第47話 涙

「絶対アテナよ。私、確認してくる」


 クリスがスコップを投げ出して駐車場に走る。


「あいつ、死体を見過ぎて頭がいかれちまったな」


 ブロスが言った。


 その時、カールのスマホが鳴った。見知らぬ番号からの電話だった。手の甲で額の汗を拭い、それに出た。


『カール、久しぶりだな。ドミトリーだ』


 彼の声が弾んでいた。


「大統領……」


 あまりの驚きに喉がつまった。


『良い知らせがある。アテナが生きて戻った』


「まさか……」


 からかっているのか?……苦いものが胃袋から逆流してくる。


『嘘や冗談で言えるものか。私も今日、会って驚いたよ。トロイアから車で戻った。4日もかかったらしい。挨拶をすると、直ぐにそっちへ向かった。もう、つく頃だ』


「どういうことです?」


 納得しかねた。尋ねながら、クリスを目で探す。彼女の運転するトラックが、駐車場を出たところだった。教会の方角に向かっている。


『秘密警察のユーリイという高官に助けられたそうだ』


「しかし、動画が……」


『処刑の動画はアテナを守るためのフェイク動画だったようだ。彼女も注射の影響で正確なことは覚えていないそうだ。おそらく麻酔のようなものだったのだろう。秘密警察の高官が、イワンの目を欺くために、死んだことにしたうえで自宅にかくまってくれたらしい……』


 ドミトリーがアテナに聞いたことを説明して電話を切った。


「アテナが生きているそうだ」


 カールは叫びたい気持ちを押し殺してブロスに話した。


「なんだって! それじゃクリスが見たのは?」


「本物のアテナかもしれない」


「行こう、カール、ミハイル」


 ブロスがスコップを投げ捨て、トラックに向かって走り出した。彼をミハイルが追った。


「仕事中だぞ!」


 2人にそんな声をかけたものの、カールも踊りだしたい気持ちを抑えられなかった。ブロスがエンジンをかけたトラックの荷台に駆け上がった。


 車が動き出してから「どこに行けばいいんだ?」と荷台と運転席をつなぐ窓からミハイルの声がした。


「おそらく……」ドミトリーからは、そっちとしか聞いていない。クリスが向かった方角を思い出した。「……教会だ。丘の上の教会に行け」


「了解!」


 トラックが勢いよく走りだし、カールは尻餅をついた。


 教会へは5分ほどで着いた。そこに住むふた家族は、数少ないミールの生存者だった。他の住人は、別の街へ避難したか、殺されて土の中にいる。駐車場には、2組の家族の車の他に、SUVとクリスが乗って来たトラックが並んでいた。


 カールが荷台から飛び降りて建物に向かうと、ちょうどドアが開いて中から制服姿の女性兵士が2人、出てくるところだった。


 間違いない! アテナだ。……カールは眼を見張った。


 きつい遺体確認作業の反動だろう。懐かしいアテナに並ぶクリスは、子供のようにはしゃいでいた。一方、愛娘と両親の墓を訪ねに来たアテナは引き気味で、半笑いだった。その肌は血色もよく、フチンに出向く直前よりも健康に見えた。秘密警察の高官にかくまわれている間、丁重にもてなされていたのだとわかる。


