異世界転生したS、己の死因を考察する

 死後、Sは異世界転生した。



 とはいえトラックに轢かれたわけでも、女神に会ってチートスキルを貰ったわけでもない。

 別の名前で、一次創作系の投稿サイトにユーザー登録したのだ。


 以降、すべての流れが変わった。


 Sが転生先として選択したのは、比較的小規模な新興投稿サイトであった。

 ここで、初投稿作品で日間ジャンル1位を取った。小規模サイトの、流動しやすい日間ランキングとはいえ、転生直後のSには強い自信を与える成果であった。

 その後も短編中心に順調に読者を集め、コンテスト形式の自主企画で好成績をおさめ、サイト公式の短編コンテストで入賞もした。1年経った頃には公募も始め、こちらでも短編で2回入選している。

 手応えを得たSは、転生から約2年後、追加で大手投稿サイトのアカウントも作成した。現在は、そこの大規模コンテストへ向けて短編を書いている。内容は、転生前の自分の失敗について語り、同じ轍を踏まないよう警告するノンフィクションエッセイである――



 もうおわかりだろう。

 これを書いている筆者は、Sの転生体である。



 本話冒頭に「女神に会ってチートスキルを貰ったわけでもない」と書いたが、よくよく考えればそんなこともなかった。

 うどんの女神には会ったし、現在も日々お世話になっている。

 チート能力は貰っていないが、異世界で役立つ前世スキルは多少持ち込んだ。締切までに意地でも原稿を仕上げる根性と瞬発力、目標日に合わせてスケジュール立案し作業を進める計画性、完璧主義に陥りすぎず原稿を世に送り出す胆力、なにより「書籍化? 書籍なら60冊以上自力で作りましたが何か?」と涼しい顔でいられる経験値、などなど。

 前世の積み上げのおかげで、私は異世界で楽しく過ごせている。

 とはいえ「死」の痛みは、そろそろ3年経つ今も癒えきっていない。古傷を抉るような発言が流れてくれば心はざわめくし、これを書くために昔のツイート履歴を掘り返すのは少々……いや、とても堪えた。例のnote記事は見返した時ディスプレイを割りたくなった。



 なぜ私は「死んだ」のだろう?



 転生後、己の「死因」は折に触れて考えた。特に転生直後は、ここで同じ事態を繰り返したくないと、懸命に根本原因を探った。けれど思い浮かぶどの理由も、決して軽くないとはいえ、決定打としては弱かった。

 読まれなかったから? いや、多くはなくとも読んでくれる人はいた。

 周りと比較してしまったから? いや、それはとても大きかったけれど、Web移行後は周りの数値など見ていなかった。

 技量を馬鹿にされたから? いや、とどめの一撃はこれだったけれど、そもそも自分に向けられた言葉ではない。精神的な体力が十分なら跳ね返せたはず。

 決定的な確証を得られないまま、月日は流れていった。だが、最近になってふと思い当たった。



 私が壊れたのは「作品で殴ろうとした」からではなかったか。

 そう考えれば、すべての要因が線で繋がる。



 あの漫画家のコラムを明確に覚えていたわけではない。けれど似た言説はあちこちから聞こえていた。

 私自身、「死ぬ」少し前にこんなことを呟いていた。


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今でも「数値的なものが悪いのは自分に力がないから」ってのはずっと思ってるけども。

力があれば嗜好から外れたものでもねじ伏せられるだろうとは思ってるけれども。

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 好きなものを好きに書いているつもりだった。

 けれど今思えば、前世の私は、己の好きなもので己の嫌いなものを殴り飛ばしたかったのだ。

 作品で殴ろうと、全力を自作に籠めた。けれど振るった拳は当たらなかった。読んでくれるのは、既に自作を好んでくれている人ばかりで、殴りたい相手には見向きもされなかった。認識さえされなかった。だからこそ病んで壊れた。


