波音に溶けていく気持ち

瑞葉

第1話

 大学3年生になったわたしを連れて、彼は薄暗い路地を無言で歩いた。固くつながれた手はあの日と同じまま。なにかしゃべろうと思うけれどうまく言葉にならない。これから起こることへの未知の期待はジェットコースター。彼も覚えているかな。

 あの時思ったんだよね。わたしの全ての「初めて」は、この人となんだって。

「家になんて言って連絡した? 兄貴に叱られるかな? 俺。リアル兄貴にさ」

 大学院に進んだ、わたしの自慢の彼氏。リアル兄貴、という言葉に、古い懐かしい秘め事の遊びを思い出す。

 そうか。わたしたち、はじめは。

「葉月にぃは怒らないよ。彼女とこういうこと、してるもん。あっちだって」

「そっか」

 くぐもったように笑う。そんな彼の手をものすごく強くつかむ。

 連れていってほしいんだ。あの日のジェットコースターよりもっと高いところへ。

 


1

 伊澄さんはイズミさんと読む。女性のような名前だけれど、ちゃんと男性。苗字は青井。青井伊澄でアオイイズミなんだ。親の名づけセンス、おかしいよね。

 そう言ってさざ波のように笑っていた。

 わたしは赤嶺(あかみね)紗良(さら)という。赤嶺というのは沖縄に多い苗字で、実際、父は沖縄の人。竹富島という小さな島、石垣島からフェリーで行く島の集落に、5歳まで家族で暮らしていたのだ。南国の瓦屋根のその家は築100年くらい。借家だったのだけれど「自分の家」と当時のわたしは認識していた。屋根には2頭の大きなシーサーがくっついていた。

「横浜の高校なんだね。僕も大学、横浜だからあっちで会えばよかったね」

「いいえ、あの写真の海が見たかった」

 砂がさらさらする感触を確かめる。五歳まで馴染みあった感触。

「ほんとに契約する?」

 周りにちらほらいる人たちに聞こえてもいいよう配慮したのか。青井伊澄さんはなにを、のところを言わなかった。

「しますよ。『お兄ちゃん』になっていただけますか」

 わたしはそれだけ言って、ふたりで並んで海を見た。

 30分くらいは黙って海をただひたすら、そのまま見ていた。5月の潮風は心地よく、波音に包まれていると、人生であったさまざまな「嫌なこと」を波が洗い流してくれるように感じた。

 わたしたちは「架空の兄妹契約」をそうやって結んだのだ。わたしは保土ヶ谷駅から隣の横浜駅の高校に通う1年生で、伊澄さんは江ノ島近辺から横浜の大学に通う1年生だ。


2

 わたしにはリアルな兄貴がいる。赤嶺葉月(はづき)お兄ちゃん。小さい時は一緒に遊んだり、それこそ一緒に海やプールに入ったりもしたし、お風呂で裸を見られたって全然平気な兄妹だった。

 竹富島の奥の方、観光客が来ないようなところに、「星み湯」という露天風呂があった。予約すれば家族で借りられ、南国の星々を見ながらのんびり温泉につかれるのだ。月に一度はそこに行く。なぜかお父さんは車の中でいつもジャズの音楽を聴いていた。お母さんが服を脱ぎ終わる前に、子どものわたしたちはもう、お風呂にザバンと入る。

「見てみ。南十字星」

6歳のお兄ちゃんが星を指差す。

「ほんとは南十字座なんだぞ。十字になってるだろ。日本だとここらへんでしか見えないんだ。あれはさそり座。ハワイでは『マウイの釣り針』って言うんだぜ」

 物知りなお兄ちゃん。4歳のわたしの憧れだった。

 でも今は、お兄ちゃんとはもう呼べない。

 兄貴は「兄貴」だ。


 小学校4年生の頃だった。クラスの女子同士の他愛のない会話。誰にチョコレートあげる、というバレンタインデーが近づいてのヒソヒソ話。

「お兄ちゃんにはあげるけれど、他の男子になんかあげたくないよ」

 と言ったわたしに、「ブラコンだー。コイツ」って、みんなのツッコミが入った。わたしはその時、ブラコンという言葉が内心でかなり気になり、家に帰る途中にある本屋に寄った。そこは坂の途中にある古本屋だった。一冊300円の棚がある。両親がランドセルについたお守りに300円を入れてくれているのを、わたしはもう知っていた。そのお金で、高校生か大学生が読むラノベを買った。

