第21話

 浅い眠りから目が覚めると、すぐ隣で仰向けになっていた諒馬が目を開けていた。

「起きてたんだ」

「あぁ……。夢を見て、少し前に目が覚めたんです」

「どんな夢だったの?」

「兄が出てきました」

 諒馬は平然と答えたのだけど、兄が出てきたというところから、明るい内容でなさそうなことは、何となく察しがついた。

「何で、こんなときに、兄の夢を見ちゃうんですかね……」

「こんなときだから、なのかもしれないよ」

 僕は身体をこちらに向けた諒馬を抱き締めると、その鼓動を感じられるように裸の胸を合わせた。

「色々と思い出して辛いんだったら、無理に話さなくていいけど、少しでも諒馬の気持ちが楽になるんだったら、お兄さんのこと、詳しく話してほしい」

 諒馬が頷いたので、僕は身体を離し、今度はそっと手を握った。そして、天井に視線を向けたまま、諒馬が話し始めるのを待った。


 諒馬には四つ年齢が離れた兄がいた。

 兄弟はとても仲がよく、物心がついてからけんかをした記憶がないほどだった。

 諒馬の実家は老舗の旅館で、大浴場を備えており、宿泊客の利用時間が終了すると、従業員たちが入っていいことになっていて、入浴が遅い時間なったときは、諒馬も兄に連れられて大浴場を利用することがあった。

 諒馬が高校一年生だった秋のある日、兄に誘われて二人で大浴場に行った。

 旅館の経営はあまり芳しくなく、諒馬の父は自分の代で畳むつもりであることを、兄弟二人が小さいときに伝えていて、自分のやりたい仕事に就くように話していた。

 諒馬が兄の背中を流しているとき、「旅館を畳んだら、この大浴場もなくなっちゃうんだろうな」と兄が寂しそうに呟いた。「こうして背中を流し合うこともできなくなるのかな」と諒馬が同調すると、「後で聞いてほしい話があるんだ」と兄が真面目な口振りで言った。

 大浴場を出てから、諒馬は兄の部屋について行った。テーブルを挟んで向かい合って座ると、兄は特に前置きもせず、「旅館を継ごうと思ってるんだ」と諒馬に告げた。

 その数日前、父が仏前で旅館を畳むことを詫びているのを立ち聞きしてしまった兄は、自分の息子たちには家業に縛られない人生を送らせたい、そんな思いから自分の代で旅館を畳むという辛い決断をしたことを、改めて痛感した。美容師としての人生を歩んでいくことも、父の思いに応える一つの方法だとは考えたものの、そんな思いを持ってくれている父の代で終わらせたくない、自分が守っていきたい、という気持ちが強くなって決意を固めたのだった。

 兄は理由を説明すると、どこか吹っ切れたような表情を見せた。兄が旅館を継いでくれることを嬉しく思う一方で、兄に家業に縛られる人生を送らせてしまうことが申し訳なくて、諒馬は泣いてしまった。そんな心境を分かってくれたのか、兄は包み込むように諒馬を抱き締めた。

「このとき、僕は兄のことが本当に好きなんだ、っていう確信を持ちました」

 兄は美容学校を卒業すると、父の下について旅館での仕事を始めた。

 近辺には格安のビジネスホテルが多く、価格競争では分が悪かった。そこで、それほど力を入れてこなかった食事に付加価値を与えることで、他との差別化を図ろうと考えた兄は、学生時代の友人に紹介してもらった駆け出しの料理人を雇い、部屋食で本格イタリアンを提供するプランをスタートさせた。

 最初は物珍しさで利用する客がちらほらいる程度だったのだけど、徐々に評判が口コミで広がっていき、二年目に入ってからは、週末にはキャンセル待ちが当たり前となり、予想以上の成果を収めることができた。これをきっかけに旅館の経営は回復し、その後も順調に推移していった。

 兄と同じ美容学校を卒業した諒馬が、地元の美容院で働き始めて三年目に差しかかった頃、兄に縁談が持ち上がった。

 相手は、諒馬が高校時代に同級生だった石井で、二年生のとき、諒馬は告白されたのだけど、好きな人がいるからと断っていた。勿論、その好きな人とは、兄のことであった。

 石井との結婚を決めたことを兄から告げられたとき、石井に告白された過去は三人だけの秘密にしておいてほしい、そう頼まれた諒馬は、自分が二人の近くにいることで関係がぎくしゃくしてしまうのではないかと考え、家を出ることに決めた。

