6-1 旅するエリク家

●本編「6-1-2 旅するエリク家」

https://kakuyomu.jp/works/16816927860525904739/episodes/16817139557045186299

の、改稿前バージョンがこちらです。




「見てっ」


 手に手を取ってノイマン家の玄関を出ると、ランが指差した。


「ひ、ひいーっ!」


 腕と体をぐるぐる巻きに縛られた男が、月明かりの中、走って逃げている。


「お兄様……」

「そういや、コルンバのこと忘れてたわ」

「三階で縛られてたんだよ、マルグレーテちゃん」

「目隠し、よく外せたな」


 まあ縄だけは外せなかったようだが、なんとか立ち上がり、逃げ出したってわけか。逃げ足だけはあるってのは、考えてみればコルンバらしいわ。


「馬に乗って逃げる気なのかな」

「いえ、ランちゃん……」


 マルグレーテは、溜息を漏らした。


「お兄様は馬がお嫌いです。臭いと言って。馬もそんな気配は読み取るので、お兄様の命令には従わないでしょう」

「だよな。それに縛られてるから、乗馬は物理的にも無理だわ」

「曲がりなりにもエリク家の嫡男ともあろうお方が、情けのないお姿……」


 悲しげに、マルグレーテは眉を寄せた。


「あいつのことは忘れろ、マルグレーテ。もう陰謀は全て明らかになった。これからどこに逃げるにせよ、コルンバが家に顔を出せるはずもない」

「そう……ですわね」

「わあ、いかづち丸たちが迎えに来てくれたよ」

「ぶるるるるっ」


 俺達の姿を見て取ったのか、馬三頭が駆け寄ってきた。嬉しそうに。


「よしよし。待たせたわね、スレイプニール」


 スレイプニールの鼻面を、マルグレーテは撫でた。


「帰りましょう、我が家に。わたくしを救ってくれた、英雄モーブやランちゃんと共に」


 ひらりと跨る。


「ああ、わたくし、気持ちがいい。……やはりわたくしは、家に閉じ込もる貴族生活より、モーブやランちゃんと冒険する、外での毎日が好き」


 俺の目を見て。


「戻りましょう、モーブ。そして……全て、お父様お母様に説明しなくては」


           ●


 ひと晩かけて、エリク家領地まで駆け戻った。朝方駆け戻ってきた愛娘に、母親は抱き着いた。貴族の妻というのに、誰はばかることなく涙を流して。これまであなたにだけ苦労を押し付けてごめんなさいと謝って。


 泣きながら抱き合うふたりを見て、父親は口をきっと結んでいた。そして俺の前まで来ると、礼を言いながら手を差し出した。父親の手を、俺はぐっと握ってやった。


 ひと休みしてからその夜は、時ならぬ大宴会となった。ノイマン家自体が幻の存在で、実態はゴーレムの巣窟であったこと、連中は全て倒したこと、そしてコルンバはゴーレムの手先に成り下がっており、どこともなく姿を消したこと――。俺達の説明に、両親は驚きを隠さなかった。


