ケーキにフォークを入れた。
「一個目も同じの食べたの?」
「いや、スタッフ用には、苺ショートとチョコとチーズの三種類があって、貴史さんと食べるのに苺ショートが入ってる、ってオーナーから聞いてたんで、チョコにしました」
「僕と諒馬が食べるケーキに、チョコでもチーズでもなく、苺ショートを選んだのか」
「二人で食べてる姿を想像して、苺ショートを選んだみたいです」
「そういうイメージなんだ」
「やっぱり、ばれてたのかもしれませんね」
「ばれてない自信を、完全に失ったか」
「先週の送別会、オーナーと二人だけで三次会をした、って話したじゃないですか」
「あぁ、言ってたね」
「酔っていたのもあって、オーナーに本当のことを話そうかな、って思ったんですよ」
「えっ、そうなの?」
「でも、思っただけで終わりました」
「思っただけか」
「よく考えたら、僕はオーナーと顔を合わせることがなくなりますけど、貴史さんはオーナーに髪を切ってもらうわけですから、僕の勝手な判断で話すことじゃないな、って」
「ちゃんと考えてくれたんだな」
「もし、貴史さんが構わないんだったら、話してくれてもいいです。僕は構いません」
「それって、考えようによっちゃあ、丸投げだよな」
「そうなりますかね」
「まぁ、オーナーと二人で飲みに行くことがあって、酔った勢いでその気になったら話すかもな」
「じゃあ、そう遠くないことかもしれないです」
「えっ?」
「貴史さんに送別会をしてもらった話のついでに、それまでにも何回か飲みに行ったことがある、っていう話をしたら、『これからは俺が担当するんだから、松尾君と同じようにした方がいいよな』って言ってましたから」
「諒馬は恋人だったからであって、客とスタイリストの付き合いで行ってたわけじゃないんだから、オーナーがそんな気を遣ってくれなくても」
「気を遣ってるんじゃなくて、オーナーは純粋に貴史さんと飲みに行きたい、って思ってますよ」
「そうなの?」
「学年はオーナーが一つ上ですけど、生まれた年は同じですからね」
「しかも、三ヶ月しか変わらないし」
「オーナー、ここが地元じゃないから、学生時代の友達がいないんですよ」
「その話は聞いたことあるな」
「息子さんの友達のお父さんたちも、年下の人ばっかりで、一番近くても四つ下らしいんですよ」
「あぁ、そうなんだ」
「だから、ほぼ同学年の貴史さんは、貴重な存在なんです」
「そう考えたら、僕にとっても、オーナーは貴重な存在なんだな」
「誘ってきたら、行ってあげてくださいよ」
「そりゃ勿論、行かせてもらいます」
先に諒馬の皿が空いたのを確認すると、僕はバランスを失って倒れてしまった最後の一片を口に入れた。
「美味しかったですね」
「美味しかった」
「ごちそうさまでした」
「オーナー、ごちそうさまでした」
僕たちはフォークを置いてから、再び両手を合わせた。
「何か、途中からオーナーの話になってましたね」
「まぁ、僕たちの話は、昨日一昨日で十分にしたからな」
「そうですよね……」
諒馬はどこか寂しそうな表情を浮かべた。
「貴史さんの髪を切っているとき、砂時計が頭に浮かんできたんです」
「砂時計?」
「切った髪が落ちていくのが、砂が落ちていくのと重なったんでしょうね」
「あぁ、そういうことか」
「それを意識してから、その砂時計が頭の片隅から離れてくれなくて……」
そこまで言ってから、諒馬は静かに目を伏せた。やがて、上の部分にはほとんど砂が残っていない砂時計の映像が、続きの言葉を待つ僕の頭にぼんやりと浮かんできた。
「僕が髪を切るのを止めてしまえば、砂が落ちるのも止まって、貴史さんと恋人同士でいられる時間が延びるんじゃないか、って考ええるようになって……。そんなことあるはずないのに」
諒馬は大きく息を吐き、小さく鼻をすすった。
「一つだけ、まだはっきりと話してないことがある」
諒馬が顔を上げるのを待ってから、僕は続けた。
「僕たちの、これからのこと」
「これからのこと……」
「諒馬」
僕は諒馬の目を真っ直ぐに見つめた。
「明日から、松尾君として、僕の友達になってくれないかな?」
「えっ……?」
