第30話 貼紙

 一ヶ月後


「百花」八月が終わろうとしている。宰相ヴァルター・フォン・グローバーの一日は、今日も慌ただしく過ぎていった。

 ヴァルターが一日の政務を終えてエンペリア城から出た頃には、もう空にはまばらに星が輝いていた。護衛とともに馬車に乗り込み、向かった先は自邸ではなくフォン・シプナー邸だった。

「灰枯の狼」の事件が起きた後、ヴァルターはハインリヒ夫妻を城に幽閉するのをやめた。以来ここを訪れるのは初めてのことだった。

 変わったことがもうひとつある。ヴァルターの隣には、常に護衛がついて回るようになった。

 自らヴァルターを出迎えたハインリヒは、護衛の顔を見るなり怪訝な顔をした。

「こんばんは、フォン・シプナー卿! 僕はダミアンと申します! ヴァルター閣下の護衛であります!」

「彼もいいかな? 呪いがしっかりかかってるから、悪さはしないよ」

「……まあ、いいだろう。入れ」

 ハインリヒにとっては嫌な記憶しかないが、いまのダミアンはまるで別人のようだ。

 ゾルマの呪いによって、ダミアンはヴァルターの護衛を命じられた。ヴァルターもそれなりに戦えるつもりだが、ダミアンがいれば百人力だ。

 ちょっとばかり強めにかけた呪いはダミアンの記憶を奪い、彼を毒気の抜けた筋骨隆々のニコニコ中年に変えてしまった。ゾルマによると「性格まで変えたつもりはない」とのことなので、これが本来のダミアンなのかもしれない。ちなみに、庭師は彼の本職で、花が大好きなのだそうだ。

 招かれた客間はフォン・グローバー邸のそれよりずっと小さくて質素だが、それゆえに家庭的な温かみもあった。妻子も親きょうだいもなく、広い豪邸でひとり暮らしているヴァルターは、この慎ましさがうらやましくもあり、また切なくもあった。

「ごめんね、こんな夜遅くに押しかけて。今日はお酒を持ってきた。しゅわしゅわするほうだよ」

 ヴァルターは手土産に麦酒ビールを携えていた。テーブルを挟んで向かい合ったハインリヒの表情はいまだ頑なだ。無理もない。ヴァルターはフランを殺した男で、裏切り者だ。そう簡単に許されるわけがない。それでも、こうして家に招き入れてくれはするのだ。ヴァルターにとってはそれで十分だった。

「ずいぶん働いているようだな、ヴァルター」

「まあね」

 ヴァルターは多忙を極めていた。王国議会の開催、有力貴族との交渉、来年の予算案の検討と食糧調達計画策定。休んでいる暇はない。ぼんやりしているとすぐに「灰枯」、すなわち食糧難の季節がやってくる。困窮した国民たちの陳情に追われる前に、やれるだけのことをやっておきたかった。

「身体は大丈夫なのか」

「正直きついよ、僕ももう年だしね。でも、どうしてもやりたいことがあるから頑張るよ」

「お前の『やりたいこと』って、何だ?」

 ハインリヒが鋭い眼差しを向けてきた。言外に含みがある。――フランを殺してまで、お前の『やりたいこと』って、何だ?

「国民がこの国の行く末を決める国を作ることだ」

 ヴァルターが答えた。

 いまのフリーゼ王国は、ごく限られた貴族しか政治に参加できない。王国議会の議員も全員貴族でほぼ世襲制だ。ヴァルターが目指すのは、議員を国民自身が選べる国、身分に関係なく国民の誰でもが議員になれる国だ。言い換えれば、貴族と庶民の区別がない国ともいえる。

「もちろん、すぐには無理だ」

 学のない庶民は政治を理解できない。教育をあまねく行き渡らせるのが先だが、この国は奇妙な気候のせいで貧しい。

 日々食べていくのが精一杯の状態を改善しなければ教育どころではない。が、現状の農業事情ではそれも困難である。

「まったく、ルドルフ公がゾルマと一緒に世界征服したくなった気持ちが分かるよ」

「ヴァルター閣下、世界征服、やるのでありますか!」

「やらないよ。やるわけないでしょ」

 ダミアンが急に食いついてくる。うかつなことは言えないものだ。ため息交じりの苦笑とともに、小さく疲労を吐き出す。

「でも、どんなに難しくても、やらなくちゃいけないんだ」

 背負った罪は消えない。街を焼き、親友だったフランメル王とその子どもたちを処刑し、ハインリヒら国王に近しい人々を城へ閉じ込め、さらにはアレックスまで手をかけようとした。多くの人を傷つけ苦しめ、命を奪ったその先にいまがある。

 だからこそ、人生を賭けてこの国を変えなければならない。

 一気に飲み下した麦酒ビールは、労働者たちに愛される大衆酒である。ヴァルターが慣れ親しんだ高級な葡萄酒に比べれば薄いうえに雑味が多い。けれどもいまは、この酒の力が必要だ。

 ハインリヒも麦酒ビールに手を伸ばした。

「そういえばハインツ、レーダとアレックスは元気?」

「ときどきゾルマの伝書鳩から手紙が届く。みんな元気に旅を続けてるみたいだ。魔女の力というのは便利なものだな」

 レーダとアレックスは、ゾルマたちとともにパルメア港から世界へ旅に出た。ヴァルターが諸々の詫びと謝礼のために、私費で旅費を工面したのだ。ゾルマが魔力で生み出した鳩によって、いまは遠い国にいる子どもたちからの手紙が瞬時にハインリヒのもとに届く。

 そのうちの一通を、ハインリヒが見せてくれた。



 お父様お母様


 僕たちはいま、ヤーパンという国に来ています。

 四季があって、八月はいちばん暑い「なつ」という季節だそうです。そのため、ぼくたちはあせだくです。でも、エーミールだけはなぜか平気そうです。ジークがひからびないように、姉さんがこまめに水をあげています。

 ひまわりがいっぱい咲いている畑がありました。この国では、ひまわりは「なつ」に咲くのだそうです。おうちのにわがなつかしいです。

 街のあちこちに「なつまつり」という貼紙が張ってあります。

 ゾルマが言うには、「なつまつり」は楽しいもよおしものだそうです。おいしいものを売っているお店が街に並んだり、夜空に炎の花が咲いたりするのだそうです。

 僕はまつりがたのしみです。

 ヴァルターさんに会ったらよろしくおつたえください。


 アレックス・フォン・シプナー



 よれよれの字を、ヴァルターが微笑ましく見つめる。

「ふたりが大人になる頃には、もっといい国にしておかなくちゃね」

「親の俺からすればありがたい話だが、お前もちゃんと休んだほうがいいぞ。身体を壊したら元も子もないだろ」

 ハインリヒの口から、ヴァルターを気遣う言葉が出た。

「……ありがとう」

 安い酒が回って、気持ちよく頭を鈍らせる。少しは素直に従ってみるかな、という気持ちが湧いた。

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