第5話 帝国博物館

 美術館へと向かう道すがら、二人は十銭銅貨を押し付け合いながら歩いていた。信乃が手荷物を預けている間に寿太郎が先に入館券を買ってしまったことが原因だった。


「入館料くらい自分で払いますから」

「だからいらないって。珈琲くらいじゃ詫びにもなってなかったし、ついでに先生の解説まで聞けるんだから俺の方がまだ得してるよ」

「お礼なら頂きました。それに私の素人解説を聞いても勉強になりませんよ」


 寿太郎じゅたろうは返事の代わりに信乃しのの胸にパンフレットを押し付けた。


 手に持った銅貨を危うく取り落としそうになった信乃は、諦めたのか渋々財布に小銭を片付けた。


 入館券を買った博物館の正面玄関を出て右手、大小三つの青銅葺きのドーム屋根を冠した立派な建物の前で立ち止まる。


「ここが美術館か。博物館内に美術館があるなんてなあ。分からんわけだ」


 寿太郎じゅたろうはパンフレットを指で弾いて言った。表紙には「奉献ほうけん美術館(慶祥館けいしょうかん)」とある。


「美術館自体がまだ珍しいですからね。場所を示すだけなら建物名の方が分かりやすいと思ったのかもしれません」


 一対の狛犬ならぬ狛獅子が見下ろす階段を駆け上がった寿太郎は、最後の一段をかけ声と共に飛び上がってくるりと向き直った。


「先生、早く早く」

 信乃は裾を踏まないようおくみを引っ張り上げながら石段をゆっくりと上っている。


「そんなに急がなくても絵は逃げませんよ」

 寿太郎は大扉を開ける手を止めた。

「逃げるよ」

「え、なんです?」

 信乃は聞こえなかったのか、もう一度聞き返してきた。


「ほら、先生は逃げるかもしれないだろ」

 寿太郎が笑って言うと信乃は半ば呆れ顔で先に美術館へと入っていった。

 

 エントランスに入るとそこは円形のホールだった。

 大理石で出来たモザイクの床が、天井から降り注ぐ光で万華鏡と化している。見上げると二階はホールをぐるりと囲んだ回廊になっていて、西洋の教会のような荘厳さを醸し出していた。


「先生はどこから見たい?」

 寿太郎の申し出に信乃は軽く首を振った。

「入館料は君が払ったのですから、君の自由にどうぞ」

「先生が見たい順でいいよ。俺にとっちゃどれも全部珍しいから、どこから見ても同じだよ」


 館内の作品はほとんどが日本画や水墨画、浮世絵などだったが、西洋画や工芸品も少なからず展示されていた。

 博物館よりごった煮感は少ないものの、時折、展示順が年代を逆行したりして試行錯誤の跡が見える。

 展示室の外廊下を歩いていると腰窓に掛かった薄いカーテン越しに庭園が見えた。


「へえ、窓があるのはいいな」

 アイボリーに塗られた壁が柔らかく室内を照らし、心地よい明るさに整えられている。


 信乃が廊下の装飾を仰ぎ見ながら寿太郎の前を通り過ぎた。控えめな甘い香りがした。信乃の着物の香だろうか。寿太郎はその中に嗅ぎ慣れた匂いが混じっているのに気づいた。


「絵への影響も最小限ですし、日光の入り具合もかなり配慮されていますね」

「よく考えられた空間はそれだけで気持ちがいいな」


 寿太郎はその匂いを確かめようと信乃の後ろを付いて行く。しかし、油彩の展示室に入るとすぐに掻き消えてしまった。


 ――まあ美術館だし、気のせいか。

 

「自然光は綺麗に見えますが、過ぎた光量は壁や天井からの反射で見えにくい。何より作品が傷みます。かといって白熱電灯だけだと絵が赤っぽく見えてしまう」


 ネオ・ゴシック様式で装飾された室内には日本人画家による油彩が何点か展示されていた。


「そう言えば昔、日本画をテンペラ画や彫刻と同じ場所に保管した貴族がいてさ。自慢の一品をお披露目する前に、退色どころか絵の具がごっそり剥がれ落ちちまったことがあったな」


 その時、展示室の外から話し声が聞こえてきた。団体の客が入ってきたらしい。


「先生、二階に行こう」

 建物の端にある階段塔に到着すると、信乃は寿太郎に話の続きを促した。


「その後、絵はどうなったんです?」

「もちろん大騒ぎだよ。修復士も日本画の画材なんて分からないから結局は販売元の親父に泣きついてきてさ。なのに、あいつらは難癖を付けてきた。親父はちゃんと保管方法の説明もしたってのにさ」


 二階へは半円を描く両階段で接続されていた。寿太郎は階段途中で気配がないことに気づいて後ろを振り返った。

高さのある階段は草履では登りにくいのか、もたついている信乃に寿太郎は戻って手を差し出した。

 断るために振った信乃の手を、寿太郎が掴んで引き上げる。


「金に飽かせて買い漁って雑に扱った挙げ句、壊れたから直せとか呆れるだろ。そんな美術品の修復が親父の来日理由の一つなんだよ」


 階段を上りきった信乃が寿太郎の腕を叩いた。

「もう大丈夫ですから」


 寿太郎が手を離すと信乃の手首には赤い跡がくっきりと残っていた。

「うわっ、先生ごめん。俺どうも力の加減が出来なくてさ」

「すごい力ですね。あの時、警官を殴らなくて本当に良かったですよ」


 寿太郎は申し訳なさそうに頭を掻いて言った。

「先生が止めてくれなかったらって思うとぞっとするよ」


「そう言えば。君は私の荷物をあれ以上踏まれないようにしてくれたでしょう。助かりました」

 急に褒められて恥ずかしくなった寿太郎は、次の展示室へと足を早めた。



 二階の展示室には国内の作品が集められていた。

 寿太郎にとっては一階の油絵よりこちらの方がよほど面白い展示だと思った。すると隣に並ぶ信乃が嘆息した。


「どうしたんだ、先生」

「ご一新以降、多くの大名たちが食い扶持に困って二束三文でお家伝来の宝物を売ってしまいました。国宝級の品だけでなく、無名作家でも素晴らしい書画や工芸品は沢山ありました。しかし、それらの多くは諸外国へと散逸してしまったんです」


 信乃の言ったことは、寿太郎はこの目で見てよく知っていた。先ほどの金満家が手に入れたのもそういったルートを辿った末なのだろう。


 中には盗品も少なくなく、酷い扱われ方をして永遠に失われてしまった作品もある。


「あの……ごめん」


「どうして君が謝るのですか。お父上は修復に来たのでしょう。大切に扱われるのなら作品にとって幸せなことです」

 信乃は穏やかに微笑んで言った。


「本当にそう思う?」

「ええ、君が探している絵もどこかで大切にされているといいですね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る