 わたしは家に帰ると、その「いけない本」をうずいた気持ちで読んだ。漫画でなく活字だったのがなお悪かった。血はつながらないけれど兄妹として育てられた外国の貴族のふたりが、禁じられた愛に落ちていく物語。

 禁断の兄妹愛の話は、そのまま、厳重に紙袋にくるんでゴミに出した。

 でも、わたしのやわらかな感性に「キズ」を残した。


 最初は多分、自己暗示だった。

 でも、ぎこちない雰囲気は葉月お兄ちゃんにもはっきり伝わっていた。

 ある日、高校1年生になっていたお兄ちゃんが髪のてっぺんを金髪に染めた。自分でやったのだ。カラー剤のにおいがお風呂場に漂っている。

「ちょっとお兄ちゃん。カラー剤くさいんだけど」

 ドンドンと足を踏み鳴らして、わたしはお兄ちゃんの部屋の前まで行く。ドアをノックする。出てきたお兄ちゃんは眉をしかめた顔だった。

「はあ。お前こそ、気持ち悪い顔して俺のこと見てるじゃんかよ!」

 お兄ちゃんははっきりとそう言って、バタンとドアを閉めてしまった。

 その何週間かあと、お兄ちゃんには彼女ができた。連日、夜遅くまでのアプリの通話。わたしたちは隣同士の部屋だったから、会話が聞こえないはずがない。

「妹のやつがさー。中学の期末テストでいい点とったからって夕飯の時、自慢しやがんの」

 わたしへの悪口も聞こえてくる。

 わたしたちは2歳違いの兄妹。聞こえてくる悪口に耳をふさいだ。

 お兄ちゃんでなく「兄貴」と短く呼ぶようにした。それでも、「兄貴」の目の中にはわたしへの警戒心があった。

 兄貴と彼女さんとはまだ関係が続いている。時々、彼女さんはロールケーキとかを持って家に遊びにくる。お父さんもお母さんも彼女さんのことが好きだけれど。わたしは。


 胸の奥の気持ちを、小学校4年生の時から誰にも言えなかった。ヤフー知恵袋で検索してもその答えはない。仕方なく、区の図書館で、大人が読むような恋愛小説をできる限りたくさん読んだ。国語の成績がすごく上がった。兄貴よりはかなり偏差値が上の高校に進めたけれど、気持ちは晴れなかった。わたしは10代向けマッチングアプリのサービスに登録していた。

「交換日記」というサイト。自分のプロフィールに「兄貴を募集します」とだけ書き、スタバのラテの写真を顔写真として載せる。高校1年生の入学式の日。散りかけの桜が雪のように舞っている美しい日のことだった。

 コメントはずっとなかった。2週間後に、たった1件だけ、「イズミ」というアカウントからコメントがついた。

「何か辛いの?」

 イズミさんのページを見ると、海の写真が目に入る。そう。プロフィールの文字欄には何一つ書かれていないのだけれど、写真がたくさん投稿されていた。撮り溜めたのだろう50件ほどの写真。どこかの島や電車の写真。海辺の夕陽の風景が、いつか竹富島で見た夕陽に少し似ていた。

「どちらにお住まいなんですか?」

「江ノ島だよ。江ノ電、知らない?」

 彼の言葉から、江ノ島という地名を調べていた。同じ神奈川県なのに行ったことはなかった。ただ、中学生の時に読んだ本にその地名が出てきたなあ、と懐かしく思い返しながら。

