第8話

 味も量も申し分のない料理の数々は、ほんの一時間ちょっとで、僕たちのお腹と心を満たしてしまった。しかし、まだ店を出るには早く、出るつもりもなかったので、とりあえずは、カルーアミルク二杯とフリッツを追加で注文した。

 わずかにビールが残っていたジョッキを空にすると、僕は手提げカバンから洗顔シートを取り出した。

「今日も潤沢ですか?」

「あぁ、いつもに増して潤沢だね」

 僕は眼鏡を外し、最も脂ぎっている額から拭い始めた。

「濱本さんが、初めてその眼鏡をかけてきた日のこと、今でもよく憶えてます」

「僕も憶えてるよ。めちゃくちゃ垢抜けましたねぇ、って言われたから」

「あぁ、言いましたね」

「四十過ぎてそんなこと言われるなんて、ちょっと恥ずかしかったけど……、やっぱり、嬉しかったな」

「あの日って、眼鏡だけじゃなく、髪型も変えてたじゃないですか」

「あぁ、そうだね。前の日に、今のヘアサロンに初めて行ったから」

「片方だけだったら、単に、眼鏡を変えた、髪型を変えた、それだけで終わってたところが、両方を同時に変えたことで、れっきとしたイメチェンになったと思うんですよ。いわゆる、相乗効果、ってやつですね」

「やけに力説するなぁ……」

「眼鏡屋と美容院は大事ですよ」

「えっ、そういう結論なの?」

「濱本さんは、そのどっちでも、いいお店、いい眼鏡鑑定士と美容師さんに巡り会えた、ってことですね」

「認定眼鏡士ね」

「あぁ、そうそう。どうしても、間違えちゃうんですよね」

「まぁ、眼鏡鑑定士も、ありそうな名前だから、そう言っちゃうのも分かるけど」

 小さく畳んだ洗顔シートをテーブルに置くと、僕は眼鏡を手にしたのだけど、レンズ全体に汚れが点々と付いていたので、手提げカバンから眼鏡ケースを取り出した。

「そうだ、今日って、博士堂行ってきたんですか?」

「えっ?」

 眼鏡拭きに印刷された「博士堂眼鏡店」の文字に目を留めていたので、僕は少し驚いたような声を出してしまった。

「朝、電話したとき、外に出てる、って言ってたじゃないですか」

「あぁ……。うん、行ってきた」

「久し振りなんじゃないですか?」

「去年の年末に行って以来……、今年になってからは初めて」

「じゃあ、三ヶ月くらいですか」

「そうなるね」

「眼鏡屋さんって、どれくらいのペースで行くものなんですかねぇ……?」

「あぁ……」

「美容院だったら、一、二ヶ月に一回とかあるじゃないですか」

「一般論は分からないけど、三ヶ月っていうのは、僕にとっては、久し振りだと思う」

「今日は、博士とどれくらい話してきたんですか?」

「今日は話してない」

「えっ?」

「行ったんだけど、閉まってたんだよ」

「えっ、博士、風邪でもひいたんですか?」

「いや、そうじゃない」

 僕はすぐに本当の理由は答えず、秋山さんから教わったやり方で丁寧に拭いたレンズに汚れが残ってないか確認する、それだけの間をおいた。

「博士……、秋山さん、亡くなったんだよ」

 秋山さんが勧めてくれた、そのことを懐かしみながら眼鏡をかけると、鮮明さを取り戻した視界に映る藤田に、僕は悲しい事実を静かに告げた。

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