第50話
三月最後の土曜日、僕は午後八時少し前に部屋を出て、営業時間が終了した後の『ラウレア』へと足を運んだ。
「お待ちしておりました」
すでに待機していた諒馬は、僕の姿を確認すると、自動ドアを手で開けて中に入れてくれた。
「コート、お預かりします」
手を差し出してきた諒馬に頷き、僕はコートを脱ぎ始めた。
「オーナーが、『よかったら、個室使ってもいいよ』って言ってくれたんですけど……」
「あぁ、そうなんだ」
僕は個室のドアがある方をちらりと見てから、チェアが三台並ぶ施術スペースに視線を移した。
「オーナーの気持ちはありがたく受け取っておくけど……。やっぱり、あの席がいいな」
僕は向かって右側の、初めて諒馬に髪を切ってもらったチェアを指差した。
「そう言うと思いました。どうぞ」
すぐ後ろをついて来る諒馬の靴音に耳を傾けながら、僕はチェアへと足を進めた。
「あのさぁ……」
諒馬が首回りにタオルを巻き始めたところで、僕は切り出した。
「今日、どんな感じで過ごそうかなぁ、って考えてたんだよ」
「どんな感じで、ですか……」
「やっぱり、お店での思い出、っていうか、こんなことあったよなぁ、っていう話に花を咲かせるのがいいのかな、とは思ったんだけど……」
鏡越しに諒馬と目が合うと、僕は言葉を止めた。
「何か、照れ臭いな」
「そうですね」
僕につられるように、諒馬も頬を緩めた。
「最初の頃は、鏡越しに目が合うだけで、めちゃくちゃ恥ずかしかったです」
「僕も恥ずかしかったけど、今日は松尾君と目が合った、ってその日はずっと嬉しい気持ちだったな」
「あっ、その頃は、松尾君呼びなんですね」
「そりゃそうだよ」
「こんな感じで話に花を咲かせるのがいいのかな、とは思ったんだけど……」
「あぁ、そう思ったんだけど、そういう話はなしで、諒馬が作業をする上で必要な会話、それだけにしてほしいんだ」
「雑談はなし、ってことですか?」
「そう。うまく言えないんだけど、諒馬が髪を切ってくれている、それだけを感じていたいんだよ」
諒馬は微かに何度か頷いてから、何か思い付いたような表情になった。
「発泡酒とカップ麺の理論ですね」
「えっ?」
諒馬が口に出した予想外の言葉に、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あれっ、違います?」
「いや……、そういうことなのかな?」
「僕、何気に好きなんですよね、その理論」
「理論にしたつもりはないんだけど……」
「おつまみなしで発泡酒を飲む、他のおかずなしでカップ麺を食べる、これらは美味しさが一番よく分かる、贅沢な楽しみ方である」
「理論っぽく言ったな」
「でも、貴史さんからその話を聞いて、本当にそうだなぁ、って思うようになりました」
「その理論に当てはめるなら……、雑談なしで諒馬に髪を切ってもらう、これは諒馬の確かな技術が一番よく分かる、贅沢な時間の過ごし方である、ってとこかな」
「それなら、貴史さんに贅沢な時間を過ごしてもらえるよう……、雑談はここまでにしますか」
「あっ、その前に一つだけいい?」
「何ですか?」
「僕の考え方に諒馬が共感してくれてた、ってことが知れて、すごい嬉しかったよ」
「これって、僕が貴史さんと付き合った、一つの証になるわけですから、大切にしていきます」
「証かぁ……」
「証です」
諒馬はシャンプークロスのマジックテープを留め直し、僕の首とタオルの間に指を差し込んで締まり具合を確認した。
「首、苦しくないですか?」
「はい、大丈夫です」
「椅子、回しますね」
僕に穏やかな微笑みを見せてから、諒馬はゆっくりとチェアを回転させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます