第35話

 酔いのせいで頭に鈍い痛みを覚えていた栗山を、僕はホテルの最上階にある部屋まで送っていった。恐縮する栗山に、眠ったのを確認したら帰ると話しておいたのだけど、寝息が聞こえるようになってからも、僕はまだ部屋に残っていた。

 カウンターデスクは窓際にあり、薄い方のカーテンだけが閉めてある窓の向こうには、少しだけ欠けた月が浮かんでいるのが分かった。僕は椅子に背をもたせかけ、その月をぼんやりと眺めながら、栗山から聞いた佐川に関する話を思い返した。


 通っていた大学が近かったこともあって、大学生になってからも、栗山と佐川の幼なじみとしての付き合いは続いていた。

 佐川は大学の演劇サークルに所属し、佐川が書く脚本を気に入った同級生二人と、大学三年生の夏に劇団を立ち上げた。三人の交友関係が広かったこともあって、会場は小さかったものの、旗揚げ公演は連日満員の大成功を収めた。手応えを感じた佐川は、劇団の活動だけで食っていける可能性に賭け、大学卒業後も定職に就かなかった。

 しかし、現実はそう甘くなく、公演の動員数は伸び悩み、やがて劇団は赤字を抱えるようになった。その後も、公演は打つものの、赤字は増えていくばかりで、その状況を打破できないことへの苛立ちから、三人の関係もぎくしゃくし始めた。そして、佐川が二十六歳だった春、恋人の妊娠を機に就職することになった同級生の一人が退団したため、そのまま劇団は解散することとなった。

 劇団が解散してから約二ヶ月後のゴールデンウィーク、栗山は数年振りに帰省した佐川と会うことになった。電話やメールで連絡は取り合っていたものの、実際に顔を合わせるのは、就職した栗山の送別会以来だった。その再会を果たした夜、栗山は結婚が決まったことを報告し、佐川から心のこもった祝福を受けた。

 栗山が結婚式の招待状を送った数日後、佐川が電話をかけてきた。佐川は結婚式に出席できないことを謝ってから、栗山が理由を聞こうとしたのを遮り、「もう一つ、謝ることがあるんだ」と言った。そして、しばらく沈黙した後に、「俺は、高校のときから、隆太のことが好きだった」と告白し、気持ちにけりをつけたかったから、という自分勝手な理由でそんな行動に出たことを謝った。

 その電話があってから一年足らずの間に、佐川の父と母が立て続けに他界した。佐川は相続放棄をして、二人の兄に実家へは戻らないと告げた。さらには、誰にも新しい住所を教えずに転居し、健在であることを伝える手紙を実家に送ってくるだけになった。携帯電話の番号も変更されたので、栗山は佐川と連絡が取れなくなってしまった。

 ふと思い出して心配になることはあったものの、佐川を探し出したところで、もう幼なじみの関係を続けられないような気がして、栗山はどうしたらいいのか分からなかった。

 結局、何もできないまま、月日は流れていき、三年前の春、栗山は佐川の兄から、佐川が亡くなったことを知らされた。

 佐川は地域の情報サイトを運営している会社でライターとして働いていた。勤務態度はいたって真面目で、職場での人間関係は良好だったのだけど、プライベートでの付き合いは、全くと言っていいほどなかった。そのため、金曜日の夜遅くに心臓発作を起こした佐川が、自分の部屋で亡くなっているところを発見されたのは、月曜日の午後になってからだった。

 佐川が一人暮らしの部屋で孤独に死んでいき、二日以上も気付いてもらえなかった、そんな最期を迎えたことに、栗山は大きな精神的打撃を受け、何もできなかった自分を責めた。しかし、そうしたところで、佐川が生き返るわけでもなく、悲しみや虚しさが募るだけだった。


 話を終えた後に、顔を伏せて鼻をすする栗山の姿が脳裏に浮かんでくると、僕は顔を宙に向け、ゆっくりと息を吐き出してから目を開けた。

 勿論、悲しいという気持ちが湧かないわけではなかったのだけど、ニュースで有名人の訃報を聞いたときみたいな、実感に乏しいところがあるのは否めなかった。それよりも、佐川と同じような最期を迎える可能性が、これから先の自分にも十分ありうることに、僕はえも言われぬ不安を覚えたのだった。

 カウンターデスクに置いてある栗山のスマートフォンからメールの着信音が鳴った。僕はベッドの方へ振り返ったのだけど、栗山は相変わらず静かな寝息を立てていた。前に向き直り、卓上時計に目をやると、針は午後十一時を指そうとしていたので、僕は帰ることに決めた。

「帰るね」

 とりあえず小さく声をかけてみたものの、栗山からの返事はなかったので、僕は椅子から立ち上がった。

「帰るね」

 僕はベッドの脇に立ってから、再び声をかけてみた。やはり、返事はなかったので、手提げカバンを床に置き、その場でしゃがみ込むと、栗山の寝顔を覗き込んだ。

 栗山の寝顔を覗き込むのは、これが初めてではなかった。

 佐川の家でコントの合宿練習をしたとき、夜中に目を覚まし、隣で眠っていた栗山の顔を覗き込んでいたら、唇を重ねてみたい衝動に駆られたのだけど、指でそっと触れてみるだけで精一杯だった、ということがあった。

 まじまじと見つめる顔には、髭がぽつぽつと伸び、細かいしわや薄いしみも見られた。さすがに高校生のような瑞々しさは失われているものの、とても四十五歳には思えないような若々しさは感じられた。そして、好きな顔だと改めて実感した。

 やはり、唇を重ねてみたい衝動に駆られたのだけど、僕は諒馬の顔を思い浮かべることで、それを抑えるための理性を働かせた。

「おやすみ」

 僕は囁くように言ってから、そっと立ち上がり、足音を忍ばせて部屋を出ていった。

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