第6話

 その月の最後の土曜日。おじいちゃんがスーツを着て、朝から居間にいるのが新鮮だった。


「今日、何かあるんだっけ?」

「結婚式。高池さんところの、孫が」

「あー……そうだったっけ。私は?」

「お前は行かなくても良いだろう」

「分かった」


それじゃあ、行ってくるから。と、おじいちゃんは黒のセカンドバッグを持って玄関へと向かう。いつもは見送ることはしないけれど、今日は玄関先まで一緒についていく。


 見慣れない、少し皴の入った革靴。おじいちゃんは、それに靴ベラを差し込んでから、足を入れる。それから、もう一度、私に「行ってくる」と顔を見ずに言うと、すっかり夏らしさを感じる陽の光が眩しい外へと出ていった。薄暗い玄関は、床がほどよく冷えていて、裸の足が気持ち良かった。


 おじいちゃんが出て行ってから、だいたい時計が半周したころ。ぼんやりとテレビを見ていると、テーブルの上のスマホが通知を鳴らした。

 ロックを解除し、ラインのアプリを開く。送り主はココロちゃんで、神社の近くの裏山に来て欲しいと書いてあった。


 「何でそんなところ……」


 どんな理由があるかは分からなかったが、着替えるために自分の部屋へと向かう。半袖の白いTシャツに、紺色のデニムパンツを履いて、スマホと財布を小さなショルダーバッグに入れて肩に掛けた。学校指定の靴ではなく、前の家にいた頃から履いているお気に入りのスニーカーを履いて、私も外に出た。日差しが強い。一瞬眩んだ瞳を慣らすために、手で日よけを作る。玄関の鍵を掛けて、ココロちゃんに指定された場所へと急ぐ。


 ここに来てから、休日に、誰かに会うために出掛けるのは初めてだった。呼び出された理由は分からないけれど、少し嬉しかった。


 裏山へと続く石段を登っていく。想像以上にそれは体力を使い、息が切れる。滲む汗をTシャツの袖で拭えば、上の方から私の名前を呼ぶ声がした。


「エミリちゃん、こっち、こっち」

「ああ……ココロちゃん、」


今日は「お姉さん」ではなく、私の下の名前で呼ぶのだなぁ、と手を振る彼女を見上げてぼんやり思う。私も手を振り返し、すっかり底をついてしまいそうな体力を絞り出してココロちゃんの元へと、また足を前に進めた。


 ようやくココロちゃんの元へと辿り着いた、と膝に手を置いて息を整える。


「大丈夫?」

「ここまで来るの、結構大変だね」

「でも、ここ、町全体を見下ろせるんだよ」


ココロちゃんに言われ、顔を上げる。石段を上がった先の開けた場所。大きな木がいくつも立っていて、彼女の言う通り、その隙間からは町を一望できる。


 広がる田園風景。ぽつぽつと立つ家がおもちゃのようで可愛らしく見える。小さな町だと思っていたけれど、こうして見てみると、広い世界のようにも思えて、不思議だった。


 「そういえば、どうしてこんなところに呼んだの?」

「ごめんね、別に大した理由はないんだけどね、」


そろそろ戻って来るかな、とココロちゃんは独り言のように呟きながら、私が上がって来た石段のほうをまた覗き込む。それから、少し経って、「あ、戻って来た」と大きく手を振った。


 誰がいるのか、と私もココロちゃんと同じように顔を出す。あ、と声を上げたのは、私もその人も同じだった。


「ココロ、お前、吉岡呼ぶなら、そう言えよ」


だから飲み物三本ね、と階段を上がりながら、今野が言う。その手には白いビニール袋が揺れている。


 「今日、結婚式があるでしょ?」

「高池さんのところの?」

「そうそう。私とお兄ちゃん、昔は高池のお姉ちゃんとすごく仲良しだったんだけど、最近、あんまり話さなくなっちゃって」

「うん」

「だから、結婚式には呼ばれてないんだけど、今でも大好きな人だし、その晴れ姿は見たいなって思って。ここからなら見えるかなって」

「それに、どうして私を呼んだの?」

「なんとなく。お兄ちゃんと二人じゃつまんないから」


ごめんね、そんな理由で、とココロちゃんは肩を竦める。どうせ暇をしていたから嬉しい、と伝えれば、今度は「よかった」とホッとしたように頬を綻ばせた。つられて私の口角も上がっていくのを感じる。