 けれどそれは当たり前だ。

 世の中には創作物があふれている。そして読み手はそれぞれが、好きな傾向・嫌いな傾向を持っていて、好きな物を読み、嫌いな物は読まない。当然だ。読書は娯楽であって、仕事でも修行でもないのだから。

 そして読まれなければ、作品に籠めた何かが伝わることも、物理的にありえない。

 最初から不可能だったのだ。「作品で殴る」ことなど。


 さらに悪いことに、無意識にでも「作品で殴る」が目的になると、既に支持してくれている方々の存在が見えなくなる。

 自傾向を嫌う、または関心のない人がターゲット層になってしまうため、自作を愛してくれている読み手や仲間が意識できなくなる。そこからの賞賛や応援が、自分の中に落ちてこなくなる。

 けれど先述のように、自身にとって興味も関心も湧かないものに、人は手を伸ばさない。そこからの賞賛を求めても、得られるはずがないのだ。

 けれど前世での私は、得られる可能性のない反応ばかりに焦がれ、既に得ていた支持を意識の外へと追いやってしまっていた。本の頒布部数を数えるとき、ごく自然に、何の疑問もなく、仲間内での部数を抜いて考えることさえやっていた。



 思えばいつも、私はひとりではなかった。

 本の売り上げは、少ないとはいえゼロではなかった。鬱屈を吐き出せば誰かがDMをくれた。長文の感想を受け取ることも時折あった。

 だのになぜ、私はああも孤独だったのだろう?

 手応えがないと思っていたのだろう?



 殴るべき相手しか見えなくなる、差し伸べられた手が視界から消える……それが、「作品で殴る」の真に恐ろしい罠であり呪いなのだ、と今は思う。

 私は、自作を読みにくるはずのない相手に向けて書き、制作コストを費やし、技量を磨き、その他あらゆる労力を費やした。そして、成果がないことに苦しみ壊れていった。

 わかってみれば、あたりまえのことだ。潰れて当然だ。むしろ、よく何年もこれで持ったものだ。



 これを読んでいる書き手の方へ。どうか私の轍を踏まないでほしい。

 なにかを書く時は、あなたが好むものを好む人へ向けて書いてほしい。

 あなたが嫌うものを嫌う人でもいい。

 けれど「あなたが好むものを嫌う人」「あなたが嫌いなものを好む人」を殴ろうとはしないでほしい。その拳が届くことは、決してない。

 たとえば「主人公最強ばかりで嫌だなあ」を原動力とするなら、同じく、主人公最強ばかりで嫌だなあと思っている人のために書いてほしい。主人公最強が好きで楽しんでいる人を、殴って改心させるために書くのはやめた方がいい。そういう人たちは、あなたが書いたものを読みには来ない。来る理由もない。そして、あなただけが削られていく。

 既にいる読者だけに甘んじろ、というわけではない。まだ見ぬ同志へ届けるための工夫や宣伝は必要だ。

 けれど、探すのは「同志」であってほしい。拳を振り下ろす先は、求めない方がいい。



 転生後最初に書き、幸いにも日間ジャンル1位の好評を博した作品について、サイト上でこう言ってくださった方がいた。


「作者様の好きなものが好きな人は一定数いると思うので、その道を突き進んでください! 自分の好きなものを書いて、誰かに突き刺さるというのはとても素晴らしいことだと思うのです」


 当時とても勇気づけられたし、安らげる居場所を得られたように感じたけれども……いま考えれば、転生後の道程において、この言葉はもっと大きな意味を持っていたように思う。

 私はこの時、握りしめていた拳を解いたのだ。

 だからこそ、いま生きている。3年の間、死ななくてすんでいる。



 何度でも繰り返す。

 作品で人を殴ってはいけない。

 そもそも物理的に殴れない。空を切った拳はあなた自身を削る。


 殴るためではなく、握手するために書いてほしい。

 いちど自分を殺した人間が、言えることはそれだけだ。



【了】

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