第三章――子供たち①――

 吹雪は数日間続いた。数歩先の足元も見ていられなくなるような、叩きつけるような豪雪で、瞬くたびに凍ったまつげがばしばしとくっつきあった。

 子供たちはその日々を馬の天幕と洞窟、川への水汲みの移動にのみ費やした。その移動には必ず、フェンリルが伴った。

 わずかに、風の流れを逸らすだけでも移動が楽になる。フェンリルはほぼ天幕のほうで馬と眠った。

 彼らは息をひそめるように身を寄せて、吹雪が止むのをひたすら待った。

 これだけ吹雪くのは天王様が春の訪れを急いでいるためだと、誰かがそう、呟いた。トルヴァだったか、ヘルガだったか。春の嵐の前触れだろうと。

 だから風の音を恐れることはないと、怯えるロッタに語りかけたのだった。

 吹雪が止んだと気づいたのは、うつらうつらしていたフェンリルが馬に危うく蹴り殺されそうになった時だ。

 地を駆けるための獣は天候の変化に敏感であり、この閉ざされた吹雪の日々に誰よりもうっ屈していた。

 目をこすりながらフェンリルが天幕を出ると、凍てつく暴風はすっかり鳴りを潜め、いつぶりか、山間から朝日が昇っていた。

 太陽の丸い姿がはっきりしてくるにつれ、薄暗い灰色の空が、峰々が、滲んで赤く染まりゆく光景にフェンリルは瞬いた。

 なんて鮮やかな日の出だろう。


「……燃えているみたいな朝日だ」

「朝焼けではない」


 ふと、漏れ出たひとり言に答える者がいて、フェンリルは振り返った。

 洞窟の入口に誰かが立っていた。濃い群青の色が映える、帽子付きの長い外套を目深にかぶっていて、顔を窺うことができない。

 声は男のものである。首には、琥珀玉をいくつも連ねて下げていた。

 琥珀玉の首飾りは成人の証だが、多く身につけている者程、家族やたくさんの信頼、偉い立場にあるという証明でもあった。


「じいさん?」


 老人が琥珀玉を身につけているところなど見たことはなかったが、フェンリルは呼びかけた。すると男は応えるようにこちらに向かって歩みより、そのまま横を通り過ぎた。

 かた雪なのか、男の歩いた雪の上には足跡が一切無い。裾を引きずる外套の衣擦れの音すら、雪に吸い込まれたようだ。

 男はすーっと燃える空を指差した。


「あれは黄昏だ。燃え落ちる寸前の、太陽なのだ」

「たそがれ?」


 聞きなれない単語をフェンリルが繰り返すと、男はこちらへ向き直った。


「アースガルド。そして、ヴァナヘイムの火だ」


 全ての天の民ヴィトにとって、失われた故郷である楽園に続いたその名前に、フェンリルは目を見開いた。

 ヴァナヘイム――天へのきざはし――。しばらく聞いていなかった。


「知っているのか、ヴァナヘイムを」


 もはや、忘れ去られた名だ。大きな集落だった。老人も子供も大勢いた。

 夏にも冬にも、別の野営地へ移動する必要は無かった。……そうだったはずだが、もはや鮮明に思い出すことができない。

 楽しい事も嬉しい事も、たくさんあったはずなのに。

 フェンリルに残されたものは苦痛だけだった。大切なもの全てが無慈悲な炎に飲み込まれたあの日、フェンリルは知ったのだ。

 天の民ヴィトとは神に見捨てられどこへも行けず、地を這うばかりの存在なのだと。

 そしてこうも思った。

 この世には喜びながら理不尽をぶつけてくる相手がいて、地の民アマリはその筆頭。

 ――敵なのだと。


「知っているとも、覚えているとも。ディアの三子、お前のことも」

「……そんな奴、もういない。おれは、イル=フェンリルだ」


 フェンリルは毛皮の胸元を握りしめた。とうの昔に塞がったはずの傷が、痛むような気がした。


「あの火は、お前達の流した血で燃えている。だが、わたしが見たいのはこれではない。――これでは足りぬ」


 労るとも、懐かしむともとれる調子だった男の声色が、突然がらりと変わった。

 まるで地の底から絞り出されたような低くて太いその声は、隠しようのない怒りに満ち満ちており、フェンリルは思わず後ずさった。



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