第7話

 その日の夜、僕は帰る時間が重なった藤田に誘われ、仕事場から駅とは反対方向にある創作料理屋『たけのしろ』へと足を運んだ。

 藤田は顔なじみの客らしく、ビール二杯の注文を受けた店員が下がると、店主の男性がやって来て、挨拶と少しの雑談をしてから、厨房へと戻っていった。

「よく来てるんだ」

「夜はそれほどでもないんですけど、ランチはよく来てますね」

「あぁ、ランチね」

「唐揚げがめちゃくちゃ美味しいんですよ。勿論、他の料理も美味しいんですけど」

 藤田はメニューを把握しているようで、僕が見やすいようにおしながきを置いた。

「そうだ、濱本さんの好きな、海老カツもありますよ」

「ちょうど見つけて、あっと思った」

「さすがですねぇ……」

「憶えててくれたんだ」

「そりゃあ、憶えてますよ」

 藤田の得意げな表情を見て、僕はつい頬が緩んでくるのだった。

「三年前……ですよね?」

「えっ? あぁ……、もう、そんなに経っちゃうのか」

「夜勤、懐かしいなぁ……」

 しみじみと呟いた藤田に、僕はうんうんと頷いた。


 三年前、僕が現在も校正の仕事を続けている住宅関連情報の媒体には、ウェブサイトの他に毎週発行のフリーペーパーがあった。

 金曜日の夜までに入ってきた原稿は、土曜日に作業することになっていた。しかし、仕事場にやって来る十数人の校正者で、男性は僕一人、僕より年下は二人しかおらず、何となく居心地の悪さを感じていた。そこで、金曜日だけ夜勤で残る従業員がいることを知っていた僕は、藤田の上司に頼み込み、金曜日の夜から土曜日の朝にかけて作業をさせてもらうことにした。

 僕一人だけの作業が始まった日は、藤田が初めて夜勤に入った日で、日付が変わってからの休憩を一緒に取ったのをきっかけに、僕と藤田はよく話をするようになった。

 藤田にとって三回目となった夜勤の日、僕は初めて藤田について行き、深夜まで営業している定食屋で弁当を買った。

「唐揚げ、三回連続ですよね?」

 仕事場にある休憩スペースのテーブル席に向かい合って座り、弁当のふたを開けたタイミングで、僕から切り出した。

「めちゃくちゃ好きなんですよ」

「へぇ……」

「弁当の種類がたくさんあったところで、唐揚げ弁当があったら、僕にとっては、それ一択です」

「そんなに好きなんですね」

「地球最後の日に何を食べたいか、って聞かれたら、迷わず、唐揚げ、って答えます」

 どこか誇らしげにも見える藤田の表情に、僕はつい笑いを漏らした。

「濱本さんだったら、何て答えます?」

「地球最後の日……。そうですねぇ……」

 この質問をされたのは初めてではなく、これまでは大抵、とんかつと千切りキャベツ、と答えていた。しかし、前の晩にスーパーの総菜コーナーで買った海老カツがとても美味しかったことを、僕はふと思い出した。