「これでマルグレーテの婚姻契約は無効ですね」


 俺が念押しすると、父親は頷いた。


「もちろんだ」


 うまそうに、葡萄酒を飲み干す。


「相手が人間でない以上、婚姻という法的定義の対象外だからな」

「マルグレーテは、これでまっさら。法的にもきれいな体のままですよ」


 嬉しそうに、母親も付け加えた。気のせいか、俺に向かって言ってくれたようにも聞こえる。


「婚姻契約自体が無効なんだ。別に離縁とか婚約破棄という話じゃない。支度金返還の義務はありませんね」

「モーブ殿のおっしゃるとおりだ」


 俺の意見に、父親が同意した。


「あの資金は、我が民草のために用いよう」

「そもそも、返す相手自体がもういないもんね」

「そうね。ランさんの言うとおりね」


 母親も楽しそうだ。


「ラン様、食後のケーキはいかが」


 テーブルサイドで世話を焼くブローニッドさんも、今晩は楽しそうだ。さっきからずっと、にこにこと微笑み続けている。


「わあ、いいんですか」

「たんと召し上がれ」


 ブローニッドさんが目配せすると、エリク家たったひとりの料理人、ヨーゼフさんが、サーブトレイの上のフルーツケーキを切り分け、皿に取って蜂蜜を掛けた。


「ランお嬢様、お待たせしました」


 サーブしてくれる。


「わあ、素敵。いい香りですね、これ」

「へい。今晩は特別のお祝い。マルグレーテお嬢様が嫁がれる日のつもりで、腕によりをかけやした」

「ヨーゼフ、縁談の話はわたくし、もう御免だわ」

「これは失礼いたしやした、お嬢様」


 テーブルを気楽な笑いが包んだ。


「それに、ノイマン家領地の人々のことがあるわ」


 食後のケーキのフォークを置くと、マルグレーテはナプキンで口を拭った。


「ノイマン家がモンスターであったと判明し、今は管理者が居なくなっている。移動裁判所に沙汰を仰いで、エリク家で一緒に管理して差し上げてはどうかしら」

「そうだな、マルグレーテ。さっそくそうしよう」


 父親はうんうん頷いている。


「頭が良くて決断力のある、いい子に育った。私自慢のひとり娘。さすがはエリク家嫡女だけある」

「お父様、それですけれど……」


 改めて、マルグレーテは背筋を伸ばした。


「エリク家を離れさせて下さい。よろしくお願いいたします」


 頭を下げた。


「わたくしは、ヘクトールで多くを学び、モーブやランちゃんという、生涯の友とも出会いました。わたくしの心は、荒野を見ています。冷たい風がびゅうびゅう吹き荒れる荒野を。わたくしの魂に挑んでくる荒野を」

「ふむ……」


 父親は黙ってしまった。ブローニッドさんが注いだ香り高いお茶を、静かに味わっている。


「お父様、お願いします」


 重ねて、マルグレーテが頭を下げた。


「勘違いするでない、マルグレーテ」


 苦笑いしている。


「反対などしておらん。ただ感慨に浸っておったのだ。……野の猫を追っては転んで泣いておった我が娘が、これほどたくましくなったのかと」


 ちらと俺に視線を投げる。


「はて、誰のおかげかな……」

「お兄様も居ない今、エリク家を後にすることには、大きな心残りもあります。ですが――」

「気にするな、マルグレーテ」


 父親は、マルグレーテの瞳を見つめた。


「コルンバはどちらにしろ廃嫡だ。だからといって、今さらお前に重圧を押し付ける気はない。……なに私も年寄りではない。まだ十年や二十年、最前線で領地を経営してみせるわ」

「お父様……」

「エリク家領地はモーブ殿のご尽力で、地力を回復した。宙に浮いた巨額の支度金もある。それにおそらく、ノイマン家領地が編入される……。エリク家は、これから第二の黄金時代を迎えるのだ」


 力強く言い切った。


「これほどやりがいのある時代はない。男として、心が躍るわ」


 瞳が輝いている。


「それに私の体力が落ちる二十年後には……」


 マルグレーテを見て微笑んだ。


「お前の子が事業を引き継いでくれるやもしれんしな」

「わ、わたくしの……子供……」


 マルグレーテの頬に、さっと朱が差した。もじもじと、左右の太腿をこすりつけるように動かしている。


「赤くなるな。それも冗談だ」


 父親は、豪快に笑った。


「お前の人生だ。好きに生きるがよい」

「お父様……」


 マルグレーテの瞳から、すっと涙が落ちた。


「あ、ありがとうございます」

「それに勘違いしてはいけませんよ、マルグレーテ」


 マルグレーテ同様、母親も背筋をきちんと伸ばし、膝の上に手を乗せている。


「ここがエリク家なのではありません。指輪を継承したでしょう。あなたの行くところ、そこがエリク家なのです。エリク家とは領地や家屋のことではありません。エリク家嫡女の赴く場所、そここそが真のエリク家なのです」

「お母様……」

「あなたの人生、そしてエリク家は、その指輪の相手と共に旅するのです。この屋敷はね、もはやエリク家ではないのよ、マルグレーテ。ここはね……」


 優しく微笑んだ。


「いつの日か、あなたや連れ合いのお方がなにかに疲れ切ったとき、魂を休めに戻る、ふるさとですよ。あなたはエリク家に戻るのではない。あなたを包んでくれる、森と泉の優しい自然に抱かれに帰るのです」

「あ、ありがとうございます。も……もったいない。わたくしにはもったいなさすぎるお言葉です……」


 涙がぽろぽろとこぼれた。母親の瞳にも、ランの瞳にも、涙が輝いている。ブローニッドさんやヨーゼフさんまで、もらい泣きしている。ヨーゼフさんなんか意外に涙もろくて、コック服の袖はもうぐしょぐしょに濡れている始末だ。


「さあ、まだ夜も早い。もう少し聞かせておくれ。お前やモーブ殿、ラン殿の冒険の数々を」

「はい、お父様……」


 ナプキンで涙を拭うと、マルグレーテは話し始めた。あの懐かしい、夏の遠泳大会のことを――。



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