第7話

 あのときの私の疑念は、それから一週間もしないうちに確信に変わった。

 昼休み。いつもは、保健室に今野が来ないのは、今日は学校をサボったのだろうと済ませているのに、なぜかその日は彼を探さなければいけない気がした。開いたお弁当箱を戻し、スミちゃんに別の場所に行くと告げて、保健室を後にする。


 自分たちの学年の下駄箱を見に行って、今野の名前が書いてある場所を見てみたけれど、踵が履きつぶされた上履きが乱雑に入れられているだけだった。それでも、私の中には、彼が今日学校にいるという確信が、どこにも根拠なんてない確信があって、校舎裏に誰もいないことを確認してから、屋上へと向かった。


 立ち入り禁止になっている屋上の鍵を持っていると聞いたのは、今野と出会ってすぐのことだった。どうしてそれを持っているのかと問えば、彼は「秘密」と可愛らしく笑ってくれた。


 心は、早く彼を見つけないとと急いでいるのに、たった数ヵ月前の思い出を思い出しては弾む気持ちが見え隠れする。


 屋上の扉は、銀色のドアノブを捻れば簡単に開いた。開けた視界。暗がりから出た先の太陽が照り付ける外は目が痛いくらい眩しい。

 ぐっと視界を凝らす。屋上の隅で、フェンスに凭れて座り込んでいる今野を見つけた。


 今野、とそっと呼びかければ、彼の肩がぴくりと動く。ゆっくりと顔を上げた彼の顔を見て、それが何なのか、一瞬分からなかった。


 いつものように今野は私に軽く手を上げる。その顔には、痛々しいいくつもの痣が出来ていた。口元は切れているのか血が滲んでいる。


 「ちょっと……どうしたの? それ」

「別に。ちょっと喧嘩しただけ」

「喧嘩って……この前は、この町で自分に喧嘩ふっかけてくるやつはいないって言ってた」


駆け寄って、違うでしょ、と返せば今野の目が泳ぐ。


「スミちゃんのところ、行こう。消毒とか、治療してもらお」


 今野の手を取り軽く引っ張るが、彼はそれを拒むようにして立ち上がらない。


「いい。あんまり、大事にしたくない」

「でも、」

「大丈夫やから、俺は」


 掴んだ今野の腕の長袖のシャツが、彼の手を伝うように滑り、捲れる。そこには、顔よりは薄くなっている痣や傷がいくつもあって、やっぱりあの日見たあれは間違いではなかったのだと思う。


 「……どっち?」

「え?」

「あの女の人? それとも、お父さん? 私たちが初めて会った日の、顔の傷だってそうだよね」


私を見る今野の目が、より一層まぁるく、大きく開かれる。彼は、一度、二度、言葉を言いかけては飲み込むように口を動かした。それから、ふ、と今野の視線が落ちる。俯いた彼の、黒い毛が見えてきている旋毛が見えた。色が落ちて、金髪に近い茶色い毛が。陽の光でキラキラと煌めいている。だからか余計に黒く見える髪に、今野の幼さや素顔が垣間見えた気がした。


 「親父だけど……でも、大丈夫だから。本当に、俺は」


慣れてるし、と今野が言う。


「あとちょっとの辛抱やから。あと一年半、耐えたら、俺は家を出るし。それまでの我慢」


そうしたら縁も切れる。なんの心配もない、と顔を上げた今野が目を細める。その笑顔は、初めて会った日、私に、「正直鬱陶しいよな」と言った顔によく似ていた。


 どうして私はこのとき、無理矢理にでも、スミちゃんのところに連れていかなかったのだろう。彼の隣に腰を下ろして、「無理だと思ったらすぐ教えて」なんて、責任も何もないようなことを言ってしまったんだろう。

 我慢する、という言葉の裏にある、今野のこれまでの我慢をろくに考えなかった。ただ寄り添うことが、今の彼に必要なことだと本気で思ってしまった。

 子どもだけではどうにもできないことだともっと早く気付くべきだった。あと少し耐えた先にある幸せを、彼が掴める未来があると信じたいと思ってしまったから。


 いや、そうじゃない。そんなことではない。本当のところは、私が、大人を全く信じていなかったから、彼の隣に寄り添うことを決めたのだ。


 「今野、ちゃんと幸せにならないとダメだよ」


 見上げた空は突き抜けるように青い。六月の終わり。蝉がもう鳴き始めていた。


 七月に入るとより一層夏は濃さを増した。顔の傷で心配かけたくないからと保健室に顔を出したがらない今野と、屋上で昼休みを過ごすことが多くなった。


 今野の顔の痣も少しずつだが薄くなっている。あれから暴力はないと言う今野に安心したその日の夜は、風がないせいで、窓を開けていても寝苦しかった。


 少し前に倉庫から引っ張り出してきた古い扇風機に、布団からずりずりと身を乗り出して電源を入れる。カタカタと音を鳴らしながら羽根が回り出した。そよそよとした優しい風が私の身体を冷ましていく。何とかこれでようやく眠りにつけそうだと目を閉じかけたときだ。私のスマホが着信を知らせ、初期設定のままの通知音が鳴り響く。その相手を見るより先に、壁に掛けられた時計で時間を確認すれば二十三時を五分ほど回ったところだった。


 「え、ココロちゃん?」


こんな時間になんだ、と画面に映し出された名前を見て驚く。緑の受話器が上がっているボタンを慌ててスワイプして、「もしもし、」と言いながら耳に当てた。


 ガザガザと布が擦れるような音が通話の向こうで響いている。ポケットか何かに入れているスマホが勝手に私に通話を繋げたのだろうか。ココロちゃん、と呼び掛けてみる。おそらく間違い電話だろうとスマホを離しかけた耳に、荒い息遣いのようなものが聞こえてきて心臓が跳ねた。時折入るノイズ。鼻を啜るような音。でもその音を出している人はどうにもココロちゃんではないように思えた。


 「今野……?」


 ふと頭に浮かんだ名前を呼ぶ。通話の向こうで、相手が息を飲むのが分かった。


「吉岡」


私を呼ぶ声が返ってくる。震えて、小さくて、掠れているけれど、それが今野だとすぐに分かった。


 「どうしたの? 泣いてるの?」

「どうしよう、吉岡」

「なに? 落ち着いて、」


どうしよう、と今野は何度も繰り返している。聞こえてくる呼吸は走った後のように苦しそうだ。鼻をすすり、布が擦れる音は、涙を拭っているからだと想像できる。


「今野。何があったの? 大丈夫だよ、教えて、」

「吉岡。吉岡、俺、」


 俺さ、と言った後に続けられた言葉に、自分の血が引いていくのを初めて感じた。


 あんなに暑かったはずなのに、「え?」と聞き返した私の体は、寒さを耐えるように小刻みに震えていた。


 「ごめん、吉岡。俺、将来、お前を迎えに行く資格ない」

 「俺、父さんのこと、殺しちゃった」

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