第4話 深山信乃

「食べないのですか?」


 寿太郎じゅたろうは実に美味そうに青年がカステイラを食べる様子をぼんやりと眺めていた。


「食べる食べる。いや、向こうでも見たことない菓子が出てきて驚いてた」


 寿太郎は目の前に置かれた二つ折りのスポンジ菓子をフォークで突っついた。ふわりと嵩高い生地に卵色をしたクリームが挟まっている。


 寿太郎が頼んだのは確か「ワッフル」だったはずだ。固い薄焼きの生地に糖蜜シロップを挟んだものを想像していた寿太郎は首を傾げた。恐る恐る口に放り込んでみる。


 蜂蜜の香りがする生地はほんのりと甘く、バタークリームはカスタードのような風味で口当たりも滑らかだ。


「美味いけど、なんか違うんだよなあ」

「砂糖も小麦も輸入品で値段が張りますし、日本人の口に合うように工夫して作ったのでしょうね。杏ジャムや餡子をパンに入れたりね」

「ぜんざいは食べたことがあるぞ。あれをパンに入れたのか。すごく挑戦的な食べ物だな」


 新たな目的が出来たことに寿太郎が喜んでいると、青年が声の調子を変えた。


「それはそうと、私の和蘭陀おらんだ語は聞き取れましたか?」

「先生、本当はしゃべれるんじゃないの? でも一発で出身地を当てられるなんて思わなかった」


 職業柄、質問攻めには慣れているのか、青年は一つずつ丁寧に答えた。

「師範学校の同僚から教えてもらっただけの独学ですから大して話せませんよ。出身地は――」


 青年は寿太郎の背後を指さしながら、空いた左手で自身の胸を叩いた。


 寿太郎は「あっ」と声を上げて振り向くとソファに乗り上げてコート掛けの自分のインバネスを引き寄せた。前身頃を開くと、そこには銀の糸で名前が縫い取ってあった。


「和蘭陀人の名字は出生地が多い。そうですよね。アーネスト君」


 背後から悪戯っぽく呼ばれた名前に、寿太郎は耳が熱くなった。振り向くと、青年は先ほどと変わらず静かに珈琲を飲んでいるだけだった。


 自分はなぜ落胆しているのだろうか。寿太郎は不揃いな前髪を乱暴に掻き乱した。手を止めて指の間から観察する。


 色硝子を通った陽光が店内を琥珀色に彩る中、青年は光に溶け込むように座っている。喫茶店がまるで静謐な空間にでもなったようだった。


「君の本名はそれでいいのかな」

 何も言わない寿太郎に青年が確認してきた。


「寿太郎も本名だって! ジュは目出度いのコトブキ。年は二十三、それとアーネストは英語読みだから!」


 突然の自己紹介に青年が目を丸くした。寿太郎は次第に視線を下げ最後はテーブルを見つめながらも更に続けた。


「ええと、フルネームはもっと長いから寿太郎でいい。それと俺、先生の名前をまだ聞いてないから教えて!」

 一気に捲し立てて顔を上げると、青年は一切の表情を消して黙り込んでいた。


 ――笑わせるどころか最悪の雰囲気になってしまった。

 寿太郎の背中を冷たい汗が流れ落ちる。


 唐突に青年が拳で手の平を叩いた。

「そういえば名乗っていなかったですね。私は深山信乃みやましのです」


「深山先生?」


 寿太郎が言うと、信乃はすぐに否定した。

「もう先生ではありませんし、そもそも君の先生ではないですよ」


 背筋を伸ばしてソファに座り直した信乃は、不満そうに顎を上げて言った。苛立ちを態度で示した信乃に、しかし寿太郎は一歩も引かなかった。


「それなら信乃でいい?」

「なぜそうなるんですか。私は君より年上です」

「よし、じゃあ間を取って信乃先生で」


 信乃は一瞬呆れた顔をしたが、寿太郎に一瞥を投げただけで残りのカステイラを片付け始めた。

 明らかな会話終了の合図に寿太郎は慌てて話の接ぎ穂を探したものの、何一つ浮かんでは来なかった。


 食べ終えた信乃が懐紙に黒文字を挟み込むと「ご馳走様でした」と手を合わせた。


 寿太郎はいよいよ指先が冷たくなるのを感じて、ぎゅっと手を握り込む。


「ありがとうございます。私はそろそろ帰らないと――」


 信乃が腰を浮かしかけた時、寿太郎は一か八かで話を強引につなげた。


「あ、あのさ俺。母さんがオランダ人なんだ。小さい頃はヨコハマに住んでた。親父は貿易商をしてて世界中の絵画を集めてる画商。それで俺はとある絵を探してる」


 半ばやけっぱちの行動は思わぬ成果を上げた。信乃が荷物から手を離してソファに座り直したのだ。


「それで帝国博物館に行こうとしていたのですか」

 寿太郎は驚いた。そんなことは一言も言ってなかったからだ。


「うん。でも駅を降りた先で近道しようと思ったら墓地に出てさ。墓参りのお婆さんに道を尋ねたら、更に違う場所に出ちまって」


 寿太郎の話に信乃は少し考えてから言った。

「そのお婆さんは帝国博品館と間違えられたのかもしれませんね。親切が仇になったようです」


 公園の南側には巨大な時計塔を頂いた赤煉瓦の西洋風ビルがある。博覧会の払い下げ品や洋雑貨を中心に百貨全般を取り扱っている大店おおだなだ。お婆さんは寿太郎の容姿から舶来品を買いに行くと思ったのだろう。


「その後は散々でさ。住宅街に迷い込んでお巡りさんに道を尋ねようと思ったら逆に職務質問されて。それで段々と面倒になってきて」


「それで逃げたのですか。不味い対応だったと言わざるを得ませんね。でも博物館なら公園入り口の案内図に載って――」


 信乃は何かに気付いたような顔をして、人差し指をひょいと振った。


「もしかして君は美術館に行きたかったのですか?」

「そう。でも美術館はないって駅の人が言ってたから、博物館でもいいかと思って」

「博物館の敷地内に美術館があるんですよ」


 その説明に寿太郎はあんぐりと口を開けた。段々と腹の中がムカムカしてきたが、丁寧に説明をしてくれた信乃に八つ当たりすることもできず、口を尖らせるしかなかった。


「しかし、ただの迷子だったとはね」

 俯いた信乃が肩を小刻みに震わせて笑っている。

「よほどの大罪人かと思って内心ビクビクしていました」と真面目くさった顔で言うので、寿太郎も堪えきれなくなって吹き出した。


 寿太郎は喫茶店の柱時計をちらりと見た。時計の針は正午に近づいている。


「そう言えば、信乃先生はなんで公園に?」

 寿太郎の質問に信乃は少し考えてから言った。


「私も博物館――いや、ただの花見ですよ」


 寿太郎は斜向かいの椅子に置いてある信乃の風呂敷包みを見た。中身が重箱などでないことは先ほど尻で確かめたので分かっている。ただの花見にしては変わった荷物だ。しかしその大きさは寿太郎にとって馴染みのある大きさだった。


 ――F10号。


 寿太郎はパンッと両手を打ち叩いた。

「じゃあ決まりだ。行こうよ、先生」


 寿太郎は勘定書を手に取って立ち上がると「どこへ」と問う信乃に手を差し出して言った。


「帝国博物館」

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