「諒馬は結婚するんだから、恋人として付き合ってた僕とは、きっぱりと縁を切ってしまうべきなんじゃないか、って考えてたんだけど……、実際に別れる日が来たら、気持ちの準備が全然できてなくて……、正直な話、縁を切ることは無理だと思った。諒馬が恋人じゃなくなっても、諒馬を一人の人間として、好きだなぁ、って心から思うところは、なくならないんだよ。一年間付き合ってきて、諒馬の好きなところを、僕はたくさん見つけることができた。それなのに、縁を切ってしまって、なかったことにするなんてさぁ……。だから、未練がましくて、すがるようで、みっともないかもしれないけど、たくさん好きなところがある諒馬と、これからは友達として付き合っていきたいんだ」
僕は一気に話してしまうと、僕はカップの取っ手に指をかけた。ぬるくなったコーヒーを口に含み、カップをソーサーに戻しても、諒馬は神妙な面持ちのままで、言葉を返してこなかった。
「だめかな……?」
沈黙が少し気まずく思えてきて、僕はおずおずと顔を上げた。
「すいません」
諒馬は目を拭いながら謝った。
「そうか……」
「あぁ、あの、違いますから」
断られたのだと解釈してうなだれた僕に、諒馬は慌てて言った。
「すぐ答えなきゃいけなかったのに、貴史さんの言葉を頭の中で整理してたら、いつの間にか、何も考えてない状態になってて……」
「結構な長台詞だったし、言った本人が、ちゃんと整理して話せてたのか、全く自信ないんだから、聞かされた方はなおさらだよな」
「いや、そんなことは……。あれですよね、僕が泣いてるから、余計に勘違いさせちゃったんですよね」
「あぁ、まぁ……、うん」
「もう恋人でいられなくなるんだなぁ、って改めて実感したら、やっぱり、寂しくて、悲しくなってきたんですけど……、これからは友達でいられるんだ、って思ったら、やっぱり、すごく嬉しくて……。悲しいのと、嬉しいのが、ごっちゃになった涙です」
「じゃあ……」
「勿論です」
「よかったぁ……」
ほっとしたように呟くと、僕の肩から力が抜けていくのが分かった。
「貴史さん」
諒馬は僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「明日から、濱本さんとして、僕の友達になってください」
「勿論です」
「よかったぁ……」
諒馬が目を潤ませたまま微笑むのを見て、僕はじんわりと目頭が熱くなってくるのを感じた。
「そうか」
再び二人の間に流れていた沈黙を破ったのは諒馬だった。
「僕と貴史さんって、友達に戻るんじゃないんですよね」
「そうだよ。スタイリストと客の関係だったのが、友達とばしで、いきなり恋人になったんだから」
「友達とばし、ですか」
「だから、別れたら友達には戻れない、っていうのはない」
「友達っていう、新しい関係になるんですもんね」
「そういうことだな」
「生まれて初めてだと思います。友達になってください、って口に出して言ったの」
「言うのも、言われるのも初めてだと思う」
「あんまり口に出して言うことじゃないですよね」
「言えば手っ取り早いのかもしれないけど、何か言えないよな」
「何か言えないですね」
「その言葉を使わないで、いかに友達になれるか、そこでコミュニケーション能力を問われる、ってところはあるのかもしれない」
「あぁ……。じゃあ、僕も貴史さんも、コミュニケーション能力がない、ってことになりますね」
「そうなっちゃうよな」
「でも、その言葉を使って、ちゃんと友達になれたんなら、意思疎通ができたことになりますよね」
「それもそうだな」
「だから、ないことはないんですよ」
諒馬がコーヒーを一口飲んだので、僕はカップに手を伸ばしかけたのだけど、次の一口で飲み終わる量しか残っていなかった。
「どうしました?」
僕の手が止まったことに、諒馬はすぐに気付いたようだった。
「いや、飲み終わったら、ここにいる理由がなくなるなぁ、って思ったんだけど……」
そこでコーヒーを一気に飲み干してから、僕は続けた。
「このまま一緒にいたら、寂しさと悲しさが募っていく一方だろうから……、お互いが友達になる約束ができて、気持ちがすっきりしている今のうちに、別れた方がいいような気がするんだ。それに、僕も諒馬も、明日は早起きしなきゃいけないんだから、今日は遅くならないようにしないとな」
諒馬は考え込むような表情を浮かべていたのだけど、ほどなく納得したように頷いた。
「そうですよね」
僕に微かな笑顔を作ってみせてから、諒馬はカップを口へ運んだ。
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