 「吉岡、どれ飲む?」


炭酸しかないけど、と袋の中を覗き込みながら、今野が私のほうへと歩いてくる。何があるの? と私も彼が持つ袋の中を覗けば、種類の違う炭酸ジュースが三本入っていた。


「私、これが良い」


ココロちゃんが伸ばした手から避けるように今野が袋を引く。


「吉岡が先」

「え、いいよ。ココロちゃんが先で」

「良いんだよ、俺たちは。ココロが急に呼び出したんだから、吉岡が先に選び」


 ケチ、と言いながらも、ココロちゃんはなぜか口元をニヤつかせながら今野に言う。今野はそれを見て、「変な顔すんな」と悪態をついた。


 「エミリちゃん、先どうぞ」

「ありがとう」


今野の言葉を気にする素振りのないココロちゃんに促され、袋の中からペットボトルを一本取り出す。蓋を開けながら、町が見える場所に腰を下ろせば、その隣に今野も腰を下ろした。


 ペットボトルに口を付ける。マスカットの甘く爽やかな味が口に広がり、喉にパチパチとした刺激が駆け抜けていった。


 今野のほうからも炭酸が鳴る音が聞こえてくる。それと同じくらいに、微かな笛の音が神社のほうから聞こえてきた。


 「わぁ、綺麗」


双眼鏡を目に当てたココロちゃんが言う。赤い和傘。白無垢姿の女性がよく映えている。ゆったりと進んでいく花嫁行列は現実味がなく、不思議なものを見ている気分になった。


 隣をそっと横目で盗み見る。今野は時折ジュースに口を付けながら、ただじっと、私と同じようにその行列を眺めているだけだった。ただじっと見えなくなるまで。どんなことを思っているのかは、その表情からは読み取れなかったけれど。


 そういえば、あの中におじいちゃんはいるのだろうか、とふと気になり、目を凝らしてみる。しかし、参列者はどの人も同じような服装をしていて、上からではとても見分けがつかなかった。


 「あの人、明日には町を出ていくらしい」

「あの人って、高池さんのこと?」

「そう。旦那さんの家がよそにあるから、結婚を機にそっちに行くって聞いた」

「そうなんだ」

「ま、でも、この町では普通のことだから」

「普通?」


聞き返せば、今野が軽く頷いて続ける。


「小さい町だし、何にもねぇし、結婚とか就職とか大学行くとか、そういうタイミングで出ていく人が多いんだよ」


なるほど、と今野がしてくれた説明に頷き返す。そして、それから、自分の将来を思い浮かべてみる。そんなこと考えてみたこともなかったけれど、私もそうやってこの町を出ていくのだろうか。この町に来て、まだほんの数ヵ月しか経っていないけれど、この町でやっていける自信もないし、そうできるならそうしたいと思う。大学には行けるのだろうか。おじいちゃんには相談しづらいと感じてしまう。それならば、高校を卒業したら就職? 就職はよその町に行けるのだろうか。行けなかったとしたら、そのときは、結婚するまで外に出る機会はないのだろうか。


 厳かな笛の音に耳を傾け、目を閉じる。今、あの花嫁さんは、幸せを感じているのだろうか。よその町に、旦那さんと一緒に生きていく未来に、どんな期待を描いているのだろうか。


 「結婚って、幸せなのかな」

「……なんで、そんなこと思うん?」


今野からの返事で、自分が声に出していたことに気付く。自分の心の中にあった引っ掛かりを口にしてしまったことの恥ずかしさや、聞かれていたことへの気まずさを感じていないわけではなかったが、振り向かないわけにはいかなかった。横を見れば、今野が真っすぐな目で私を見ている。私の心はたじろいで、瞳が思わず揺れた。


