第36話

 クリスマスの夜、勤務最終日だった藤田の送別会が行われた。

 会社の従業員が集まってのイベントに、業務委託の校正者が参加することはないのだけど、藤田の上司が誘ってくれたので、僕も顔を出すことになった。

 藤田は最後の挨拶で、故郷にいる幼なじみと結婚することを報告した。

 藤田の上司も含めて、会社の従業員は誰も知らなかったようで、どよめきが起こった。僕もそんな話は聞いていなかったので、呆然としていたのだけど、やがて拍手喝采が始まると、つられるように手を叩いた。

 送別会がお開きになり、店の前でたむろしているときも、藤田は会社の従業員たちに囲まれていたため、僕は結婚についての話を聞くことはできず、最後に簡単な挨拶と握手を交わしただけで別れた。

 一人きりの帰り道を三十分ほど歩き、近所の商店街に入ってしばらくすると、藤田から電話がかかってきた。

「もしもし」

「あっ、すぐ出ましたね」

「松尾君に電話かけようとしてたところだったから」

「あぁ、僕じゃないんですね」

「残念ながら」

「もしかして、今から、会うんですか?」

「いや、そのつもりは……。えっ、何、走ってるの?」

「走ってます」

 近付いてくる足音に振り返った僕は、こちらに向かって走ってくる藤田の姿を見て、思わず言葉を失った。

「電話、切れてますよ」

 立ち止まっていた僕に追い付くと、藤田は息を弾ませながら言った。

「あぁ、そうか」

「めちゃくちゃきょとんとしてますね」

「そりゃするだろ」

「すいません、電話かけるところだったんですよね」

「あぁ……、まぁ、いいよ」

 僕はそう答えてから、スマートフォンをズボンのポケットに入れた。

「えっ、いいんですか?」

「何かさぁ、ちょっと寂しい気分になってたから、声を聞こうとしてただけだよ」

「じゃあ、よくないじゃないですか」

「今はこうして、藤田君が目の前にいるし」

「僕で、代わりが務まります……?」

 その言葉とは裏腹に、藤田はどこか自信ありげな表情を見せた。

「そもそも、寂しい気分になったのって、藤田君のせいだから」

「えっ、僕のせい?」

「いきなり結婚なんて発表するし、何か、最後もあっさりした別れ方だったし……」

「あぁ、そうですよね。すいません」

「でも、こうやって来てくれたから、嬉しいよ」

「僕も嬉しいです」

「えっ?」

「濱本さんが、寂しいと思ってくれた、っていうのが」

「そりゃあ、なるよ。なるに決まってる」

 藤田が照れ笑いを浮かべるのを見て、僕は胸がざわめくのを感じた。

「せっかくなんで……、飲み直しません?」

「あぁ、いいけど……」

 僕は腕時計に目をやった。藤田が帰れる一番遅い電車の時間までは、まだ一時間半ほどあった。

「引っ越しの準備……」

「大丈夫です。寝る布団以外は、ほぼ片付けてありますから」

「えっ? 夜通しで準備しないといけない、って……」

「そうでも言わないと、二次会以降も連れてかれちゃうんで」

「嘘ついたのか」

「だって、二次会に行ったら、濱本さんと飲み直せないじゃないですか」

「えっ、最初から、そのつもりだったの?」

「そうですよ」

 僕は驚きを隠せないでいたのだけど、藤田はこともなげに答えた。

「じゃあ、言ってくれよ」

「言おうとも思ったんですけど、まぁ、ちょっとした賭けに出た、ってところですかね」

「賭け?」

「濱本さんを追いかけてって、会うことができるかどうか」

「じゃあ、会えなかったら、どうするつもりだったの?」

「そこまでの縁だったんだな、って諦めて帰るつもりでした」

「そんな寂しい結果が待ってるなんて、なかなか危険な賭けだなぁ……」

「でも、勝ちましたから」

「まぁ、結果オーライか」

「というわけで、濱本さんのおごりで」

「えっ?」

「勝者には、何かしらのご褒美がないと」

「藤田君が勝手に賭けてただけで、僕は主催者でも何でもないし」

「まぁ、そうですけど……」

「でも、今日は、藤田君に出させるわけにはいかないか」

「よっしゃ」

 仕方なしに言った僕に、藤田は小さくガッツポーズをしてみせた。

「ありがとうございます」

「僕の方こそ」

「えっ?」

「勝ってくれて、ありがとう」

 僕が微笑みかけると、藤田は嬉しそうに目を細めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る