第19話 氷

 今から遡ること百年前。

 フリーゼ王国きっての名門、フォン・グローバー家の当主ルドルフ・フォン・グローバーは当時二十二歳、「全能の魔女」たる姉ゾルマとともに、王権奪取と世界征服を目指していた。

 王権奪取だけならいざ知らず、「世界征服」というと、当世の感覚では並外れて横暴で独善的な野望と見なされるだろう。だが、背景には切実なフリーゼ王国の特殊事情があった。

 すなわち、「灰枯」と「百花」。

 一年間のうちおおむね三ヶ月は、「灰枯」の季節が続く。年によってはもう少し長いことも短いこともあるが、この季節には一切農産物の生産ができなくなる。

 一方で残りの九ヶ月を占める「百花」も、四季を持つ国がそうであるように、豊作の年もあれば不作の年もある。不作の「百花」は九ヶ月間ずっと不作だ。その場合は、わずかな収穫量で次の「灰枯」を乗り切らなければならない。

 当時からフリーゼ王国の王政は腐っていた。税として徴収された金や作物は王家に近しい貴族たちに横流しされ、文字通り私腹を肥やしていたのである。一方で、庶民には餓死者が続出する。

 歴代のフォン・グローバー家当主は、王家の対抗勢力として、この状況を憂えていた。

 そこに「全能の魔女」ゾルマが誕生したのだ。この力を使えば国を救える、と年若きルドルフが考えるのは無理からぬことだったろう。

 そして一歳年上の姉ゾルマもまた、弟に喜んで力を貸す――はずだったのだが。



 ――王国暦二百年「百花」七月十九日 深夜



 その日、ゾルマがルドルフの執務室を訪れたことを知る者はいない。

 室内には煌々と燭台が灯っている。ルドルフは、きたるべき決戦の日に備えて綿密に作戦を練っていた。机上に王都の地図を拡げ、いかにして王城を陥落させるかに考えを巡らせている。

 ノックの音が響いたのは、そんなときだった。

「まだ眠らないんですの?」

「目が冴えちゃってさ」

 ルドルフが顔を上げた。彼の顔貌は肖像画としてフォン・グローバー家に残っている。四代後の当主ヴァルターによく似た美青年である。

「私の魔力があれば、作戦なんて大雑把でよいのではないかしら」

 机を挟んで、ゾルマとルドルフが向かい合った。

「フォン・グローバー家の当主として、念には念を入れとかないとさ。明日姉さんが急に魔力を失わないとも限らないだろ」

 ルドルフは瞳を輝かせながら、滔々とうとうと語り始めた。

 もうすぐ腐敗した王家とその周辺勢力を一掃し、王権を奪取できる。食糧を適切に管理し、あまねく国民に行き渡らせる。「灰枯」を耐え忍びながら国力を蓄え、やがて世界に打って出る。たとえ何があってもやり遂げてみせると、そう彼は力強く言い切った。

「そう……立派になったのですね、ルドルフ」

「姉さんに褒められるなんて、びっくりだな」

「そうかしら?」

 ゾルマが首を傾げる。

「僕が立派になったって言うなら、姉さんだって変わったよ。なんていうか……ここ一年くらいかな? 急に優しくなったっていうか、親しみやすくなった気がする。今だから言うけど、昔は姉さんのこと氷みたいに冷たい人だと思ってた……あっ、怒らないでね。いまはそんなこと、全然思ってないから」

「優しくなった、そう……そうかもしれないですわね」

 にこにこ笑いながら語るルドルフは無防備だ、完全に姉のことを信頼しきっている。

「ねえ、ルドルフ」

 再び地図に視線を落とした弟に、ゾルマが静かに呼びかける。

「征服される側の人たちのことは、考えたことがあるの?」

「え?」

 ごめんなさい。私にはこうするより、他に思いつかないの。

 ルドルフが最後に聞いた姉の言葉は、謝罪だった。

 弟は紫の瞳を開いたまま事切れている。自分が死んだことすら気づかなかったろう。

「ごめんなさい……」

 その瞼を閉じさせ、ゾルマは部屋を出て行った。

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