第5話 あの輝きをもう一度 後編

「ねえ、あなた。由莉ちゃんでしょう。いつもマロンのことを窓から見ていた」

 私たちは病院の待合室に並んで座っていた。今頃、アレグロ・レトリバーは注射でもされているのだろうか。

「ねえ、マロンを可愛がってくれるのはいいけれど、今度は玄関から入ってきてね。さすがにさっきみたいに私がいない時に急に入ってくるのはやめてちょうだい」

 私は元気な頃のアレグロ・レトリバーを思い出す。彼の毛並みを、躍動する筋肉を、どこまでも自由だった彼の姿を。

 私はアレグロ・レトリバーがいないと生きられない。

「マロンちゃんの飼い主さん。診察が終わりましたのでこちらにどうぞ」

 と呼ばれ、老婦人と私は一緒に席を立った。

 老婦人は再びなにか言いたげに私を見たが私は気にせず、診察室に入った。

 診察室には元気のなさげなアレグロ・レトリバーと若い獣医師がいた。

「今回の嘔吐は空腹の状態で水を飲んだことによって胃が刺激されたんでしょう。なにか病気だとかそういうものではありません。ただ、もうマロンちゃんもお歳なので餌の種類は―――」

 アレグロ・レトリバーの目を見つめる。あのとき爛々と輝いていた目では無い。身体中にほとばしるエネルギーを感じられない。

「あの!」

 気がつくと、私は声を出していた。

 獣医はどうしました、といった表情で私に問いかける。

「彼は、アレグロ・レトリバーは以前のように走り回れるようになりますか」

「あ、あれぐろ……?」

「以前のように、走り回る元気な姿を見たいんです」

「え、ええと。そうですね。マロンちゃんの年齢を考えて、以前のようにというのは難しいですが」

 難しい。

 以前のように走り回るのは難しい。

 獣医の言葉を何度も頭の中で反芻する。言葉の意味がどうにも実体をもてなかった。

 獣医と老婦人はまだ何かを話していたが、私の耳には入らない。

「女性お二人だとマロンちゃんを運ぶのも大変でしょう。こちらのペットカートをお貸ししますので―――」

 アレグロ・レトリバーは四角いペットカートに入れられる。

 アレグロ・レトリバーの走り回る姿がもう見ることは出来ない。

 私は急に込み上げてきた涙を止めることが出来なかった。

 私の目から次から次へと涙がこぼれ落ちる。

「大丈夫ですか?」「ちょっとあなた、どうしたの?」

 獣医と老婦人が急に泣き始めた私にそう声をかけた。

 大丈夫かどうかなんて、そんなの私にはわからない。でもたぶん、もう大丈夫じゃない。

 辛いし、悲しいし、理不尽だと思った。アレグロ・レトリバーが走れない世界なんて地獄と同じだ。

 現実を受け入れられない。

 私はペットカートの持ち手を握ると診察室を飛び出した。

 後ろから「ちょっと!」という声が聞こえてきたが、無視をした。

 そのまま病院を飛び出し、私は走った。

 路地を抜け、怪訝な表情で、ペットカートを押しながら走る私を見る通行人を置き去りにして、私は大通りを走る。

 ガタガタ揺れるペットカートの中で、アレグロ・レトリバーは大人しく、ぜいぜいと息を荒らげながら走る私をつまらなさそうに見た。

 脇腹が痛い。足が痛い。息が吸えない。

 アレグロ・レトリバーはあんなに楽しそうに走っていたのに、こんなに、こんなにも、苦しいじゃないか。

 そのとき、耳に聞き馴染みのある曲が聞こえてきた。

 私はその曲に誘われるように走った。

 その曲は小学校から聞こえてきていた。校門の前で学校名を見る。

 静堀小学校。昔、アレグロ・レトリバーをいじめていた村田颯詠が通っていた学校。

 校庭には白のテントが何個も建てられ、大勢の人が集まっていた。

「赤組リードしています。白組の皆さんも頑張ってください」

 そうアナウンスが聞こえた。

 校庭を走る子どもたちが見えた。

 私はペットカートを押して、校庭に入っていく。

 賑わっていた。

 赤組頑張れ、白組頑張れ、とあちこちで声援を送り合い、校庭に引かれた白線の内側を子どもたちが走っていた。

 あの曲が流れている。

 校庭の中心に向かって行こうとして、校庭に引いてあった白線を踏んだ途端「あ」とどこからか声がして、私は突き飛ばされた。

 走っていた子どもが私にぶつかってきたのだ。

 私は派手に転び、ペットカートは横倒しになって中からアレグロ・レトリバーが顔をのぞかせた。

 急にしん、と静まり返り、その後すぐに「ちょっとあんた、困るよ! 急に出てきて!」と若い男が私の肩を掴んだ。

 曲はまだ流れている。速いテンポで、軽快に。

 ジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』。

 私は男の手を振り払い、アレグロ・レトリバーに駆け寄った。

「ほら、アレグロ・レトリバー。走って」

 あのとき、河川敷で走った時のように。

 私に見せてくれたあの生き生きとした姿をもう一度、あと一度だけでいいから見せて。

 しかし、アレグロ・レトリバーは動かない。

「お願い。走って。走ってよ。アレグロ・レトリバー」

「おい、あんた!」

 急に後ろから手が伸びてきて私は羽交い締めにされた。数人の男が私を取り押さえた。

「お願い。アレグロ・レトリバー」

「あんた! なんのつもりだ!」

「走って。お願い。走れ。走れ。走れ。走れ! 走れえ!」

 そのとき、ひとりの子どもがアレグロ・レトリバーに近寄ってきた。周りの大人たちの制止も聞かず、その子どもはアレグロ・レトリバーに近寄る。

 その子どもはたぶん、アレグロ・レトリバーの頭を撫でるために校庭をアレグロ・レトリバーに向かって駆け出し、子どもを止めようとした大人たちは子どもを追って走り出した。

 自分を追いかける人間に怯えたのか、アレグロ・レトリバーはよろよろと立ち上がった。そして、1歩ずつ、ゆっくりと走り始めた。

 その姿はあの時の、元気に庭を走り回っていた頃のアレグロ・レトリバーを思い起こさせた。

「そうだ、行け。行けえ!」

 徐々に彼はスピードに乗っていく。風を切り、白線の内側をぐんぐんと走っていく。

 私は男たちに引き摺られ、校庭の外へ連れ出されそうになる。

 何とか首を捻り、アレグロ・レトリバーの走る姿を見た。彼の生きる様を目に焼き付けたかった。

 大人たちが走るのを面白がってさらに複数の子どもたちが、今度は大人を追って走り始めていて、その子供たちを止めるためにさらにまた大人が走る。

 先頭はアレグロ・レトリバーで、その後ろにひとりの子ども。その子どもを追う数人の大人。さらにその後ろには大勢の子どもたち。その子ども達を追う大勢の大人達。

『天国と地獄』の軽快で愉快なメロディが校庭に響き渡る。

 ああ、やっぱりこの曲はアレグロ・レトリバーのために作られたんだろう。

 本当にこの光景に、アレグロ・レトリバーに似合っている。

 アレグロ・レトリバーは自由に、軽快に、誰よりも速く走る。アレグロのテンポで。

 そうだ。アレグロ・レトリバー。

 走れ。走れ。もっと速く。速く! 速く! 火のように!

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アレグロ・レトリバー ちくわノート @doradora91

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