第三章――子供たち②――

「お前は誰だ」


 今頃になってフェンリルは目の前の男を警戒した。老人でないことは、もう明らかだったが、何をのんびりと会話を続けていたのだろう。

 そう、何か親しみがあった。良く知った誰かであるように錯覚したのだ。フェンリルは腰の短剣に触れた。

 男は良く見せるかのように、手のひらをフェンリルへ向けながら伸ばしてきた。静まっていた風が再び吹き始め、男の外套と帽子が、ばたばたと音を立てて揺らめく。

 きらきらと舞った細かな雪はそのひと粒ひと粒が赤く映え、火の粉が爆ぜるようだった。

 自分に向けて開かれたその青黒い手に、フェンリルはぎょっとした。凍傷で腐った肌の色である。

 そして帽子がひるがえり、顕わになった男の顔。

 逆光の中の、その顔。


「わたしは見たい。アマナの血のように赤い、黄昏が」


 唸るように男は言ったが、フェンリルは、男がどうやって声を発しているのかわからなかった。

 男には顔が無かったのだ。正しくは首が。

 あるべきはずの首の根元は、乱雑に砕けた白い骨のまわりを、腕と同じ色の肉が覆っているだけ。

 じわりと、むきだしの骨の根元から赤黒い物が滲みだしたかと思えば、男の外套を一瞬で足元まで染め上げた。滴るようにおびただしい量の血である。

 生きているはずがない。

 なのに首無しの死体はそれでも歩いた。

 あまりのことに動けないでいると、そのまま男の手がフェンリルの顔を覆うように迫ってきた。

 そして―――



「フェンリル!」


 肩を揺すられて、フェンリルは目を開けた。ぼんやりとした視界に、良く見知った顔が入る。

 眉間にしわを寄せているその顔を見て、何をそんなに怒っているのだろうとフェンリルはおかしくなった。

 

(きっとまた、何かいたずらされたんだ)


 彼が怒ってフェンリルを問いつめる時、大体理由は決まっていた。

 そしてフェンリルがその固帽を担いでいるか、いたずらっ子の隠れ先を知っていると思いこんでいるのだ。


「……ヘイルのことなら、おれは知らないよ。ヴィーダル」

「はぁ?誰だそれ?」


 呆れたような声に、フェンリルはまばたきした。


「どうした、トルヴァ」

「それはこっちが聞きたいよ」


 トルヴァは掴んでいたフェンリルの肩を、ぱっと放した。

 支えを無くしたフェンリルはそのまま雪に埋もれた。口に入りこんだ雪を、白い吐息と共に吐き出しながら空を仰ぎ見ると、乳白の雲ごしに太陽が昇っているのがわかる。

 眩しさに涙が滲む目を覆い、そのまま雪の上で身じろいだ。


「起こしに来てみたらこれだ。雪に埋もれかかってたぞ。外まで寝転がるとかどんな寝相だよ」


 呆れ顔のトルヴァに、フェンリルは、自分が天幕の外にいることに気付いた。全身が冷え切りこわばっている。

 乾いてひび割れたくちびるをひと舐めすると、血の味がした。


「今日は久しぶりに晴れるぞ。朝日を見たから……変な夢も見た」

「そりゃあ良かった。変な夢って?」


 フェンリルはトルヴァが差し出した腕を取り、上半身を起こした。が、すぐに力なく横に倒れた。


「覚えてない」


 あくび混じりの間延びした返事だった。


「ヴィーダルとか言う奴の夢でも見てたんじゃないか。おれの顔見てにや~としながら呼んでたぞ、気味わりぃ」

「ああ……それはおれの兄貴だよ。家族の夢でも見たのかな……前から時々思ってたんだ。トルヴァが俺の弟だったら、ヴィーダルと似ていたかもしれないって……色が一緒だし。だからだ、間違えた」


 トルヴァは、ぶつぶつとぼやくフェンリルの顔を覗き込んだ。

 とろんとまどろむその目つきを見て、やはりか、と考えた。

 寝つきもそうだが、寝起きの悪さも断トツのフェンリルだった。普段ならこのようにとりとめもない話を、自分からはしないのだ。


「すでに弟みたいなもんだろ、しゃきっとしろー兄貴よー」

「おれよりでかい弟は嫌だ……縮んでくれ、可愛げがない」

「このまま雪に埋めてやろうか」


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