 アテナがピロティ―に出たところで視線が合った。2人の足は、その場で地面に釘付けにされたように止まった。視線だけが熱く絡まりあう。


 アテナ、お帰り。……カールの声は音にならず、頭の中でグルグル巡っていた。


「アテナ、生きていたのか! 幽霊じゃないよな?」


 声にして彼女を抱きしめたのはブロスだった。


「だから、生きているって言ったでしょ」


 クリスの得意げな声がカールの鼓膜を打った。


「ちゃんと生きていますよ」


 アテナが胸をトンと叩いてみせた。それから視線をカールに向けるとしっかりした足取りでやってきた。


「隊長、アテナ2等兵、帰国しました」


 彼女が真顔で敬礼した。


「君は、上等兵だ。名誉の戦死で、2階級特進した」


 カールは敬礼を返した。


「死んでいません。降格でしょうか?」


「わからん」


 そう答えて彼女を抱きしめた。腕の中で、彼女の細い身体がギュッと固まるのがわかった。


「すまない……」抱きしめた腕を離した。「……ご両親と、娘さんに会いに来たのだったな」


「……ハイ。でも、どこに眠っているのかわかりません」


 彼女が潤んだ瞳を連なる十字架の列に走らせた。


「やはりそうか」


「神父さんがみつかれば、墓の場所がわかると思うのですが……」


「残念だが、聞いたところによると、神父はフチン軍に意見して殺されたようだ。まだ、彼の遺体も見つかっていない」


「そうでしたか……。おいたわしい……」


 彼女は振り返り、教会の十字架を見上げて手を合わせた。


「あの車はフチンのナンバーだけど、どうしたの?」


 クリスが、彼女の乗って来たSUVを指差した。


「秘密警察のユーリイという方に頂いたのです。ユウケイの復興のために使ってほしいって」


「車ぐらいでどうにかなるものでもないでしょ」


「車以外にもいろいろもらったのよ。金の延べ板とか株券とか。数百万ドルになるだろうって……」


「そうなのか? 豪勢だな。俺にも見せてくれ!」


 ブロスが、自分がもらったかのように喜色を浮かべた。


 アテナは苦笑した。


「ごめんなさい、ブロス。金や債券は大統領に渡してきたわ」


「なーんだ。残念……」


 クリスとブロスが肩を落とす。


 カールはコホンと咳払いをひとつした。


「クリスもブロスもはしゃぎ過ぎだ。家族を探すアテナの気持ちを考えろ」


「そうか、ごめんね」


 クリスが謝ると、アテナが微笑んで首を振った。


「いいのよ。深刻にならない方が、私は助かるわ」


「ありがとう」


 それからクリスとブロスの態度は控えめになった。


「教会の庭に埋まっている十字架には名前が記されたものが多いそうだ。おそらく早い段階で、街の人の手によって葬られたものだ。そこから探してみてはどうだ?」


 ミハイルが教えるとアテナの瞳が光った。それが希望というものだろう。


「さっそく、いいですか?」


 彼女が目線を十字架の林に向けた。


「いいとも。私たちも手伝おう」


 カールは応じ、彼女の家族の名前を聞いて教会の庭に並ぶ十字架に向かって歩いた。


 すべての墓には、献花した形跡があった。が、どれもすっかり枯れていた。いくつかの十字架には親族が捧げたであろう顔写真の入った額や思い出の品が掛けてあった。そうした写真や思い出の品は数か月の風雨で傷んでいた。新たな写真や花が供えられていないのは、埋葬者の親族も、すでにこの世にいないからなのかもしれない。


 5人は手分けして墓を見て回った。多くの十字架には名前が刻まれていたが、弾痕で読み取れないものや、ペンキで書いた文字がはがれて読み取れないものもある。元々名前のない十字架は、身元のわからないものだろう。


「ないわね」「これも違う」「ないな」「これは名無しかぁ」


 教会の南の庭に並んだ墓を全部みてまわってもアテナの家族のものはなかった。


「ここにはないようです」


 アテナが額の汗を拭いた。


「名前のない墓がそうなのかもしれないわよ」


 クリスが慰めるように言った。


「それは、私の家族のものではないわ。絶対に」


 アテナは断言した。


「わかるの?」


「この辺りの墓が作られた頃、神父はまだ生きていたと思います。写真を掛けたり、花をあげたりする余裕があったのだもの。神父が、私の家族の名前を十字架に刻まなかったとは考えらない」


「なるほどな」


 ブロスが応じ「少し休もう」と提案した。


 5人は大きなもみの木の木陰に入って水筒の水を回し飲んだ。すっかり温くなって美味くはなかったが、そんなことにはみんな慣れてしまっていた。


 アテナが「神はいるのでしょうか?」と青い空を見上げた。家族を思っているのに違いなかった。


「いるさ」


 カールは答えた。こんな風に辛い時こそ、頼りになる神はいなければならないと思った。


「それならどうして、イワンはこんなことができたのでしょう?」


 彼女は視線を大地に戻した。十字架の林立する大地に……。


 カールがどう応えるべきか逡巡しゅんじゅんしていると、ミハイルが先に口を開いた。


「神はいるが、悪魔もいるからだ」


 アテナは少し驚いたような表情で彼に顔を向けた。


「そうですね。どんなに辛くても、悪魔の誘惑に負けてはいけない……」


「終わったわ!」


 突然、スマホをいじっていたクリスが大声を上げた。


「何が終わったんだ?」


 ブロスが彼女のスマホに目をやった。


「戦争よ。平和条約の条件が確定したって。調印は10日後らしいわ」


「そうか。ドミトリー、喜んでいるだろうな」


「ああ、そんな声だった」


 カールは、数時間前に聞いた彼の声を思い出した。


「政治は、私たちを置き去りにしていくのね」


 アテナが木の葉を拾い、指先でもてあそんだ。


「結局、何のための戦争だったんだ? 戦争で誰が得をしたというんだ?」


 ブロスが空に向かって言った。まるで、神に疑問をぶつけているようだ。


「戦争で得をする者なんていないさ。兵隊だって市民だって沢山死んだ。ユウケイの国土は荒れ果て、フチン経済だってボロボロだろう。戦争を始めたイワンだって、結局死んでしまった」


 カールが言うと、「ドミトリーは?」とクリスが訊いた。


「確かにこの戦争で、彼は国の内外から大きな支持を得たわ。私だって戦争前はドミトリーに失望していたけれど、今は信頼している。次の選挙でも彼に投票する。でも、戦争をしている3カ月間の苦悶に満ちた顔を見たでしょ? いつ倒れてもおかしくないと思ったわ。もしそこで死んでいたら……」