「別に、何ってわけじゃないんだけどさ。結婚して、家族ができて……それで幸せっていう未来が私には分からなくて、」


 お母さんが死んで、お父さんが私をおじいちゃんに預けて。ずっと一緒だと信じて疑わなかった家族が、たった一つのことでバラバラになることを知った。今思えば、家族に対しての不信感は、その前からあったと思う。日に日に弱っていくお母さんの姿。亡くなるその日まで、仕事が忙しいからと病院に来なかったお父さん。


 この町に来てから、おじいちゃんがおばあちゃんのお見舞いに行かないことに、そのお父さんの姿を重ねてしまった。


 愛しているから、家族になったのではないのか。愛しているなら、弱っていく姿も最期まで見届けるべきではないのか。もしかすると、そこにはもう愛なんてないのではないかと思ってしまう。愛の形として生まれた私の存在すら、分からなくなる。


 「俺も、家族の意味ってよく分からんけど、」


 どこまでを私は彼に話したのだろう。どこまでが口に出ていて、何を口にしなかったかも分からないくらい、ぽろぽろと話した私の言葉を掬うように今野が口を開いてくれる。


 「母さんは出て行っていないし、父さんとも仲悪いし」


 今野が遠くのほうへ視線を向ける。その髪が、サラサラと風に靡いている。


「でも、俺が結婚したら、幸せだったらいいな……とは、思う」

「今野、結婚願望あるんだ?」

「別に、そこまで強くあるわけじゃないけど」

「そっか。……うん、でも……ちょっと分かる。私も、自分が結婚したら、幸せだったらいいなって思う」


 振り向いた今野と目が合う。彼がふっと瞳を細めて笑うから、思わず自分の胸が高鳴るのを感じてしまって、慌てて目を逸らした。


 「俺は、ちゃんと大人になって、結婚して、ちゃんと幸せになりたい」

「うん、そうだね」

「でも、俺、結婚できるかな。なんか、この町の奴らに嫌われてるし」

「そんなこと言ったら、私だってそう。誰とも仲良くできる気しない」

「ああ……じゃあ、こんなのどう?」

「うん?」

「お互いに三十過ぎても相手がいなかったら、結婚しよう」

「え、何それ? プロポーズ?」


真っ赤になりそうな顔を隠して、冗談っぽく笑う。そうしたら意外にも、今野が真面目な顔をして私を見ているものだから、手元のジュースに視線を落とすしかなくなってしまった。


 「プロポーズかどうかは知らんけど、ちょっと幸せになれるかもって未来があったら、安心するやろ」


拗ねたような今野の声。そうだね、と返すのが精一杯だった。ふと視線を感じてそちらへ顔を上げれば、ココロちゃんが口元をニヤつかせて私たちを見ていた。


 「そうしたら、エミリちゃんが、本当に私の『お姉さん』になるんだね」


楽しみだと彼女が笑っている。照れ臭くて、今野がどんな気持ちで言ったかは分からないけれど、自惚れてしまいそうだから、笑って返すしかなかった。

今野が履いていたハーフパンツのポケットから煙草の箱を出す。その中から一本取り出すと、慣れた手つきで火を付けた。少し離れた場所にいたココロちゃんが「禁煙」と今野を見て口を尖らせている。今野はそれを無視して、私にくわえていたそれを向けた。


「吸ってみる?」


 ほろ苦い香りがする。あの日、初めて、田んぼ道で今野を見かけたときに嗅いだ香りに、胸が切なくなった。


 うん、と頷いて、彼が持つそれを口に含む。吸い込んだ煙が苦しくて咳き込めば、今野が可笑しそうに笑っていた。初めて吸った煙草の味は決して美味しくはなかったけれど、悪くはなくて、きっとそれは、私が今野のことが好きだからなんだろう。


 「吉岡とだったら、なんか……幸せになれそうな気がする」


 私もだよ、とは返せなかったけれど、その言葉が無性に嬉しかった。


 離れていく彼の手に目が行く。もうすっかり夏の模様なのに、薄手とはいえ、未だに長袖を着ている今野が気になった。彼が口元に煙草を持っていくと、少しだけ袖がずり下がる。その腕に、青黒い痣のようなものが見えたような気がしたのは、私の心がそう思わせているだけだったのだろうか。今野やココロちゃんが言うことや、あの女の人の存在を知ってしまったから。

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