第48話

 日付が変わるまで一分を切ってから、僕はこっそりと部屋を出て、一時間ほど前に諒馬から届いたメールに従い、大浴場へと向かった。先に到着していた諒馬は、若旦那スタイルのままで引き戸の前に立っていた。

「すいません、こんな時間に」

「こんな時間でも、好きな男に呼び出されたら、嬉しくて来ちゃうもんだよ」

「何言ってるんですか。さぁ、どうぞ」

「あぁ、ありがとう」

 僕を先に通してから、続いて中に入ると、諒馬は引き戸の鍵をかけた。

「えっ、どうしました?」

「いや、鍵をかけた、カチャっていう音に、何かどきっとしちゃった」

「もう、何やらしいこと考えてるんですか」

 諒馬は僕の背中を軽く叩いた。

「そう言いながら、にやけてるだろ」

「そんなこと……あります」

「あるのかよ」

「そりゃあ、好きな男と一緒に、二人きりで風呂に入るんですから」

 部屋に置いてあるものと色違いの巾着袋をかごに入れると、諒馬は羽織っていた法被を脱いだ。

「結婚相手も働いてる旅館の大浴場で密会するなんて、なかなか大胆な行動だよな」

「貴史さんをここに招待した時点で、十分に大胆な行動じゃないですか」

「まぁ、それもそうか」

「貴史さんの部屋で朝を迎えるくらいじゃないと」

「さすがにそれはまずいって」

 僕はほどなくパンツ一丁の状態になったのだけど、諒馬はまだワイシャツを着たままスラックスを畳んでいたので、まだ素っ裸にならないことにした。

「石井さんと話したんですよね?」

「あぁ、うん。そんなつもりはなかったんだけど、栗山君の失敗談を話しちゃってた」

「失敗談?」

「結婚する前に幼なじみと付き合えてたら、離婚することになるような過ちを犯さずに済んだのかもしれない、っていう話」

「あぁ……」

「これから結婚を控えてる人にする話じゃない気もしたんだけど……、僕と諒馬が付き合ってるのって、そういうことなんじゃないかなぁ、とも思ったから」

「石井さん、『濱本さんと話ができてよかった』って言ってました」

「僕にも言ってくれたよ」

「それ聞いて、何か嬉しかったです」

「嬉しかった?」

「僕が好きになった人を、ちゃんと認めてもらえたような気がして。あと、僕は男を見る目があるんだなぁ、って改めて思えたんで」

「自分で言うか」

「でも、貴史さんを褒めてることにもなりますからね」

「あぁ……、そうなるのか」

「貴史さん」

 僕に真っ直ぐな視線を向けると、諒馬は続けて言った。

「パンツ、脱がないんですか?」

「えっ?」

 僕が気付かないうちに、諒馬は素っ裸になっていた。

「待ってたんだって」

「えっ、パンツ脱ぐのをですか?」

「だって、素っ裸で待ってるのも間抜けだと思ったからさぁ……」

「あぁ、そうだったんですね」

 脱いだパンツをかごに入れると、僕は諒馬に続いて浴室へと向かった。


 一度入浴しているので、必要ない気もしたのだけど、隣に並んだ諒馬に付き合って、僕も簡単に髪を洗うことにした。七三分けのためにワックスを使っていた諒馬は、シャンプーに時間をかけていたので、僕がコンディショナーを洗い流したときには、コンディショナーを頭になじませている段階だった。

「貴史さん、身体洗います?」

「あぁ、夕方にも洗ってるし、どうしようかなぁ……?」

「嫌じゃなかったら、洗ってほしいんですけど……」

 ナイロンタオルを差し出してきたその表情を見て、諒馬が何をしたいのか、僕はすぐに察した。そして、諒馬がコンディショナーを洗い流すのを待ってから、ナイロンタオルに含ませたボディソープを泡立て始めた。

「いつもは、どっちから洗ってたの?」

「兄が先に洗ってくれて、僕が後から洗ってました」

「ずっとそうだったの?」

「そうですね。小さいときは、僕がさっさとシャンプーを済ませて、先に身体を洗い始めてたんで」

「あぁ、そういうことか」

「兄を見習って、僕もシャンプーに同じくらいの時間をかけるようになったんですけど、順番は変わらなかったですね」

「そういう流れみたいなのが、染み付いちゃったのかな」

「そうなんでしょうね」

「じゃあ、僕が先に洗えばいいんだな」

「あっ、忠実に再現してもらえるんですね」

「そりゃそうだよ」

 嬉しそうに目を細める諒馬の横顔を見て、僕も頬が緩んでくるのを抑えられなかった。

「本当はさぁ、二人で泊まりがけで旅行するとき、部屋風呂か貸切風呂があるところを予約しようかな、って考えたことはあるんだ」

「えっ、それって、兄とここで背中を流し合った、っていう話を聞いてですか?」

「それをしたくても、大浴場だと、他の人の目が気になるし」

「小さい子がお父さんに流してもらってるのは見ますけど、大人同士っていうのは見ないですもんね」

「でも、同じようなことをしても、僕は諒馬のお兄さんの代わりにはなれないし、背中を流し合うっていうのは、二人だけの特別な思い出として残しておいた方がいいのかな、とも思ったからさぁ……、僕の方から、そう仕向けるようなことはしなかったんだ」