 アテナが顔を歪めた。亡くなった自分の家族を思い出したのだろう。


「しいて言うなら……」ミハイルが口を開いた。「……ライス国民だな。聞くところによると、インフレになるほどの武器特需らしい」


「武器で儲けても、インフレになっては得をしたとは言えないだろう。武器産業に従事していればボーナスも出るだろうが、そうでなければ生活苦に陥るだけだ。……考えてもみろ。イワンがセントバーグへの核攻撃を実行していたら、世界的な核戦争になったかもしれない。その時、フチンの核ミサイルの多くはライスに向かうはずだ。国が廃墟になるリスクを抱えていたのだ。多少の利益など、そのリスクには見合わないと思うが……」


 カールは迷いながら話した。国民としてはリスクを負ったわけだが、軍需産業そのものは、それを負ったのだろうか? リスクを負った人間と利益を得た人間は別なのかもしれない……。


 アテナが立ち上がり、仲間を見回した。


「皆さんは疲れているでしょうから、休んでいてください。私、東側の墓を見てきます」


 そう言うと、「私も行く」「俺も」とクリスとブロスが立ちあがり、カールとミハイルが残される形になった。


 カールは、アテナの背中を目で追いながら、せめて家族の墓ぐらい見つけさせてやってくれ、と神に祈った。


「本当にいるのか?」


 ミハイルが言う。


「何が?」


 カールは彼に眼を向けた。


「神さ。もしいるのなら、こんなに多くの命を一気に召し上げるものかな? そんな必要はないだろう」


「それは悪魔の仕業だと言ったのはミハイルだ」


「アテナの手前そうは言ったが、もしそうなら、神が悪魔に敗けたようなものじゃないか……。この景色を見てみろ。街ひとつが、墓の中だ」


 怒ったように言いながら、彼が立ちあがった。


「一度はイワンの手に落ちたアテナが生還した。ミールもユウケイに戻った。神が守ってくれたのではないか?」


 そう話しながら立って、東側の庭に向かって歩き始めた。


「カールは思ったより信心深いのだな」


「まさか。ミハイルが悪魔を持ち出したからだ。ただの言葉遊びだ」


 この数か月間、目の当たりにし、経験したのは絶望や地獄だ。どれだけ多くの命が失われ、家族が崩壊し、文化や技術が失われ、世界中から多くの富が消え失せて自然が破壊されたことか……。全能の神がいるのなら、フチン軍が戦争を始める前の平和な世界に戻してほしい。……胸の内で神に言った。


 2人が東側の庭に入った時、アテナたちは何かに向かって走っていくところだった。


「何があった?」


 カールとミハイルは顔を見合わせてから、彼らのもとに向かって足を速めた。


 アテナがひとつの十字架の前で足を止める。それには、灰色のリュックサックが掛けてあった。今にもばらばらになってしまいそうなぼろぼろのリュックサックだ。彼女はそれに気づいて走ったらしい。


 アテナが恐る恐る手を伸ばし、そっとリュックサックを外した。それから凍ったようにじっとそれを見ていた。左右のクリスとブロスも、何かを待つようにただ突っ立っている。


 カールは、クリスの背後からリュックサックを覗き込んだ。それがぼろぼろなのは、風雨にさらされたからだけではなさそうだった。色も、元々は灰色ではないようだ。開いた穴も色も、すべて爆発の熱がそうしたものらしい。穴から〝キティーちゃん〟の無表情な顔が覗いていた。アテナがそれに向かって走った理由がわかった。


「それは?」


 ブロスの背後からミハイルが訊いた。


「娘のマリアのものです」


 声にして初めて、彼女の心の封印が解かれたようだった。アテナはリュックサックを懐に抱きしめて泣き崩れた。


 彼女の答えを待つまでもなく、十字架にはマリアの名前が刻まれていた。


 クリスが彼女の肩に手を置いて一緒に泣いた。


 ブロスが並んだ十字架にアテナの両親の名が刻まれているのを確認したが、彼女にそれを話すことはしなかった。彼女の様子を一瞥した後、ただ、彼女の父親の墓の前に座り込んだ。


 カールとミハイルは更に離れた場所に移動し、アテナが気のすむまで泣くのを待つことにした。


「アテナが泣くのを始めてみたよ」


 ミハイルが言った。言われて初めて、カールはそのことに気づいた。彼女は泣かなかったのか、あるいは人前ではそうしなかったのか、考えてみた。


「やっと彼女の戦争も終わったな」


 ミハイルの意見には賛成できなかった。いや、彼の言う通りになって欲しくないと思っているのかもしれなかった。胸が焼けるように痛んだ。


「アテナは除隊するかな?」


「それはないだろう。少なくともミールの遺体収容が済むまでは、俺たちと働くさ」


「それが済んだら、静かな人生が始まる。家族を失った生活は、戦争の記憶を上書きするものにはならないだろう。イワンの戦争が終わっても、アテナの戦争は終わらない」


 カールは自分の考えを言った。


「ああ、イワンの戦争が終わっても、復興という戦争が始まるのだ。だが、彼女はひとりじゃない。俺たちが家族になればいい。カールはそうするつもりなのだろう?」


 ミハイルの大きな手が、カールの肩を握った。


 アテナに眼をやる。涙にくれる姿が、とても神々しいものに見えた。

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大統領の戦争 明日乃たまご @tamago-asuno

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