第一章――カザド⑦――

 このように隠された場所さえ失われるものなら、この世のどこに生きる所があると言うのだろう。この大地は地の民アマリのものであり、神すらいないのに。


(そうだった……祈る神などいないのだった……)


 絶望が音もなく、胸の内に広がりつつあった。かつては怒りではねのけてきたが、今はもう、怒りすら無意味だった。ずっと握りしめていた短剣を、カザドはとりつかれたように眺めた。

 それで何をしようという明確な意思があったわけではなかったが、のろのろと自分の喉元に、その切っ先をあてがった。

 そうすべきだという気がした。

 それしかもう、ないだろう。

 もう一度、哀れな少女へ目をやった時だった。背後で雪の沈む音がして、カザドが思わず振り返ると、雄叫びをあげた何かが飛びかかってきた。

 あわやのところで避けたカザドだったが、生温かい物を鼻先に浴びて顔をしかめた。どこか傷つけられたらしい。

 野犬か狼か、血の臭いに誘われた獣だ。  

 カザドは舌打ちし、痛みを感じるより早く、立ちあがって短剣を構えた。

 いくら望みなど無くとも、女神のしもべに与えられる死はごめんだ。腐った死肉ならばくれてやる。欲しければそれでもんでいろ。

 だが獣が跳びすさった場所にいたのは、野犬でも狼でもなかった。べたりと張り付く黒い汚れの中に混じった、差し込む様な夜明けの群青。

 そこには青い目の子供がいた。 



 それは横たわる少女よりも、もっと幼かった。まだ十にも満たないと思われる、小さな子供だ。

 体や顔は血と泥水で汚れ、衣はやっと身につけているような状態で見る影もなく、人間らしからぬ造型だったが、一目で天の民ヴィトの子供だと確信できた。

 子供はカザドに向けて頼りない細さの木の枝を構えており、らんらんと光る青い両目には敵意をこめていた。

 しかしその目には敵意以上に、恐怖と怯えが宿っていた。追いつめられた手負いの獣が精いっぱい威嚇する様に似ている。

 歯の根が合わないのか、かちかち、かちかちと、荒い呼吸の唸り声に混じって歯の鳴る音が漏れ出ていた。


「お前は……」


 カザドは我が目を疑っていた。

 すべてを確認したわけではないが、生きている者はもういないと思っていた。だがその子供が少女を背後にまわすようにじりじりと移動するのを見て、カザドは察した。

 逃げた青年の身内はもう一人いたのだ。少女のほかに、この子供が。

 カザドはその存在を確かめようと、短剣を握る腕を下げて鞘を持っていた方の手を子供へのばした。その際に手から鞘が滑り落ちた。

 同時に、子供は再び跳躍した。

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