 そして、5月半ばの今日、わたしは七里ヶ浜で、イズミさん、すなわち伊澄さんとリアルな連絡先の交換をした。「架空の兄妹契約」を締結したのだ。

架空の兄妹。清く正しい関係。恋人同士のようにキスとかはない。彼はわたしの兄になり、わたしは彼の妹になる。ごっこ遊びといえばそう。

「もう、『交換日記』なんか削除しろよ」

 伊澄さんは言ってわたしに微笑んだ。どこか柴犬に似たなごやかな笑顔だった。

「こんな感じで、兄、やるよ」

 途端に気持ちがドキドキして、頬が赤くなる。異性への免疫、ないのかも。

 兄貴以外の異性とまともに話したことなんかなかった。この頬の赤みから始まる恋もあるのかな。でももう遅い。

 わたしは彼の「架空の妹」になったのだ。


3

「伊澄さんは妹さんが欲しかったんですか?」

「いや。中学の頃から人の相談に乗りやすくて。大学の遊び仲間とかゼミ仲間からも、カウンセラーマインドだってよく言われるんだ。なにか悩んでるならと思ったよ」

 カフェではそんな話をした。伊澄さんは実際に、横浜の大学で認定心理士という資格をとる勉強をしているとのことだった。

 でも、いくら心理学を学んでる人だからと言ったって、この人にわたしの、「実の兄貴への言えない感情」のことなんか話せない。なぜネットで兄貴を募集していたのか聞かれたけれど、曖昧にぼかした。

 伊澄さんは顔つきが猫よりは犬系なんだけれど、彼自身は猫好き。まだわたしの門限まで時間があったので、鎌倉駅前の猫カフェに移動する。中に入るとすぐ、白いふわふわした毛並みの子猫が駆け寄ってきた。すごく元気そう。食べ物をあげたら、と伊澄さんが言い、店員さんから猫のキャンディーを買ってくれた。おずおずと猫キャンディーを差し出すと、子猫は一心にキャンディーをなめ始めた。わたしの指まで舐めてしまう。子猫の舌は温かくて、こころがじんわり痛む。

 こういう経験だって免疫ない。中学生時代は、保土ヶ谷区の図書館に住む「本の虫」だったのだもの。


 そうして、わたしたちは「デート」を始めた。行き先は彼の地元の江ノ島や七里ヶ浜だったり、横浜のマックだったりした。

 お父さん、お母さんには「彼氏ができた」と無難な嘘を伝えて、彼の顔写真や、横浜の大学の学生証の写真を見せた。

「ずいぶん頭のいい彼氏ねえ。青葉区のあの大学って言ったらねえ?」

 お母さんがいぶかしげにわたしを見ている。

 どこで知り合ったのか、と聞かれて、ネットでと答える。悪いことは何もしてないのに、心がズキズキした。

「どこで知り合ったんでも、まあいいさ。ただ、自分のからだは大切にしなさい」

 意外にもお父さんが言って、交際は両親公認になる。

 兄貴も家族会議の場にいたけれど、この件、全くノーコメントだった。無表情でわたしたちの話を聞いていたかと思うと、先にテレビのある部屋に行き、スポーツ中継の録画を見ている。

 兄貴なりの「イエス」なのかもしれなかった。

    

