第7話 深山八重子

 年代物の式台しきだい玄関に、深い臙脂色えんじいろの小紋を着た壮年の女性が立っていた。


 信乃の義母であり、頼次の実母の深山八重子みやまやえこだ。


 今では珍しい丸髷まるまげを丁寧に整え、引き上げられた目元は冷たく、その雰囲気はどことなく蛇を連想させる。どこか怯えた表情をしている頼次よりつぐとは似ても似つかない。


 今日は普段より華やかな着物と珍しく紅をさしていて、いつもより幾分髷が大きい。どこかへ出かけるつもりなのだろう。


頼次よりつぐ、何をグズグズしているの。早く上がりなさい。そんな所でみっともない」


 勝手口に向かおうとした頼次を八重子が睨み付けた。頼次は信乃の顔を横目で見て、体を縮こめながら正面玄関から入っていった。


「お義母かあさん、その……」


 信乃は遅れた理由を説明しようとしたが、義母はぴしゃりと言った。

「今日は取り引きできなかったそうね。電報より遅く帰ってくるなんてね」


 玄関先に立ち尽くしていた信乃は、頷いたまま顔を上げることができなかった。


「はい――事務所が閉まっていましたので」

「なぜ直ぐに帰って来ないの。それにあなた。絵はどうしたのかしら」


 信乃は預けていたを引き取り忘れたことに気付いた。すっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。


「あの――博物館に預けたままに」


 八重子はダンッと足袋を穿いた足で床板を踏み鳴らして着物の袖を払った。


「なぜそんな余計な所に行ったの!? 早く行って取ってらっしゃい!」


 何度聞いても慣れないその甲高い声に、信乃は一瞬目をぎゅっとつぶった。それからこれ以上機嫌を損ねないよう、なるべく穏やかな口調で言った。


「もう時間外です。明日は日曜ですから明後日取りに行きます」

「二日も放置ですって? まったく絵を描くこと以外、何の能もないのかしら。あの人と一緒だわ。聞いてるの? ちゃんと持って帰って来るのよ!」


「はい……分かりました」

 八重子は鼻を鳴らして信乃を睨めつけた。絶え間なく罵っている八重子の口調が段々と早くなり、声のトーンが上がる。


「何、その顔は? 私は跡継ぎのあなたのためを思って――」


 際限なく続くかと思われた八重子の癇癪かんしゃくを遠慮がちな声が遮った。


「すみませーん。電報でーす」


 信乃は安堵に力が抜けた。振り向くと木戸口から郵便配達員が顔をおどおどしながら覗かせている。

 急に黙り込んで顎をしゃくる八重子に、信乃は小さく頷くと、配達員から封書を受け取った。

 内容に目を通した八重子は信乃の足元に封書を無造作に投げた。


「先様は今は立て込んでいるらしいから納品は後日でいいとのことよ。その電報は燃やしておきなさい」


 封書を拾い上げる信乃に八重子が妙に優しい声で言った。


「それと信乃さん。もうあんな下らない仕事は辞めてきたのでしょうね? なら、さっさと次の絵を仕上げてお仕舞いなさいな」


「――はい」


 信乃はぐっと唇を噛んだ。顔を上げるとそこにはもう八重子の姿はなかった。信乃は封書を握り締めると正面玄関ではなく勝手口の方へと向かった。



 週が明けると、信乃は朝一に博物館の預かり所を訪れた。両開きの重い扉を押し開けると、外まで聞こえそうな大声が聞こえてくる。


 預かり所にいたのは見覚えのある男だった。赤銅色の髪と六尺はありそうな背丈は見間違いようがない。なにやら預かり人と揉めているらしい。


「だから、預かり札がなければ誰であろうとお渡しできません!」

「俺がその人と一緒に居てたのは覚えてるって言ったじゃないか」

「覚えてますとも、あなたみたいな目立つ人。でもそれとこれとは話は別です。他の方のお荷物はお渡しできませんし、ご住所もお教えできない規則なんです!」


 信乃は信玄袋しんげんぶくろから預かり用の木札きふだを取り出すと、互いしか目に入っていない二人の間、勘定台の上にそろりと差し出した。


 木札に気付いた職員は寿太郎の影からひょいと顔を出した。


「すみませんお客さん。今すぐ持ってきますから」

「おい、俺の話がまだ終わってないぞ」

「いい加減に諦めてくださいよ。おかしいでしょう。ご友人なのにどうして住所を聞きたがるんですか!」


 預かり人の口調からして相当長いこと揉めていたのだろう、信乃は頭が痛くなってきた。


「そういうこともあるだろ! って……おい!」

 預かり人は寿太郎を置いて一旦持ち場を離れると、間を置かずに信乃の風呂敷包みを持って戻ってきた。


「それそれ、分かってるじゃないか」大喜びで伸ばした寿太郎の手が空を切った。


 信乃は預かり人が差し出した荷物を受け取って、呆れたように言った。


「まったく。君は何を考えているんですか」 

「あっ、信乃先生! ここで待ってたら先生に会えると思ったのは正解だったな」


 預かり人は「確かにお渡ししましたからね」と信乃に念を押すと、面倒ごとから逃れるように木札を持ってさっさと奥の部屋へと下がっていった。


 信乃は勘定台の上で風呂敷をしっかり結び直すと、寿太郎に目もくれず博物館の外へと出る。あの異国人が何を考えているか分からないうちは、あまり近づき過ぎるのは良くないだろう。


 ――そもそも人の荷物を勝手に引き出すか?


「ちょっと待ってよ。先生もう行くのか!」

「私は荷物を取りに来ただけです。常識の外れた人に会いに来たわけじゃないです」

「せっかく再会できたのにそりゃないよ。お茶一杯だけでも、茶菓子もつけるからさ!」


 博物館を出てから信乃はずっと無言で通していたが、寿太郎は諦めるということを知らないのか、市電の改札近くまで付いてきた。このままでは本当に家まで押しかけて来そうな勢いだ。


 義母がこの騒々しい男をどう追い返すのか見世物小屋よりよほど興味深いが、とばっちりを受けるのは信乃と頼次よりつぐだ。


 信乃は寿太郎に手の平を向けて言った。

「分かりました。家に着いて来られても困ります。ここから一番近い場所で一時間だけなら」


 信乃が指定したのは公園内の池のほとりにある高級洋食店だった。値段を見れば流石に諦めるだろうと思ったが、寿太郎は腕組みをして満足そうに頷いた。


「お、カツレツもあるんだ。昼飯はここで決まりだな!」

「私はお茶だけですからね」


 信乃は念を押してから寿太郎の後に付いて店に入った。

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