練兵に倣う灰滅-14-

 すっと、瞳を閉じる。視覚で捉えられないものを見ようと躍起になるのが最早無駄だからだ。ただの無防備な姿にも見える滑稽なそれは、この場における最善手の構えであった。攻撃を仕掛ける時に風を切る小さな音色を聴覚で、相手の匂いで距離感を特定する嗅覚で、衣服の隅々まで掠めた感触に鋭敏に反応して間一髪のところで身を翻すための触覚を。それぞれ視覚というリソースを排除して、全神経をそちらに集中する。

 立ちんぼをするような姿を見たレンさんは、恐らく無防備な体勢に攻撃のチャンスを見出したのだろう。見事この作戦に引っかかってくれた彼は、大方僕が諦めて構えを解いたかのようにも見えるそれを機に、攻撃を仕掛けてきたのである。右の蟀谷こめかみの真横から微かに風を切る音がしたと認知した時、僕は転瞬の間にゆらりと態勢を後ろに傾けていた。攻撃の手が眼前を掠めたと認識した時、漸く瞳を開く。すると遂に姿を現したレンさんを眼界に捉えることができた。


「お。脳天に打ち当てたと思ったのに、綺麗に躱したな」


 凄い凄いと拍手喝采で褒め千切るレンさんに鼻息を荒くしていると、次の瞬間にはまたもやレンさんは姿を消しており、こちらが焦っている間に、いつの間にやら僕は死んだ虫のようにひっくり返っていた。背中と床がキスをしているという何とも無様な姿だが、何が起きたと状況把握を進めて行く中、なるほど足払いを食らったのかと認識が及んだところで、「油断した隙にやられた」と慢心した己が慚愧ざんきに堪えない。

 仰向けになった視界の中ぼやっと天井を眺めていると、視界にレンさんが現れる。何事かと思いきや、緩慢な動きで靴底が眼前に迫って来るのを見て、即座の判断で横に転がり踏み付けに遭うのを回避する。すると僕の頭があった元の位置から、ドゴォという地を抉るような音がして、驚きながら振り返ると、そこには大きなクレーターが形成されていた。あんな一撃を食らっては顔が潰れたアンパンになってしまうではないかと肝を冷やすが、手加減をしつつもレンさんが僕を殺しに来ていることはこの短時間で察知した。


 漸く眼前にレンさんを捉えたと、公平な立場に戻ったのだと錯覚したたった数秒のことだった。確かに床に転がった状態から起き上がるまでのほんの僅かな隙があったとはいえ、立ち上がった瞬間脳天に回し蹴りを食らうなどとは思ってもみなかった。その場でノックアウトした僕の記憶はここで途切れている。テオさんという超優秀な医師に銃創の治療をしてもらってから遠からずの期間でお世話になった暁には、酷い脳震盪で数日は安静にしている必要があるとの診断が付いたが、そこでも僕の超治癒能力が活躍して訓練には一日で復帰した。


 そんなこんなでレンさんとの苛烈極める鬼事の行く末は、僕の全戦全敗で幕を閉じようとしていた。そして二十九日目の朝、突如として第一部隊に任務が発効される。曰く、アミティエ国内のアシュラム区域に連続的な猟奇的殺人事件が勃発しているという。警察も総力を挙げて捜査に打ち込んではいるものの、宵闇に紛れるのが上手い侵蝕者彼らを見つけ出すことは極めて困難で、事件発生から数カ月経っている現在に及んでも犯人検挙に至っていない。警察ですら舌を巻く、あまりに周到な証拠隠滅っぷりは、通常の人間による犯行とは考えにくいという結論だった。現場は被害者を斧斤ふきんで頭蓋骨折させて即死させた後、内臓を食い荒らすように遺体を損壊させるという無残な光景が広がるものだという。これらを含め、上層部はこれが侵蝕者イローダーが関与しているものとみて、K-9sケーナインズ第一部隊に任務を依頼したという流れである。


「第二部隊との合同任務の前に実戦の経験を積めるとは、絶好の機会に恵まれたようだな、ハチ。何、臆することはない。任務ランクはCだ。最高難度のホロ相手に100人斬りを完遂したお前なら大丈夫だろう」