「兄は、僕が自分に恋愛感情を持っていることに気付いてて、石井さんとの結婚を決めたんじゃないか、って思いました。言葉ではっきりと拒否することなく、僕と距離を置くためには、これ以上に有効な方法はないですから」

 二人の結婚式から数日後、諒馬は故郷から新幹線を乗り継いで四時間以上かかる街へと引っ越し、ほどなく、『ラウレア』で働き始めた。

 縁もゆかりもない土地での、初めての一人暮らしと新しい仕事に慣れてくるにつれ、兄への恋愛感情は少しずつ薄れていき、兄が石井の夫であるという事実も受け入れられるようになった。それに伴って、石井に対して何となく抱えていたわだかまりも、次第に解けていった。

 二人が二回目の結婚記念日を迎えてから三日後、諒馬は兄が事故で亡くなったという知らせを受けた。兄は旅館のパンフレットを自分で制作していて、その日は観光スポットを紹介する写真を撮影するため、近くの城跡公園に出かけていたのだけど、展望台から下りる階段を踏み外して転げ落ち、頭を強く打ってしまったのが原因だった。

 兄を支える若女将として働いた約二年の間に、石井は他の従業員からの信頼をしっかりと得ていた。そして、諒馬の両親が強く望んだこともあり、兄が亡くなってからも、石井は諒馬の実家に残り、旅館の仕事を続けた。

 両親がまだ現役で働いているとはいえ、石井に旅館を任せっきりにしていることを、諒馬は心苦しく思っていた。しかし、旅館のことは心配しなくていいから、という両親や石井の言葉に甘え、やりがいを感じ始めていたスタイリストの仕事を続けていた。

「あとは、貴史さんに恋愛感情を持ち始めていたから、というのもあります」

 初盆で実家に帰ったとき、諒馬は石井から一冊のノート見せられた。旅館のパンフレットを制作するのに参考になる資料を探していたときに、石井が兄の部屋で見つけたものらしかった。

 僕は弟の諒馬に恋をしてしまった。

 表紙をめくった一枚目には、その一文だけが記されていた。

 兄がノートを書いていたのは、諒馬に旅館を継ぐ決意を告げた日から、石井との結婚を決心した日までで、その間に起きた印象深い出来事を織り交ぜながら、諒馬への気持ちが切々と綴られていた。

「兄はこんなにも僕のことを思ってくれてたんだ、って分かったのが嬉しくて、でも、そのせいで、兄はこんなにも苦しい思いをしてたんだ、そう考えたら辛くて、何だか、申し訳なくて……」

 石井がいるのにも構わず、諒馬はぼろぼろと涙をこぼしながら泣いた。何とか気持ちを落ち着かせてから、諒馬が情けない姿を見せてしまったことを詫びると、石井は何でもないように首を振り、ノートに書かれているような感情を諒馬に対して抱いていたことは、結婚する前に兄がきちんと話してくれたと言った。諒馬は少し驚いたのだけど、兄がそうしないはずがない、とすぐに思い直し、自分も兄が好きだったことを打ち明けた。

 凛とした表情で話を聞いてくれた石井に、諒馬は人間としての魅力を感じた。そして、石井とだったら、お互いが男女の関係を超えた存在になって、ともに人生を歩んでいくことができるんじゃないかと思った。

 その日以来、諒馬はこれからの人生について、じっくりと真剣に考えるようになった。

 兄が守ろうとしていた旅館を継ぎ、兄がともに人生を歩んでいくつもりだった石井と結婚する。

 兄が旅館を継ぐ決意を告げた、十年後の同じ日に、諒馬は自分なりの結論を出した。

 それから一ヶ月余りで訪れた年末年始、諒馬は五日間の帰省をし、書き入れ時で忙しい旅館の仕事を、初めて本格的に手伝った。

 帰省最後の夜、諒馬は兄の部屋に石井を呼び出し、自分なりに出した結論について話した。

 兄や自分のことを考えて、そう言ってくれるのは、とても嬉しいのだけど、それによって、諒馬の人生を大きく変えさせてしまうことに、どこか心苦しいところもある。旅館のことも結婚のことも、二人にとって大切なことだから、諒馬がじっくりと真剣に考えたように、自分も時間をかけて結論を出したい。

 自分のことを考えて、兄がそうしてくれたように、兄や石井のことを考えて、自分も旅館を継ぐ決意を固める、それは自分にとって当たり前の結論である。それに伴い、人生が大きく変わるだけであって、兄や石井のせいで、人生を変えさせられるのではない。兄が自分のことを好きだった、そして、自分も兄のことを好きだった、両方の過去を広い心で受け入れてくれた石井に、人間としての魅力を感じていて、こんな自分が結婚できるとしたら、その相手は石井以外に考えられない。

