第22話

 六月の第四日曜日、僕は四十五歳の誕生日を迎えた。

 恋人として諒馬に祝ってもらえる、最初で最後の誕生日だというのに、前回は何年前だったのか記憶していない夏風邪をひいてしまい、僕は金曜日の夜から寝込んでいた。

 自分の部屋でショートケーキを食べて祝うことを伝えるメールを送ってきた藤田に、風邪をひいて今は一人で寝込んでいることを伝えるメールを返すと、ほどなく、藤田から電話がかかってきた。

「もしもし」

「あぁ、藤田です。すいません、心配でかけちゃいました」

「ううん、こっちこそ、心配かけてごめん。あと、心配してくれてありがとう」

「いえ、そんな……。それより、具合はどうなんですか?」

「あぁ、昨日はかなりしんどかったけど、夜と今日の昼に結構汗かいたから、だいぶましになったよ」

「それならよかったですけど……。土曜からですか?」

「いや、金曜の夜から。冷房の効き過ぎで、昼間にちょっと寒気がしてたんだよ」

「あぁ、そうだったんですか。全然気付きませんでした」

「一時的なものだろう、って思ってたんだけど、夜になってから急激に悪化してきちゃって……。金曜も昨日も、松尾君が仕事終わりに来て、終電まで看病してくれた」

「今日はまだ来てないんですか?」

「まだだね。でも、最後のお客さんが六時半から、って言ってたし、そろそろ終わる頃だと思う」

「じゃあ、あとは松尾君に託すとして……。明日、来れそうですか?」

「大丈夫だと思うけど……、休むことになったら、ごめんなさい」

「仕事のことは僕が何とかしますから、無理し過ぎないでください」

「無理しないで、じゃないんだ」

「気付きましたか。さすがですね」

「聞いてて、妙な違和感があったから」

「濱本さんのことだから、ちょっとは無理すると思うんで」

「あぁ、よく分かってらっしゃる」

「でも、ちゃんと治してくださいよ」

「はい、ちゃんと治します」

「じゃあ……、濱本さん、お誕生日おめでとうございます」

「あぁ、そうか」

「こういう状況で言うのも何ですけど」

「いや、それでも嬉しいよ。ありがとう」

「じゃあ、できたら、また明日」

「はい、できる限り、また明日」

 電話を切ると、僕の部屋があるビルの前の道を歩いてくる靴音が耳に入ってきた。諒馬だったら、完治して明日は仕事に行ける、そんな運試しを思い付いたので、僕はベッドから起き上がり、しっかりと床を踏みしめるようにして、玄関へと歩いていった。マットの上に立つと、階段を上がってきた靴音が止まり、ドアの向こう側から鍵が開けられた。

「うわっ、びっくりした……」

「おかえり」

「あぁ……、ただいま、です」

「ごめん、おどかして」

「あぁ、いや……。それより、大丈夫なんですか?」

「だいぶましになったよ」

「それならよかったです」

 僕が微笑みながら答えると、諒馬は安堵の表情を浮かべた。

「あぁ、持つよ」

「あぁ、すいません」

 手に提げていたビニール袋と紙袋を僕に渡すと、諒馬は靴を脱いで廊下に上がった。

「本当に買ってきたんだな」

 僕がビニール袋の口を広げると、諒馬が入ってきたときから漂っていた、ステーキのにおいがさらに強くなった。

「ステーキを食べることになったら、食欲を取り戻そうとして、風邪が治るかもしれないなんて……」

「我ながら、むちゃくちゃな理論だと思う」

「でも、自分で正しいことを証明したんですから、すごいと思います」

「何か、不思議な褒められ方なんだけど」

 僕はキッチンのテーブルにビニール袋を置き、今度は紙袋の口を広げた。

「ケーキの箱、大きくない?」

「ホールで買っちゃいました」

「えっ、ホールで買ったの?」

「大きいケーキを食べることになったら、食欲を取り戻そうとして……」

「その理論かよ」

「あとは、円いケーキをそのまま二人で食べる、っていうのをしたかったんで……」

 僕と目が合うと、諒馬は照れ臭そうに小さく頷いた。

「あぁ……」

「えっ?」

「諒馬のこと、無性に抱き締めたくなったんだけど……、汗だくなんだよ」

 諒馬がスウェットを着た僕の背中に触れると、汗で濡れたシャツが張り付いた。

「あっ、スウェットまで染みてきてるじゃないですか」

「やっぱり?」

「せっかく治りかけてるのに、ぶり返すじゃないですか。早く着替えてください」

「はい、そうします……」

 わざと怒ったように言った諒馬に、僕はしおらしい声で答えてから、そそくさと洋室に入った。

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