「……はあ、レンさんの言う通り本当に問題ないなら良いんですけど、ね」


 任務ランク的に実戦投入が問題ないとして、これまで培ってきた実力を認めるレンさんであったが、かくいう僕は初めての実地任務に緊張していた。やはり立体映像ホログラムと実物相手では緊張感も危機感も恐怖感も、何もかもが違うのだ。レンさんの言葉通り問題なければそれはそれでいいのだが、胸の内に言い知れない蟠りがあったのは確かである。


 いつも向かっていた訓練のための模擬戦闘訓練室シミュレーションルームへは足を運ばず、僕達は執務室へと向かった。執務室に到着すると、ふとレンさんの執務机に大きなアタッシュケースが積まれていることに気が付いた。随分と大きく頑丈そうなケースに何が入っているのだろうという素朴な疑問が沸々と湧いてくると同時に、レンさんは「お、あらかじめ先に発注しておいて良かったな」と一人呟く。「何が入っているんです、それ」と、僕の言いたいことをルカさんが代弁してくれた先で、返ってきた答えは――。


「ハチの軍服、軍靴、外套、血晶刃ブロッジ虚飾面ノースの一式セットだよ」


 僕の戦闘装束の一式が用意されているということであった。

 試着してみると、オーダーメイドで繕われたかのようにそれはしっくり馴染んだ。軍靴も一見歩きにくそうなロングブーツだが足にしっかり当て嵌まるし、インソールも柔らかい素材でできているから長時間歩いても足に疲労が蓄積し難い設計になっている。血晶刃ブロッジは模擬戦用に比べて少し重厚感があり、血液の貯蔵庫を眺めて、ここが第一級接触禁忌種の血液で満たされると更に重さは増すだろうなと感触を確かめる。虚飾面ノースも被ってみたが、存外呼吸がしづらいということもなく、高性能のフィルター故か平時と息のし易さに大差はなく感じた。生まれて初めて身に付けた軍服に幾らか浮かれていると、突如として後頭部を小突かれる。


「新しいものに浮かれるのも若くて結構だが、これから戦闘概況ブリーフィングだ。その後、すぐに作戦会議ミーティングに入る」


 レンさんが真剣な顔をして作戦準備室へ足を向ける。僕は血晶刃ブロッジ虚飾面ノースを外してレンさんの後ろに続いた。「それと、もし侵蝕者イローダーによる犯行現場で心神喪失して見境なくこちらを襲って来る被害者や生存者と対峙した時のために、これを持っておけ」と不意に渡されたのは、対人戦で用いるであろうグロック19。思わず「錯乱して攻撃を仕掛けてきた被害者を殺すんですか?」と僕が問えば、「飽くまで一種の自己防衛手段だ」と目を逸らすレンさん。彼は案に、心神喪失した相手を上手く説き伏せられなければ、最悪の手段を講じるのもやむなし、と論じているのだ。それはこれまでの侵蝕者イローダー討伐戦における救出者からそういった暴挙を受けた経験に基づくレンさんからの、救いようのないほど冷徹なアドバイス。生まれてこの方、拳銃など持ったことのない僕にとって、その重さは重厚なものに感じた。増して人の命を奪う武器と思えば殊更に。


 気が重いが、翌日からは任務が控えている。少しでも作戦を叩き込んで現場の役に立たなくてはと、奮起する。無論、立体映像ホログラム侵蝕者イローダーと違って、本物を相手取る訳であるから、正真正銘の人殺しに手を染めてしまうことは避けられないだろう。

 正直殺す覚悟はまだ十分にできてはいない。甘ったれたことではあるがこれはもう現場で無理矢理にでも覚悟を決めるしかないのだと思う。己が死ぬか、相手を殺すかのどちらかの選択を迫られた時、きっと僕の生存本能は後者を選ぶだろうから。


 気鬱ではあるものの、戦闘概況ブリーフィング作戦会議ミーティングで一つでも多くの諸情報を叩き込まねばならない。いつの時代も、戦いは情報量の多さが雌雄を決する。今僕は己の「人殺しなんてしたくない」という心の叫びに蓋をした状態で、不安定な気持ちを抱えながら情報収集を行うのであった。

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Apricot's Brethren 七種 智弥 @st_11_0

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