第18話 群青

「閣下! お怪我はありませんか!」

 城門の前で立ち尽くす宰相ヴァルター・フォン・グローバーに、彼の配下たちが駆け寄る。

 フォン・グローバー家の若い騎士団員だった。彼らは城仕えの兵隊と違って、フォン・グローバー家に忠誠を誓っている。中でも胸に群青に白薔薇の紋章をつけているのは、選りすぐりの精鋭である。

「大丈夫だよ、ありがとう」

 ヴァルターは笑顔を作って返したが、まだ受けた衝撃から立ち直れない。

 ゾルマ・フォン・グローバーが、目の前に現れた。

 彼女の存在は、公的な記録には名前程度しか残っていない。「全能の魔女」であることは、ヴァルターから遡って曾祖父のオットーまで、フォン・グローバー家の当主だけに語り継がれてきた秘密だった。王家に都合良く利用されないよう、彼女の能力はひた隠しにされてきたのである。

 曾祖父の姉は全能の魔女だった――代々密かに伝えられてきたその話を、ヴァルターはさほど真剣に受け止めていなかった。

 それほどの魔力を持つ人間なんて想像しがたかったし、たとえ居たとしても百年前の話だ。どうせもう生きてはいまい。

 しかし現実に彼女は存在し、しかも存命だった。

 ゾルマとルドルフは志を同じうしていただけではなく、非常に仲睦まじい姉弟だったと伝え聞いている。だからこそルドルフが突然亡くなったとき、あまりの悲しみに気が動転して出奔してしまったのではないかと、それが歴代当主たちの解釈だった。

 だが。

 ――ルドルフはね、私が殺したのさ。

「どうして……?」

 ヴァルターが知っていたことは、真実ではないかもしれない。

 彼が漏らした疑問に答えるものはいない。空は騎士団の紋章よりも、もっと澄んだ色をしていた。


***


 気がついたときには、もうゾルマの家の中にいた。さっきまで城門の前で、ヴァルターと対峙していたはずなのに。

「やあ、お帰り!」

 ジークがかまどに火を入れてお湯を沸かしている。レーダが一大決心をして計画を実行したのに、まるで何事もなかったかのようだ。

 アレックスもいる。怪我はなさそうだ。ソファの上でうずくまって、すぐ傍に立っているレーダのほうを見ようとしない。

 レーダがいつも使っているソファは、この家の主ゾルマがどっかりと座っている。もともと彼女の家なのだから、彼女が使って当然だ。

「レーダ、アレックスに何か言うことがあるんじゃねえのか?」

 口火を切ったのはエーミールだった。腕組みをしてこちらを睨んでいる彼だけが、レーダを見ていた。

「エーミール、あなたこそわたくしに言うことがあるはずだわ」

 負けじとレーダは言い返す。

「これはいったいどういうことなの。私たちを港に連れて行く約束だったはずでしょう! 宰相の前に連れて行かれて、かと思えばゾルマが出てきて、話が全然違うじゃないの!」

「お黙り!」

 ゾルマが一喝する。何の魔力も使わなくても、声だけでレーダを黙らせる威厳を彼女は持っていた。

「あんたの計画なら、エーミールから洗いざらい聞いたよ。弟に治療屋をやらせて外国で金持ちになるって? フン、ガキの考えそうなこったね」

 アレックスがますます縮こまる。

「住む家もなきゃ金もないのに、どうやって仕事を始めるつもりだったんだい」

「それは、わたくしの力でなんとか……」

「言葉も違うのにかい? そのうえ文化も違えば気候も違う。あんたみたいな世間知らずの小娘が、そうやすやすと成功できるわけないだろ、この馬鹿」

「わたくしは世間知らずでも、ばかでもありませんわ!」

 世間知らずの馬鹿なお嬢様――そう言われるのがレーダは一番嫌いだった。だから日頃からよく勉強をして、人並み以上の知識を身につけてきた、つもりなのに。

「姉さんは、ばかだよ」

 突然アレックスが声を上げた。

「姉さんは全然僕のことが分かってない。僕をむりやり外国に連れて行って、むりやり仕事をさせて、『うん、分かった、頑張るよ』っておとなしく従うと思ってたんでしょ? なんでもかんでも姉さんの言いなりになると思ったら大間違いだし、それに」

 顔を上げて、レーダを見つめる。その青い瞳にはうっすら涙が浮かんでいたが、こぼれ落ちはしなかった。

「どうせ利用するだけの弟だから、仲良くしたってしょうがないって、そう思ってたんでしょ? そんな風に僕を遠ざけるより、一緒に遊んだほうがずっと楽しかったのに。僕はね、ずっと寂しかったよ。この森に来て、少しだけ姉さんと仲良くなれたかなって、思ってたのに……」

 レーダは言葉を失った。幼稚だとばかり思っていた弟が、ほとんど正確に自分の胸の内を言い当てたからだ。

 アレックスに強い癒やしの力が備わっていると知れたのは彼が二歳のときだ。庭で走り回って転んで、すりむいた膝小僧を、彼は手のひらで撫でて治した。レーダが十歳のときに風邪を引いた。当時六歳のアレックスがおでこに手を当てただけで熱が下がった。

「……仲良くなんて、できるわけないでしょう。あなたはわたくしの人生のために、犠牲にする相手なのよ」

 アレックスの力は、レーダやほかの誰もがどんなに望んでも得られない特別な力だ。この力を利用すれば、きっと閉塞したレーダの人生を変えられる。――でも、アレックスの人生は?

 その罪深さを知りながら、どうして仲良く一緒になんて遊べるだろう。

「話してくれたら、よかったのに」

 アレックスがつぶやき、レーダは沈黙する。

 ケトルが勢いよく水蒸気を吐き出した。

「さあ、お湯が沸いたよ。みんなで仲良くお茶にしよう!」

 ジークがあっけらかんとお茶を注ぎ、みんなに振る舞った。さわやかな風味が、疲れた心と体に染み渡る。

「……ごめんなさい」

 レーダのかすかな謝罪は、しかとアレックスに届いた。

「仲良くしてくれたら、許すよ」

「うん」

 情けなさと羞恥心と、安堵の入り交じった気持ちでレーダは黄色い液面を見つめた。

 根毛が垂直にぷかぷかと浮いている。

「おや、茶柱じゃないか。確か、いいことが起こる前兆だったっけ? なあゾルマ?」

 ジークの問いかけに、ゾルマは「フン」とだけ答えた。

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