第6話 深山頼次

 美術館の二階もあらかた見終わり、寿太郎じゅたろうは信乃に手洗いに行くことを告げ、入り口で落ち合うことにした。戻ってみると信乃しのの姿はそこになかった。


「まさか帰った?」


 寿太郎は回廊の展示室を一部屋ずつ覗きながら信乃の姿を探した。

 背後でカランカランと涼やかな音が鳴る。見るとハンドベルを持った職員が回廊の反対側を歩いていた。職員は寿太郎の姿を見つけると制帽を軽く上げ「もうすぐ閉館ですよ」と声を張り上げた。


 寿太郎は急いで残りの部屋を探し、小さめの展示室でようやく一枚の日本画の前に立っている信乃を見つけた。


 その絵は人の背丈ほどもあった。手前には馬に乗った男、遠くには白い海岸線と青々とした山並みが美しい対比を出している。


 一歩下がって全体を眺めていると、寿太郎はちょうど絵の真ん中あたりにすっと通った折れ目に気付いた。


「へえ、綺麗な絵だな。和風なのに奥行きがあって手前の馬とか立体的に描かれてる。でもなんでこんな所に折れ目があるんだ?」


「ああ、それは元が屏風絵だからです。独特な遠近感の出し方は折衷の美ですね」

「お、やっと先生と意見が一致した! 赤いステンプルがいいアクセントになってるよな。この漢字は読めねえけど」


 寿太郎は腰を屈めて右下の赤い印影を指差し首を捻った。信乃も着物の袖口に両手を入れ隣に屈んだ。


「ああ、これは落款らっかんですね。篆書てんしょは慣れないと読みづらいです。私も専門家ではないので説明を読むしかないですが」


 寿太郎はタイトルカードと落款の文字を見比べる。

「ぐねぐねだけどキャプションに書いてある字と同じだ。この東城白水とうじょうはくすいって人は、有名な画家なのか?」


「私もこの作品以外は見たことがないです」少し考えて信乃は小さく首を振った。


「そうなんだ。この河原の白い砂の質感とか、他の絵と比べてもピリッとしてる感じがする。俺が探してる絵も白が綺麗で、こんな感じなんだよ」

「こういう感じの絵ですか。それなら――どうしました?」


 寿太郎ははっとして信乃の言葉を途中で遮った。腕巻時計の盤面をこつこつと叩く。

「さっき見回りの人が来て閉館時間だってさ。もう出なきゃ」


***


 博物館を出ると太陽は中天を越えてかなり傾いていた。丘の下の広場から既に出来上がっているらしい花見客の賑やかな笑い声が聞こえてくる。


 調子外れの流行歌と間延びした合いの手を遠くに聞きながら、寿太郎は先ほどの屏風絵を思い出していた。


 あの絵は美術館に相応しい絵だが、展覧会の目玉になるような唯一無二の作品ではない。

 それに信乃は自分のことを素人だと言っていたが、恐らくそうではない。なのに信乃はなぜを飽きもせず見ていたのか。


 ――ま、好きな絵なら、それが上手いかどうかなんて気にしないか。俺の探している絵だってそうだ。著名な画家ならもうとっくに探し当ててる。


「俺が探してる絵なんだけど。小さい頃に親父に連れられて行った展覧会で一度見たっきりでさ。白の使い方印象的で日本の風景だったと思うんだけど。先生はそういう絵を見たことない?」


 隣を歩いていた信乃は眉間を揉んだ。

「日本画といっても多種多様です。年代もモチーフも分からないでは探しようがありません。ありもしないとまでは言いませんが、よく覚えてもいないような絵を探しに、わざわざ日本にまでやってきたのですか?」


