第6話

『博士堂眼鏡店』から少し歩いたところにある大通りに出た僕は、車道に背を向けて設置されているベンチの一つに腰を下ろした。

 秋山さんは、二月の初めに急性心不全で亡くなった。

 順番待ちの客が座るソファでぐったりとしているところを、夕刊の配達員に発見されたのだけど、すでに手遅れの状態だった。

 新年早々、入退院を繰り返していた母が他界し、何かと慌ただしく送っていた、そんな日々が落ち着いてきた頃の出来事で、亡くなる二日前に会ったとき、秋山さんは店の今後について「畳むことになるでしょうけど、七十まで続けていけたら、悔いはないかな、とは思ってます」と気丈に話していた。

 秋山さんの父と幼なじみだったという男性から聞いた話を頭の中で整理し、見上げた空に向かって深い溜め息を漏らすと、僕は初めて『博士堂眼鏡店』に足を踏み入れた日のことを思い返した。


 あの日も、僕はこのベンチに座り、初めての店に入る勇気をなかなか持てない、そんな自分を情けなく思いながら、桜の花越しの空を眺めていた。

 土曜日の閉店時間は午後三時で、あと三十分を切ったことを腕時計で確認した僕は、大通りを渡る横断歩道の方へ目をやった。信号待ちをする人たちの中に、後ろの大きい荷台が特徴的な、年季の入った自転車に乗った男性がいて、視線を向けていた僕に気付くと、微笑んでみせた。理由が分からず、少し戸惑ったのだけど、どういうわけか、少し勇気が湧いてきて、僕はベンチから腰を上げた。

 歩行者信号が点滅する中を、僕は駆け足で横断歩道を渡り切った。足の運びを緩め、呼吸を整えながら歩いていると、年季の入った自転車を降りた男性が、僕がこれから行こうとしている店に入っていくのが見えた。

「いらっしゃいませ」

 親しみを感じさせる声で迎えた男性は、店に入ってきた僕の顔を見ると、ぱっと表情を明るくした。

「あぁ、さっきの」

「あぁ……、はい」

 憶えていてくれたことが嬉しくて、僕は照れ臭い気持ちで小さく頭を下げた。


 花曇りだった週末に比べると、日差しがある分だけ暖かさは感じられるものの、時折頬を撫でる風はひんやりとしていた。

 秋山さんは寒がりで、年代物のエアコンで暖房の効きがあまりよくない店内では、ワイシャツとカーディガンの上に、サイズ違いのフリースジャケットを重ね着していた。

 結果として、最後の来店となった日、その服装でもまだ寒そうにしていた秋山さんがぼそりと口にした言葉が、とても印象に残っていて、再び僕の頭に蘇ってきた。


 あの日は、母が再入院をした三日後で、経過が思わしくなかったらしく、そのことを話す秋山さんは、どこか気持ちが沈んでいるように見えた。

 しかし、いつものように雑談を続けていると、口振りにもいくらか明るさが戻ってきたため、僕は安心しかけていたのだけど、生前整理に話題が移ると、交わす言葉の間が少しずつ長くなってきた。

「死ぬときには、僕のことを知ってる全ての人の記憶から消えていたい、って思うところはあるんですよねぇ……」

 母をきちんと見送ったら、七十歳くらいまで今の仕事を続けて、跡取りがいないこの店を畳む、そんな人生設計を聞いた後だったので、僕は余計にしんみりとしたのだけど、秋山さんらしい考え方だなぁ、と妙に納得するところもあった。

「濱本さんは、その辺のこと考えてます?」

「えっ? いやぁ……」

「僕の……、八つ下でしたっけ?」

「四十四です」

「じゃあ、合ってますね」

「僕もそろそろ、考えなきゃいけないんですかねぇ……?」

 腕を組んで唸る僕に目を細めると、秋山さんは断るように手を上げ、くわえていた煙草に火を点けた。


 背後を走り抜けていった救急車のサイレン音が聞こえなくなると、僕は閉じていた目を開いた。そして、レトロな雰囲気の店内を撮影させてもらったことを思い出し、スマートフォンを手に取った。

 アングルの関係で、ほんの一部だけなのだけど、秋山さんがぐったりとしているところを発見された、黒い革張りのソファも写っていた。

 どうして、秋山さんのような人が、愛し合った女性と祝福されながら結婚をして、子どもをもうけて幸せな家庭を築き、立派な職人に育て上げた跡取りに店を任せる、そんな人生を送ることなく、誰にも気付かれないまま亡くなったのか、それが僕には理不尽に思えてならなかった。

 秋山さんのことだから、苦しいのを堪える一方で、長い年月を過ごしてきて愛着のある空間で最期を迎えることを、ささやかな幸せだと思いながら、穏やかな笑顔を浮かべて息を引き取ったんじゃないだろうか、そう考えると、美味そうに煙草を吸う秋山さんの顔が脳裏に浮かんできて、僕は目頭がじんわりと熱くなるのを感じた。

 店内の写真を画面から消すと、電話の着信を知らせる表示が出た。請負契約を結んでいる会社で、校正業務の進行管理を担当している藤田からだった。僕は鼻をすすり、咳払いをしてから、応答ボタンをスライドした。

「はい、濱本です」

「おはようございます、藤田です」

「おはようございます」

「すいません、月曜の朝から」

「何か、イレギュラーですか?」

「新規が朝一から来てまして……、概要はがっつりで、あとは、キャッチと、環境は画像八点とテキストがフルで入ってるやつなんですけど……」

「わざわざ電話してくるってことは、昼過ぎにゲラ出しするから、午前中には上げてほしい、ってパターンですよね?」

「さすがですねぇ……。行けそうですか?」

「もう、外に出てるんで……、十時半には、そっちに着くと思います」

「あぁ、そうなんですね」

「じゃあ、今から向かいます」

「すいません、よろしくお願いします」

「はい。じゃあ、失礼します」

「失礼します」

 電話を切ると、僕は再び空を見上げた。

 秋山さんが亡くなったことを深く悲しんでいたはずなのに、藤田と話せたことで嬉しい気持ちになっている、そんな自分が何だか薄情に思えてきた。

 僕は心の中で秋山さんに謝り、じっと心を落ち着かせて待ってみたのだけど、秋山さんの声が聞こえたような錯覚を起こすことはなかった。しかし、その代わりなのか、舞い降りてきた桜の花びらが、眼鏡のレンズにさらっと触れてから、僕の左頬にくっ付いた。

 まだ涙が乾いていない感覚がある、左の目尻からは少し離れていたのだけど、涙を拭いてください、という秋山さんの優しさが込められたものだと解釈した僕は、そっとつまんだ花びらをしげしげと見つめた。そして、ティッシュペーパーで丁寧に包んでから、押し花を作るように、スマートフォンを収める手帳型ケースの薄い内ポケットに差し入れた。

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