3 夕焼ける世界へ


「――僕は今、ヒロなんです」


 ケロッと明るいブッコローと対照的に、絞り出すような口調でヒロは言った。苦しげな微笑みが頬に浮かんでいる。


「ヒロコのことは、魔法で封じました。違う自分になりたいと願ったから」

「魔法ね――それで、封じられるもん?」


 ニヤリとされて、ヒロはまたうつむいた。ヒロコの心は、確かにヒロの中でくすぶっている。


 ヒロの――ヒロコの父はブンヴォールの王なのだ。そして、愚王と呼ばれている。

 汎用性の低い、見た目や特殊機能に全振りした高価な文房具に入れ込んで、民の暮らしをないがしろにする父王。

 その父と同じような好みを持つヒロコは、それでも民の声に耳を傾けようと努力した。ブンヴォール愚王の二代目にならないように。


「ヒロコは一人っ子なんです。王位を継ぐ身です。その義務を果たさなければならない。王として立ち、民をひきいるにはヒロコ個人の趣味など邪魔だ。でも――」


 ヒロはフイと空中からガラスペンを取り出した。これが魔法というものか。ブッコローもマッツォも目を丸くする。

 その美しいガラスペンを愛おしげに見つめて、ヒロは笑った。


「――でも、苦しかった。好きな物を好きと言えないのは」


 ブンヴォール愚王になることをよしとせず、正しい王を目指したヒロコ。

 でも正しく在ることは苦しかった。その苦しみから逃れたくなった。少しの間だけでもいいから。だから自分に魔法をかけた。

 そして王女ヒロコではなく少年のヒロとして、異国の港へ降り立ったのだ。


 この町には、どんな文房具があるだろう。人々は楽しく文字を書いているのだろうか。そう思ってワクワクしていたのに、やっぱり基本は生活必需品優先。

 ヒロは落胆し、もうヒロコの居場所はどこにもないのだと絶望した。だから、ヒロコとしての気持ちは封印しようと決めたのだ。


「もっとさァ、正直になってもいいんじゃないのォ?」


 ブッコローの呑気な物言いに、ヒロは食ってかかった。


「僕の好きな物なんて、国民にとってはどうでもいいんです。暮らしに必要な、基本的な物をこそ大事にするべきで」

「そんなことはないよ」


 割って入ったマッツォがゆっくりと言う。


「世界はね、みんなの好きな物でできているんだ。だからその中に、ヒロくんの好きな物だって、あっていいんだよ」


 ヒロは動きを止めた。しばらくして、その瞳から涙があふれる。

 頬を濡らした涙はヒロの持つガラスペンに落ちた。軸に刻まれた模様を伝い流れた涙がペン先に達し、吸い上げられる。

 ヒロの涙を宿したガラスペンは、ポウッと光った。


「――そう、ですね」


 呟くと、ヒロはガラスペンを空に向けた。


 雨上がりの柔らかな大気。夕暮れも近い、ほのかに黄色みを増す光がちょうど辺りを照らした。


 そこに、ヒロはガラスペンで何かを書く。


 それは微かに輝くようにブッコローには見えた。でも、読めない。

 ヒロの涙のインクは透き通る呪文を空に記し、そして溶けていった。


 その最後のきらめきが消え、ブッコローが空から視線を戻す。そこにはもうヒロではなく――ヒロコが立っていた。


「――いや、あんまり変わんないな!?」


 ブッコローは思わず叫んだ。髪の毛が多少長くなって後ろでひっつめたぐらいか。


「失礼ですね。ちゃんと女性になってるじゃないですか」


 ブツブツと聞き取りにくい早口も変わらない。マッツォも吹き出してしまった。笑いながらマッツォは提案した。


「うちの動画でヒロくんの――じゃなくてヒロコさんのおすすめ文房具を紹介してみないかな?」

「あ、あの書籍紹介でバズれなかったチャンネルね」


 ブッコローに言われてマッツォは少ししょんぼりした。確かに人気のないチャンネルだけど、やらないよりはいいと思う。

 ヒロコの好きな物を知ってもらい、良さを伝える。そうしたらそれを好きになる人が増えるかもしれないから。


「でも……私がしゃべって、良い所が伝わるでしょうか」

「じゃあさ、ブッコローが一緒にやってよ」

「え」


 パタパタしていたブッコローの翼が止まった。しばし考える風だったブッコローは、ふう、と息を吐き、また羽ばたいた。


「しょーがないなあ」


 ヒロコの顔がパアッと輝いた。自分の前に、新しい道が一本ひらけたのだ。


 それは回り道かもしれないけれど、必ずどこかへつながる道だ。その旅路を行くことでヒロコの心は未知の場所にたどり着くだろう。


「私の心の旅路を、ブッコローさんも一緒に行って下さい」

「いやいや、あんまり重い言い方しないでね? こちとら妻も娘もいるからさァ、そーゆーの困るんだわ」


 楽しげな二人をマッツォは微妙な顔で眺めていた。

 文房具、か。

 彼らはもう忘れているかもしれないが、ユウリンドーは本屋なのだ。

 みんなの心を躍らせ、遥かな世界まで連れて行く。その役割は、文房具や動画チャンネルではなく書籍が果たしていきたい。


「本は心の旅路、だからね」


 マッツォが見上げる雨上がりの空を、陽が大きく傾いて橙色に染めた。それはまるで、ブッコローがフワリと大空を舞って遊んでいるようにも感じられる。

 世界が夕焼けに包まれる今、港の桟橋近くの水面には、きっと美しい茜空がこぼれて漂っていることだろう。


 そして港町の本屋さん、ユウリンドーの旅路もまた、続いていく。

 変わる世界の波間に揺られながら。

 このきらめく、世界で。


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ゆうせか! 山田とり @yamadatori

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