第10話

 雲一つ見当たらない夜空に向かって、僕は思いのほか白い息を吐きながら、思い直してトイレに行った藤田が店から出てくるのを待っていた。

「すいません」

 足音を聞いて振り返った僕に、藤田はすかさず謝ってきた。

「寒いですね」

「夜はまだ寒いねぇ……」

 僕が手提げカバンを持っていない左手で右肘をさすると、藤田が何も言わずにいきなり抱き締めてきた。

「えっ、ちょ……」

 僕は戸惑いの声を漏らしたのだけど、藤田はさらに抱き締める力を強くした。僕が応えるような態度を示したら、藤田は告白してくるんじゃないか、そんな気がした。しかし、僕が藤田の背中に腕を回そうとした直前で、二人の身体は離れてしまった。

「何か、無性に、濱本さんのこと、抱き締めたくなっちゃいました」

 藤田はおどけるように言った。

「だいぶ酔ってるみたいです。すいません」

「あぁ、いや……」

 気まずくならないよう、僕もふざけた調子で返さなくてはいけないと思ったのだけど、適当な言葉が頭に浮んでこなかった。

「少しは、暖かくなりました?」

「えっ?」

「寒そうにしてたんで」

「あぁ……、いや、暖かいを通り越して、暑いくらいかな」

「えっ、暑いですか?」

「藤田君みたいな男前に抱き締められたら、僕みたいな人間は、どきどきして身体が火照っちゃうんだって」

 僕は精一杯の軽口を叩いた。

「じゃあ、身体が冷えないうちに、早く帰らないと」

「そうだね」

 僕たちは笑みを浮かべながら頷き合い、駅へと向かう道をゆっくりと歩き始めた。

「めちゃくちゃ抱き心地よかったです」

「えっ、抱き心地?」

「もうちょっと抱き締めてたかったんですけど、松尾君に悪いと思ったんで」

 藤田の言葉を聞いて、松尾から告白されていたにもかかわらず、藤田からの告白を待ち望んでいたことに、僕は罪悪感を覚えた。

「松尾君が羨ましいです」

「羨ましい?」

「正当な理由で、濱本さんのことを抱き締められるんですから……なんてね。あっ」

 藤田の声につられて目をやると、少し先の歩行者信号が青の点滅を始めていた。

「渡っちゃいましょう」

 僕の答えを待たずに、藤田は駆け出した。

「一回赤になると、二分くらい待たされるんですよ」

「えっ、そうなの?」

 振り切るように走っていく藤田の背中を、僕は全速力で追いかけていき、僕たちはそのまま一気に横断歩道を渡った。

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