「海老カツ、ですかねぇ……?」

「海老カツ?」

「海老カツ」

「海老フライ、じゃなくて?」

「海老フライ、じゃなくて」

 藤田の言葉から疑問符を取り、僕はおうむ返しに答えた。そして、顔を見合わせていた僕たちは、どちらからともなく吹き出した。

「海老カツですかぁ……」

「海老カツです」

「全くの想定外だったんですけど……、何かもう、濱本さんらしいなぁ、って思えてきました」

「僕らしいですか」

「あっ、悪い意味に取らないでくださいね」

「取らないですけど、良い意味に取れるかどうかも……」

「微妙ですよね」

 藤田はそう言ってから、大ぶりな唐揚げを丸ごと口に入れた。

「僕も、藤田さんらしいなぁ、って思えてきました」

 唐揚げをまだ頬張っていた藤田は、答える代わりに、目を少し大きく開いた。

「唐揚げをこんなに美味しそうに食べる人、初めて見ました」

 今度は目を細めてから、藤田は緑茶が入ったペットボトルに口を付けた。

「自分が作った唐揚げを、こうやって食べてもらえたら、すごい幸せなんだろうなぁ、って思えるくらいです」

「何で、恋人目線なんですか」

「いやいや、例えであって、深い意味はありませんから」

「そんな例えが出てくること自体、意味深なんですけど」

「深読みし過ぎですって」

 藤田に心を見透かされそうな気がして、僕は箸を運ぶのにかこつけて視線を逸らした。

「あっ、そうだ、濱本さんに、お願いがあるんですけど……」

「えっ、何ですか?」

「お願い、ってほど大袈裟なことでもないんですけど、その……、くだけた態度で接してほしい、っていいますか……」

「くだけた態度、ですか?」

「仕事を依頼する会社の従業員、っていうことで、一回りも年下の僕にも対等に接してくれてるのは分かりますし、そうした方がいいんだろうとは思います」

「あぁ、まぁ……」

「他に会社の人間とか、業務委託の方がいるときは、全然それで構わないんですけど、僕と二人だけのときは、くだけた態度で接してほしいなぁ、って思ってまして……」

「あぁ……」

「こうやって、弁当を食べながら雑談してても、二人して丁寧語を使ってると、何か、打ち解けてない感じがするんですよ」

「あぁ、それは、何となく分かります……っていうのも、丁寧語ですね」

「っていうのも、丁寧語ですし」

「っていうのも、丁寧語です、の無限ループになっちゃいますね」

「濱本さんが、丁寧語の方が話しやすいんだったら、無理にとは言わないです」

「まぁ、丁寧語に慣れちゃってる、っていうのはありますけど、藤田君がそう言ってくれるんだったら……」

「あっ……」

 僕が呼び方を変えてみると、藤田はすぐに気が付いたようだった。

「くだけた態度で接し……、接するよ」

「いきなり丁寧語になりかけてるじゃないですか」

「これからしばらくは移行期間なんで、混在すると思います。そもそも、丁寧語を全く使わないで会話をするなんて、無理なことだと思うし」

「まぁ、そうですよね」

「だから、丁寧語がどうこうより、藤田君が一回り年下の友達……でいいのかな?」

「えっ?」

「それとも、後輩がいいのかな?」

「あぁ、友達がいいです。友達からお願いします」

「友達から、って……」

「何か、恋人になる前提で付き合ってください、みたいな言い方でしたね」

「告白されたのかと思った」

「いやいや、そんな……、ねぇ」

 藤田のはにかんだような笑みを見て、僕も恥ずかしい気持ちになってきた。

「すいません。変なお願いしちゃって」

「えっ? あぁ……、いや、そんなことないよ。藤田君と友達になれて、僕は嬉しいし」

「そう言ってもらえると、僕も嬉しいです」

 照れ臭かったのだけど、藤田が真っ直ぐな視線を向けてきたので、僕はその目を見つめ返しながら静かに頷いた。

 このような経緯で、僕は藤田と友達になることができた。

 しかし、それから半年足らずの間に、フリーペーパーは休刊となり、それに伴い、夜勤もなくなってしまった。


 店員に料理の注文を伝えると、僕たちはそれぞれのジョッキを手にした。

「何に乾杯しましょうか?」

「あぁ、そうだなぁ……」

 考え始めるやいなや、秋山さんのことが頭に浮かんできて、乾杯なんかしていいのかどうか、僕は迷いを覚えた。

「じゃあ、こうして乾杯できることに、っていうのはどうですか?」

「えっ?」

「濱本さんと、こうして飲めることが、僕は単純に嬉しいんで」

 端正な顔立ちの藤田に人懐っこい笑顔を見せられ、僕は胸がきゅんとなった。