 寿太郎が鼻の頭を掻きながら言った。

「自分でも無謀だと思ってるよ。もう何年も前だし。でもどうしても自分の目でもう一度見たかったんだよ」


 公園のだらだらした下り坂を、花見客を避けながら肩を並べて歩くと、寿太郎はずっと以前からこうしていたような気がした。


「ま、勝手に船に便乗した分、親父に仕事を手伝えって言われててさ。その仕事も悪くはないけど。でも、自分の仕事くらい自分で見つけたいなって」


 与えられた仕事が嫌だなどと子供じみたことを言っている自分が恥ずかしくなり、つい言葉尻を濁した寿太郎は、頭の上で指を組むと口をへの字に曲げた。


 その様子に信乃は小さく吹き出す。

「失礼。仕事を辞めた私に人のことを笑う資格なんてありませんね」


 温かな雰囲気に心地よく浸っていると、突然、背後で大声が響いた。


義兄にいさん! 探しましたよ」


 掛けられた声に二人は同時に振り向いた。

 遊歩道の真ん中で濃い紺色のスーツにグレーのネクタイをした若い男が立っている。


 寿太郎はその男に見覚えがなかったので、反射的に信乃の方を見た。男は寿太郎と信乃の間に無遠慮に割って入ると信乃の腕を取って言った。


「帰りましょう。母が待っています」

頼次よりつぐ――!」


 信乃の兄弟なのだろうか。家族が迎えに来たにしては信乃の表情は硬く、強ばっている。


「信乃先生。また会え――」

 男は寿太郎にそれ以上の言葉を言わせなかった。中折れ帽を胸の前で持つと寿太郎に軽く会釈をして、信乃の腕を引っ張って催促する。


 掴まれた腕を外した信乃は男の肩をそっと押し返した。

「頼次、直ぐに追いつくから先に戻っててくれ」


 男は不満げな顔をしたものの、男は寿太郎の顔をもう一度見て、そのまま立ち去った。


 残った信乃は寿太郎に向き直ると、軽く頭を下げ早口で言った。

「では高村君、私はここで。珈琲と入館料もありがとう。君の絵が早く見つかるよう願ってます」


 信乃はそれだけ言うと寿太郎の返事も聞かずに男の後を追いかけて行った。

 あまりに急な別れに、寿太郎は絹鼠きぬねず色の後ろ姿が人混みに紛れ消えてしまっても、しばらくそこから動けずにいた。




 公園の東側にある市電の線路を越えると住宅街が広がっている。


 銀色のいらかの連なる屋並みを南へ半時ほど歩くと、延々と築地塀が続く通りへと出る。塀は所々白漆喰が剥げ落ち、中の土が剥き出しになっている。


 塀に沿ってしばらく歩くと、瓦屋根こそ立派だが普請の行き届いていない武家門が見えてきた。信乃と頼次よりつぐはその前で立ち止まった。


義兄にいさん、さっきの男は何者ですか」

 頼次は睨み付けているつもりだろうが、もともとが愛嬌のある顔立ちをしていることもあり、信乃はまったく意に介さなかった。


「何者って……ただの迷子だよ。それより頼次、お前こそ大丈夫なのか?」

「大丈夫なわけないよ。大嵐で母屋が壊れそうだ。義兄さんも覚悟しておいた方がいいよ」


 頼次がなかなか入ろうとしないので仕方なく信乃が先に脇の木戸扉を開けようとした時、遠く車のエンジン音が聞こえてきた。


 こうべめぐらすと、通りの向こうから大仰な黒い車が非常にゆっくりとした速度で走ってきた。


 この一画には深山の屋敷しかないため、ほぼ間違いなく深山家の客になるのだが、その車は止まらずに走り去っていった。


「道を間違えたのか?」と頼次が首を捻る。


 信乃は車が通り過ぎる時、後部座席に目を走らせたが、窓に目隠し布が掛かっていて中を窺い見ることは出来なかった。


「そのようですね」

 信乃は深く息を吸って今度こそ門に足を踏み入れた。


 苔むした敷石を進むと、予想通り甲高い女性の声が降ってきた。


「その年になって、お使いもろくに行けないの?」

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