三、視線と気配



 下の階に降りて宿の調理場に向かおうとした頃、何かの気配を感じて、黎明れいめいは後ろを振り向く。食事処も兼ねているのか、数個の机と椅子があるだけでひとはいなかった。


 丁度、店主が調理場から顔を出したので、黎明れいめいは一応訊ねる。


「俺たち以外に客はいるか?」


「いいえ。ここも少し前まではある程度の客が来ていたんだが、怪異が起こるようになってからは客足が遠のいてしまってね・・・・困ったもんですよ。ああでも食事はちゃんとしたものを出しますから、安心してください」


 温泉も傷を癒すと有名なんですよ、と店主は付け加える。話を聞くと、この宿は温泉宿で、春夏秋冬その温泉と料理を目当てに客が来ていたそうだ。今はしんとしていて見る影もないが・・・。


 それからこの村で起こっている怪異について、詳しく話を聞いた。聞き終えた頃、ちょうど料理が出来上がったようで、料理を作っていた男が膳を並べて置いた。店主は先に煎じていた、薬が包まれた紙と白湯を、片方の膳の上に置く。


「薬は疲れが取れるような漢方を煎じておいたので、食事の前にでも呑ませてあげてください」


「感謝する。食事は俺が運ぶので、気を遣わなくていい」


「そうですか。ではお言葉に甘えさせていただきます。お膳はここに置いておいてもらえれば結構ですので」


 わかった、と黎明れいめいは頷き、両手に膳をのせてそのまま二階の部屋に戻った。あの気配はなんだったのか。禍々しいものではなかったが、気になった。


 お膳を置き、神子みこが眠る寝台の横に座る。しばらく寝顔を見守っていたが、外が薄暗くなってきたのでそろそろ起こさなくてはならない。


 色のない白い頬に触れて、それからまだ腫れのひかない、自分が色づけた唇に触れた。だいぶ時間が経っているのに、つい先ほどまで口づけをしていたかのように、その部分は薄い色を浮かべていた。


 ゆっくりと開かれた虚ろな瞳が、自分に触れている指先に気付いて細められる。


「・・・足りなかった?」


 そいう冗談は返しづらい。照れ隠しなのか、時々こういう風に煽ってくる。黎明れいめいは触れていた指を離して、誤魔化すように話題を変える。


「起きられそうなら、店主が薬を煎じてくれたから吞むといい」

「うん、そうする」


 頷いたのを確認して、背中に手を添えて身体を起こすのを手伝う。膳の上から薬を取り、白湯も一緒に持っていく。手渡して吞むように促すと、大人しく口に入れ、白湯で流し込んだ。


「すごく効きそう・・・」


 苦そうに眉を寄せて、呟く。


「食事も食べた方がいい。数日、まともな物を口にしていなかったから、」


 ある程度は食べずともなんとかなるが、これから夜通しになるかもしれない調査のことを考えると、食べておいた方がいいに決まっている。


 食べながら先ほど店主に聞いた怪異の話を共有する。食事を終わらせ、膳を下げに黎明れいめいは一階に降り、指定された場所に置いた。


 部屋に再び戻ると、宵藍しょうらんはすでに身支度を整えていた。後は乱れている髪の毛を綺麗に結び直すだけのようだ。


 黎明れいめいはくるりと自分に背を向けた神子みこの髪に触れ、赤い紐を受け取ると、器用な手付きでいつもの髪型を完成させる。


「じゃあ、行こうか」


 任務の顔になって、神子みこ黎明れいめいに屏風にかかっていた藍色の衣を渡す。


「くれぐれも無理はしないで、」


 黎明れいめいの心配をよそに、ふふっと笑って返してくる。軽い足取りで部屋を出、灯の少ない道に立つ。


 幸運なことに、雪は止んでいた。肌寒さは変わらないが、視界がはっきりしているのはありがたい。


 ふたりは並んで月明かりも朧げな村の中を歩いて行く。



 しん、としている静寂の中、それ・・は音もなくふたりに迫っていた。

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