「はぁー」 

 ちょっと大袈裟にため息をつくと、伊澄さんが案の定、反応してくれた。

「どした?」 

 紙パックのコーヒー牛乳をわたしの頬に軽く押し当てて、彼は聞いてくれる。

「今月は金欠なんです。江ノ島の方に来過ぎたかな」

 6月の空気がじとじとする。わたしたちは江ノ島の水族館に来ていた。水族館代は伊澄さんがおごってくれている。

 魚は綺麗だったけれど、わたしは内心、お金がピンチだなあ、と思っている。飲み物一つ買うのも結構切実だから、バッグの中に水筒を持ってきてチビチビ飲んでいる。

「そっか。飲み物代もアイス代も出すのに。『兄妹』なんだし、遠慮せず」

 わたしの話を聞いた伊澄さんは穏やかに言う。

 黒髪だった彼は、6月はじめに少し髪を染めて、癖のないストレートな茶髪になっていた。やっぱり大学生なんだなあ。

 髪を染めると急に垢抜けて見えるよね。

(事情を知らない人からすれば)「彼氏」の伊澄さんについていけてない野暮ったい自分をはずかしく思う。

「高校の友達に伊澄さんの写真見せたら、素敵な彼氏うらやましー。って言われましたよ」

 唇をとがらせてそう言う。

「言ってないよね、秘密」

 伊澄さんはベンチにわたしを座らせて、自分も座る。コーヒー牛乳を飲みながらのんびりとして楽しそう。

「架空の兄貴、なんて友達に言えるわけないですよ」

 言いながらも、(水族館で会って、今のわたしたちってつきあってるのとほぼ変わらないなあ)と思ったり。

 中学、高校と同じクラスの友達から見たわたし。

 中学生時代は保土ヶ谷区の図書館で本ばかり読んでいた「本の虫」が、高校入学を境に吹っ切れちゃって、江ノ島あたりの彼氏とラブラブ青春ライフを過ごしてる。

 一緒にお弁当を食べる仲の友達に、そう思われてしまっている。

 キスとかまだなの? って、この間、クラスでも目立つ可愛いタイプの子たちに聞かれて、すごく戸惑った。彼女たちは、彼氏と会う休日は化粧とかした方がいいよ、といろんな雑誌を見せてくれて、口紅やアイシャドウ、チークに至るまでいろいろ教えてくれた。

 わたしたちの関係は、そんなじゃない。

 けど、(そんなこと)もこの先有り得るんだろうかな? と期待してしまう部分もある。

 血は繋がってないお兄さん。

 わたしが小学生の時に読んで衝撃を受けて、ゴミ箱に捨てた「あの本」の設定そのままだった。そのことに後で気づいた。

 

 とりあえず、当面はお年玉貯金を崩すしかなさそうだ。

「バイトは? したらいいのに」 

 魚の水槽を一通り見終わると、ペンギンの水槽があった。その前で、伊澄さんはさらっととんでもないことを言った。

「バイト? むり、無理です、絶対に」

 放課後に図書館にしか生息してなかった人間には困難すぎる。

「人間、向き不向きありますもん。コンビニとか絶対無理ですから」

 はあー。とまたため息をつくわたし。

「そうかな。意外と似合うんじゃないかな。真面目で遅刻も欠勤もしなそうだし」

「架空の兄貴」は、リアル兄貴が絶対に言わないことをさらっと言ってくれる。

「でも確かにコンビニは意外と覚えること多いかもね。保土ヶ谷にスーパーマーケットとかない? できるだけ地域密着型みたいな店舗」

「ありますけど……」

 ダイオウスーパー。地元で長いこと続いているスーパーがふと、頭の中によぎった。

「品出しとかいいんじゃないかな? レジ打ちが嫌なら。いろいろ他の仕事もあるし、検討するといいよ」

 伊澄さんは「説教の埋め合わせ」だと言って水族館の売店でゼリーパフェをおごってくれた。水色のひんやりしたパフェは、夏の始まりの味がした。


5

「で、彼氏と会うためにバイトか。お前、成績いいのに、バイトまでして、彼氏と会って。生活パンクするぞ。自分のところに来させて、お金使わせてるんだろ。電話して怒ってやるぞ」

 日曜夜の「家族会議」。バイトを探してると両親に切り出したわたしに対して、珍しく、リアルな兄貴が横から割って入った。

「葉月の言い分ももっともだな。それに、紗良は成績はいいけど、人への愛嬌がない。バイトは無理だと父さんも思ってたよ」

 お父さんはビールを飲んでいるので、少し顔が赤い。

「だろ? 俺が彼氏とやらに電話してやるから!」

 いきりたつ兄貴に対し、お父さんが静かに言った。

「でも、紗良は本ばかり読んでて、友達も少なかった。正直、この先を案じていたのは確かだ。最近は少し血色も良くなった。伊澄くんとやらは、結構いい青年だと思うよ」

 血色が良くなったのはチークを塗っているからなんだけれどね。

「確かに、ダイオウスーパーなら近いしいいかもねえ」

 お母さんがのんびりと言いながら、お茶を4人分入れてくれた。

「伊澄って男、ろくでもねーと俺は思う」

 兄貴は言いながらも、自分の分が悪いと判断したのか、2階の部屋に引き上げた。


            

6

バイトの面接の日、スーパーのレジの店員さんに「面接にきました」と告げて、店の事務室に通してもらう。初めて見たスーパーの事務室には、「清潔! 手洗い!」の標語や、「目標達成率、85パーセント」と書かれたポスター。そして、乱雑にものが置かれた机の前に座っているのが店長に間違いない。