「あぁ……、そうだね。そんなことを言ってくれる藤田君と、こうして飲めることが、僕も単純に嬉しいんで」

 僕は、秋山さんが亡くなった悲しみを感じながらも、自分はこうして生きていられるありがたさ、藤田とこうして飲める嬉しさを噛み締めることにした。

「それでは……」

 藤田が改めてジョッキを少し高く上げた。

「こうして乾杯できることに」

 声を揃えて言ってから、僕たちはジョッキを軽くぶつけ、ほどよい冷え具合のビールを流し込んだ。

「あぁ、美味い」

「乾杯する内容がよかったから、余計に美味く感じるよ」

「じゃあ、僕のおかげですね」

「まぁ、そうなるな」

 僕たちが笑みを交わすと、テーブルに置いてある藤田のスマートフォンが振動した。

「あっ、嫌な予感がする」

 予感は当たっていたようで、画面を見つめる藤田の表情が曇った。

「えっ、まさか、今から戻れとか?」

「あぁ、そんなんじゃないです。それだったら、何十倍もましです」

「そこまで嫌なことって……」

「今日、ごはんに誘われてたんですよ」

「えっ、そうなの?」

「佐藤さん、って分かります?」

「あぁ……。確か、去年の九月から入った人だよね?」

「そうです。何か、今日が誕生日らしくて、お祝いしてくださいよ、とか言ってきて」

「自分から言ってくるかぁ……」

「そうなんですよ。自分から言ってくるなんて、おかしいですよね」

「僕にはない感覚だなぁ……」

「僕にもないですよ」

「ひょっとして……、言い寄られてる?」

「自分で言うのもあれなんですけど……、言い寄られてると思います」

「そうかぁ……。それで、何て言って断ったの?」

「そこはまぁ、正直に、飲みに行く約束があるから、って言いました。濱本さんの名前は出してないですけど」

「約束って、エレベーター降りてから、いきなり誘ってきたのに」

「あぁ、そうですね。飲みに行く予定があるから、が正しいですよね」

「あんまり変わらないって」

「でも、佐藤さんに言われなくても、飲みに誘うつもりでしたから。それで、三十分くらい前に仕事が終わってたんですけど、濱本さんが帰るタイミングを窺って……」

「あぁ、そうだったんだ」

「だから、濱本さんが誘いに乗ってくれて、本当、よかったです」

「何か、佐藤さんには、悪いことしちゃったなぁ……」

 僕はそう言いながらも、藤田と一緒にいられることに、何となく優越感を覚えていた。

「告白はされてないんだよね?」

「まだされてないですけど、時間の問題なんじゃないかなぁ、って思います」

「告白されたら……、五人目?」

「そうですね」

「これまでの四人は、みんな辞めちゃってるからなぁ……」

「振られて仕事辞めるくらいなら、告白しないでほしいです」

「でも、藤田君に恋人がいない、ってことが分かったら、相手だって、可能性があると思っちゃうだろうし……」

「恋人がいる、ってことにしておいた方がいいんですかねぇ……?」

「そうだなぁ……」

「でも、ごまかすのも、それはそれで、面倒だと思うんですよね」

「じゃあ、故郷にいる幼なじみと遠距離恋愛中、ってことにすればいいんじゃない?」

「あぁ……」

「それだったら、そうそう会える関係でもないし、ごまかすのも難しくないと思う」

「いっそのこと、濱本さんと……」

 料理を運んできた店員が傍らに立つと、藤田はそこで言葉を止めてしまった。しかし、生えのきのサラダと地鶏の唐揚げをテーブルに並べた店員が下がっても、続きを言い出さなかったので、僕から聞こうとしたところ、藤田の腹の虫が鳴いた。

「すいません、うちのが」

「あぁ、いや……」

 ほどなく、ビールを口にしてから、不穏な動きを続けていた、僕の腹の虫も鳴いた。

「すいません、うちのも」

 藤田の口調を真似て僕も謝ると、目を丸くしていた藤田がくつくつと笑い始めた。

「あくびはよく言いますけど、腹の虫もうつるもんなんですね」

「虫が鳴くんだから、共鳴じゃないの?」

「あぁ、なるほど」

 僕たちが頷き合っていると、鰆のムニエルと海老カツがテーブルに運ばれてきた。

「お互いの、最後の晩餐が揃いましたね」

「あぁ……、最後の晩餐ね」

「じゃあ、いただきましょうか」

「いただきましょう」

 僕たちは手を合わせると、まずはそれぞれが地球最後の日に食べたい料理へと箸を伸ばした。

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