「そうだったんですね」

「でも、諒馬から仕向けてきた」

「僕は貴史さんとも、兄と同じように背中を流し合いたいとは思ってました。でも、部屋風呂のある部屋は高いですし、男二人で貸切風呂っていうのは、宿の人がどう思うか気になりますし……」

「そうだよなぁ……」

「だから、旅館の若旦那という職権を濫用しました」

「職権濫用か」

「だって、結婚相手がいるにもかかわらず、付き合ってる男と落ち合って、営業時間外の大浴場で背中を流し合うわけですから」

「そう言われると、とても悪いことをしてるように聞こえるな」

 足の裏をこすり終わると、僕はナイロンタオルを鏡前のカウンターに置き、諒馬の方に顔を向けた。

「背中以外は終わりました」

「じゃあ、流そうか」

「お願いします」

 ナイロンタオルを渡してから、諒馬は僕に背中を向けた。

「何か、緊張します」

「僕もだよ」

 これまでに何度も後ろから抱き締めた、諒馬の色白で少し華奢な背中をしげしげと見つめてから、僕は泡立てたナイロンタオルでこすり始めた。

「力加減はどう?」

「あぁ、いい感じです」

「こんな感じでいいんだな」

 ほどなく背中全体に泡が広がったものの、これで終わってしまうのは、何だか呆気なく思えた。

「どれくらい時間をかけるもんなのかな?」

「時間は分からないんですけど、兄のやり方だと、ざっと汚れを落とす感じと、丁寧に細かくマッサージするような感じで、二回こすってました」

「マッサージするような感じ……」

 僕はナイロンタオルを諒馬の右肩に当て、円を描くようにしてこすってみた。

「これが僕のイメージするマッサージなんだけど……」

「あぁ、いいと思います」

「合ってるのかなぁ……?」

「されてる方が気持ちよかったら、それでいいんじゃないですか?」

「じゃあ、こんな感じで」

「はい、そんな感じで」

 少しでも気持ちいいと思われるように、そのことを意識するあまり、僕は全く話さなくなったのだけど、諒馬が気持ちよさそうな息を漏らしていたので、それを聞いているだけで十分だった。

「とりあえずは一通り終わったかと」

「ありがとうございます」

 洗面器に汲んだお湯をかけて諒馬の身体に付いていた泡を流すと、今度は僕が諒馬に背中を向けた。

「実は、この大浴場を使うの、兄が亡くなってから初めてなんです」

 諒馬はそう言ってから、僕の背中をこすり始めた。

「えっ、そうなの?」

「ここを使うときは、いつも兄が左隣にいてくれたんで、そうじゃない状況を実感するのが、ちょっと怖かったんです」

「そうかぁ……」

「何となく察してるとは思いますけど、先に謝っておきます」

「えっ?」

「今の僕は、貴史さんとの思い出を作りながら、兄との思い出に浸ってます」

「そりゃそうなるよなぁ……」

「すいません」

「呆れるくらい正直だな」

「貴史さんほどじゃないですけどね」

「いや、諒馬も相当だろ」

「じゃあ……」

 諒馬はナイロンタオルを僕の肩に当て、丁寧に細かくこすり始めた。ヘアサロンの仕事でマッサージをすることもあるだけに、力加減が絶妙で、とても気持ちがよかった。諒馬も全く話さなくなったのだけど、別に気まずいと思うことはなかった。

「気持ちよかったですか?」

 洗面器にお湯を汲みながら、諒馬が聞いてきた。

「すごい気持ちよかったよ。何かもう、とろけそうだった」

「大袈裟過ぎて、さすがに嘘臭いです」

「いやいや、やっぱり、プロがやると違うんだと思った」

「いや、貴史さんがやってくれたのだって、気持ちよかったですよ」

 僕が諒馬にしたのと同じように、洗面器で三杯のお湯をかけてもらうと、身体に付いていた泡はほぼ流れた。

「ありがとう」

 僕が身体の向きを変えようとしたところ、諒馬が後ろから抱き締めてきた。

「諒馬……」

「少しの間だけ、こうしてていいですか?」

 僕は答える代わりに、諒馬が胸の下に回していた手をそっと握った。

「すいません……」

 諒馬は僕の右肩に顎を載せると、か細い声で謝った。

 諒馬はこうして抱き締められなかった兄のことを思っていたのだろう。それでも、諒馬と素肌が触れ合うのを感じられるだけで、僕の気持ちはすっかり満たされたのであった。

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