 店長はわたしをチラリと見て、履歴書に興味なさそうに目を通す。

 わたしは一生懸命に思いを伝えようとする。

「わたしが働きたい理由は」

 言うほどに、虚しさが襲う。

 リアル兄貴の言う通りじゃないか。

 自分の言葉が伝わってない。店長は眼鏡の奥で冷たい目。フンと鼻を鳴らす。

「君ねえ。いくら高校生だからって、もっと器用でハキハキした子なんか、そこらじゅうにいるからさ。他当たってよ」

 下を向いて、涙がこぼれ落ちそうなのを必死にこらえた。

 ダイオウスーパーで夕飯の買い物をしてきて欲しいとお母さんに頼まれていた。野菜を適当にカゴに放り込んでお会計してもらい、逃げるように店を出る。

 家で待っているお母さんに、絶対に採用は無理そうだと先にスマホ通話で伝えた。交差点の信号待ちをしながら。

 帰宅すると、お母さんは明るい表情でむかえてくれた。

「初面接、お疲れ様ー。あら、白菜買ってくれたのねー。鍋にする? すき焼きにしましょうか」

 テンションの高いお母さんにつきあう気にもなれず、2階に引きこもろうとする。

「待ちなさい、紗良。あなたが作りなさい。教えるから」

 お母さんは笑顔でわたしにそう言った。

「夕飯?」

「そうよー。お父さんにも昨日話してあるの。紗良は成績いいけど、包丁の使い方、食材の買い方はそろそろ覚えようね。毎日、家にいるときは夕飯作ってくれたら、お小遣い、3千円くらいはアップするから」

「本当に!」

「でもね。バイトの面接行ったのも、いい経験だったでしょう」

 一緒にいろんなことを話しながら料理を作った。

 すき焼きはちょっと味が薄くできてしまったけれど、兄貴もお父さんもお母さんも、喜んで食べてくれた。

 あまりに楽しくて、その晩は伊澄さんにメッセージを送るのを忘れていた。

     

7

 伊澄さんと過ごす時間は楽しかった。

 あっという間に夏休み。

 その夏は、ディズニーランドにふたりで行ったり、江ノ島の方にも何回も行き、刺激的な夏休みになった。わたしは人生で一番、こころから笑ったし、こころから伊澄さんを好きだと思った。

 ふたりで訪れた江ノ島の海。波が優しく広がる浜辺で、ふたりともビーチサンダルになって、少しの間、波と戯れた。

 足元の波の冷たさと心地よい音に、これまでの人生の罪、すべて洗い流してもらえたように思えた。

 もう、わたしはひとりではないんだな。

 そう思って伊澄さんを見ると、こわいような哀しいような目をしてこちらを見ていた。

 そのことがすごく気になったけれど、聞けなかった。


 夏休み終わり、伊澄さんに、2回目のディズニーデートに誘われた。いくら、親の手伝いでお小遣いを奮発してもらっているとは言え、お年玉貯金にわたしは手をつけ始めていた。

 どこかで予感する気持ちがあった。楽しい時間は長くは続かない、という。

 夏休みの占いにもきつい一言があった。

「夏は出会いと別れの季節です。そこを乗り越えた先に秋の実りがあります」

 

 家での居心地は格段に良くなっていた。

 バイトがダメだった一件以来、兄貴が少しだけわたしに優しくなったのだ。お父さんお母さんとの会話も増えた。覚え始めた料理。レパートリーが増えて、チキンライス、餃子、お父さん直伝のゴーヤチャンプルーも習った。


 伊澄さんとの二回目ディズニーデートの前日、リアル兄貴に中華街に誘われた。

 ふたりでのお出かけなんて何年ぶりだろうか?

「タピオカ飲みに行くか。たまには甘いもん」

 妙に親切な兄貴に、彼女さんと何かあったのでは、と勘繰ってしまう。顔に出ていたのだろう。

「お前、最近、例の彼氏とうまくいってないんだろ」

 兄貴はそう、小声で言う。

 わたしは素直に甘えることに決めた。

 横浜中華街に着くと、怪しげな栗売りからは巧みに逃れながら、食べ歩きをした。小籠包、エビ餃子、シウマイ。この感じ、すごく懐かしい。

 タピオカミルクティーもふたりで飲んだ。歩き疲れて、水分と糖分が心地いい。

 わたしは兄貴との「この距離感」に気づく。

 異性として好きなんかじゃなかった。最初から、ラブではなく、ライクだった?