 二人はそれぞれが思っていることを伝え合ってから、諒馬が再び帰省する予定でいた翌月に、改めて話をしようと約束した。

 そして、約一ヶ月振りに向かい合った兄の部屋で、諒馬は決意に変わりはないことを告げ、石井は諒馬からの申し出を受け入れ、二人の間で結婚の話はまとまった。

 逆縁婚に周囲の人たちはどんな反応を示すのか、そこが気がかりだったのだけど、その結論に至った経緯を、二人が誠意を込めて話すと、最初は戸惑っていた両親も旅館の従業員たちも、最後には笑顔で祝福してくれた。

 諒馬は今年の春からにでも旅館の仕事を始める心づもりはあった。しかし、今の仕事を急に辞めて迷惑をかけてほしくない、兄が亡くなってから三年を区切りにしたい、という石井の意を汲み、『ラウレア』での仕事は来年の春まで続け、結婚式は来年の秋に挙げることに決まった。

 必要なことは一通り話し合った、という段階になってから、石井が改まった口調で、今は好きな男性はいないのかと聞いてきた。

「僕の中では、気持ちの整理をつけたつもりでいたんですけど、貴史さんの顔が浮かんできて、正直、ちょっと動揺しました」

 付き合っている人はいないけれど、聞かれてみて顔が浮かんだ人はいる、そう正直に答えた諒馬に、石井は思いもよらないことを言ってきた。

 旅館を継ぐために戻ってくる、来年の春までだったら、好きな男性と付き合っても構わない、むしろ、たった一年しかないけれど、できることなら、付き合ってほしい。男性を好きになる人間として生まれたのなら、一度くらいはそういう経験があってもいいんじゃないかと思う。

 てっきり、気持ちに区切りをつけるように念を押されると思っていたので、その真逆とも言えそうな考えを聞かされて、諒馬は返す言葉に詰まった。

 諒馬のことをあれほど思っていながら、口に出して気持ちを伝えることさえできなかった、そんな兄が浮かばれるためには、諒馬が好きな男性といい恋愛をしてくれるのが一番に違いない。

 石井は続けてそう考える理由を説明してから、理不尽な話をしたことを詫びた。その頭を下げる姿を見て、石井が兄を本当に心から愛してくれていたこと、そして、自分が石井を選んで間違いはなかったことを、諒馬は改めて強く確信した。


 沈黙の長さから、話は終わったのだろうと判断した僕は、それを確かめるため、諒馬に顔を向けた。

「すいません。何か、めちゃくちゃ語っちゃいました」

 目が合うと、諒馬はきまりが悪そうな表情で言った。

「初めてのピロートークが、ここまで内容の濃い話になるなんて、ちょっと思ってなかったよ」

「ピロートークって……」

 諒馬が小さく笑いを漏らしたので、僕は握り合ったままの手に少し力を込めた。

「でも、ちゃんと話を聞けてよかったよ」

「僕も、ちゃんと話を聞いてもらえて、よかったです」

 諒馬が手を強く握り返してきた。

「本当に、いいんですか?」

「一年しか付き合えないこと?」

「結婚することが決まってて、一年後には別れなきゃならないのに、それでも付き合ってほしいなんて……」

「ふざけた話だよな、ってならないんだよ。諒馬がちゃんと話を聞かせてくれたから、なおさらね。それに、諒馬が男と付き合うことを許された時間が、この一年だけなんだとしたら、たった一年だとしても、この上なく長い時間になるわけだから……、好きになった諒馬に、好きだって言ってもらえて、こうして付き合えているのって、すごく貴重で幸せなことなんだな、って思う」

「貴史さん……」

 僕の名前を口にした諒馬を見つめ返したかったのだけど、鼻のむずむずに耐え切れなくなり、僕は豪快にくしゃみをしてしまった。

「ごめん……」

 僕がぼそりと謝ると、諒馬はくつくつと笑い出した。

「もう、何で、自分で台無しにしちゃうんですかぁ……」

「これでも我慢したんだって」

「ちょっと冷えてきましたね」

「さすがに、パンいちで寝たら、風邪ひいちゃうかもな」

 Tシャツを着ることにして、僕は身体を起こした。

「諒馬は寒くないの?」

 僕が聞き終わるやいなや、諒馬が横から抱き付いてきた。

「こうしてれば、寒くないです」

「そうか、こうしてればいいんだな」

 僕の身体に回している諒馬の腕を掴むと、伝わってくる体温をより確かに感じられるよう、僕は目を閉じた。

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