「また、昔みたいにお兄ちゃんって呼んだら怒るかな?」

 自然な感じで聞けた。

「呼び名がどうじゃい。お前は気にしすぎ」

 兄貴は中華街で買った扇子で自分の顔をあおいでいる。

「兄貴って呼ぶのも嫌いじゃなかったけどね。なんか、無理してた」

 素直に言えた。

 呼び方なんか、そうだよね。どうだっていいんだな。


8

「最初、二股かけていたんだ。黙っていて本当に申し訳ない」

 二回目のディズニーデート。夢の国に入って早々、伊澄さんはそんなことを言った。

「二股って。いいじゃないですか? 彼女さん大切にしてください。わたし、『妹』ですし」

 唇を噛んで怒りをやり過ごそうとする。わざわざこんな値段が高いところに呼び出しておいて、そんな告白はない。

「あの当時、うまくいってない彼女がいたから、ちょっとした出来心で、君の『交換日記』投稿にアクセスしたんだ。ほんと、何もかもうまくいってない時期でさ。事務のバイト先も業績不良でクビになったばかりだったし」

「つまり、ほんとは伊澄さんって冴えてなかったんですね」

 我ながら、冷たい声が出たと思う。楽しいデートにはなりそうになかった。

「そんな話するなら、ひとりでまわります!」

 伊澄さんは顔を歪める。彼も強く言った。

「頼むから最後まで、俺の話を聞いてほしいんだ」

 伊澄さんが俺、という一人称を使ったのは初めてだった。

「うまくいってない彼女がストーカー化してて、6月あたまくらいまで、すごくゴタゴタがあったんだ。でも、ようやく、その彼女にも新しい彼氏ができたらしい。お互い、連絡先を消去した。コンビニの夜間バイトを5月末から始めた」

 伊澄さんは少し黙る。

「乗り物乗ろうよ。何か乗りたいのある?」

「フィルハーマジック」

 あまり塩対応も味気ないか。

 この間行った時に回れなかったアトラクションを指定した。

 シンデレラ城を、ふたりで無言でくぐる。


 でも、その映画型のアトラクションは、以前に行った時よりバージョンアップされていて、様々なアニメが新しく追加されていた。映像も立体感がある。

「良かった! わたし、すごい目が悪いのにちゃんと立体に見えて」

 アトラクションを出て早々、興奮して話すわたし。

「紗良って、目悪い?」

 伊澄さんが心配そうに言ってくれた。中学生時代からコンタクトにしてるけれど、当時から乱視が強かったのは、伊澄さんにはまだ話していなかった。

「わたし、眼鏡にするかもしれませんよ。秋から」

 冗談めかして言った。なぜか涙が出てくる。

「結構、目が悪いです。本も読みすぎたし」

 先月に横浜駅前の眼科に行った時の検査結果を思い出して、本当に涙が出てきた。

「何かひとつうまくいくと、何かひとつうまくいかない。そんなことばかりだなあ。わたし、この後60年は生きたいのに、今からこんな視力じゃ、やだなあ」

 涙がしたたる頬をなんとか隠そうと、手で顔をゴシゴシ擦っていると、伊澄さんがわたしのからだをすっぽりと抱きしめた。

 こんなに人がたくさんいるところで。

「は、離してください!」

 言いながらも、涙が出てくるのも止まらない。

 観念して、彼の胸元に頭を預けて、少しの間、心臓の音を聴いていた。

 ディズニーに来てるような人たちは、遊ぶのに一生懸命。喧嘩ならともかく、抱き合っているカップルには寛容だ。みんな、見てないふりをしてくれたみたい。

 

 冷静になってみると、この何ヶ月か、自分の人生はキラキラしていた。

「少しだけ、悪い子、やってみますか?」

 小さな声で、彼に聞く。

「ジェットコースター、乗ってみたい。この間来た時、乗れなかったから」

 彼もうなずいてくれて、相談して、まず、スプラッシュマウンテンに乗ることにした。

 西部の街並みに似た「クリッターカントリー」というエリアを移動しながら、彼がそっと手をつないでくれた。胸の奥が跳ね上がる。

「わたしたち、恋人同士みたいですね」

 ドキドキして、変なことを言ってしまった。

「もう、とっくに恋人同士だよ。バカじゃん。気づかなかった?」

 彼は、ライトに笑ってわたしの手を一層強く握りしめた。



           


        

 

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波音に溶けていく気持ち 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

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