第33話 匣のなかの匣のなかのさらに匣のなか③
「ここにあった巻物が先日虫干しした分でしょうか。埃についた痕跡が新しいです」
「おそらくそうだな。六儀府はここが祭祀を行う場所で、風穴で繋がった小さな部屋にそれぞれ石棺が納められていると言っていた。次はそれぞれの石棺を調べよう」
「石棺ですか……」
夏月はわずかにためらった。天原国の巻物を探すのはいいが、石棺の蓋を開けて、なかを確認するのは抵抗がある。
鬼に慣れている身で、いまさら死体が怖いわけではない。しかし、死者を土葬する琥珀国では、石棺のなかで遺体がよく木乃伊化する。木乃伊――干涸らびた死体が動くというのは、幽鬼が怖れられているのと同じくらいありふれた怪談だった。キョンシーなどと言うこともある。幽鬼が肉体を持たない死者の魂なら、キョンシーは魂を持たない魄だけのあやかしだ。幽鬼と違い、こちらは夏月が苦手とするところだった。
洪緑水は夏月のためらいを感じとったのだろう。
「ここにある石棺はすべて白骨になっているから木乃伊はない。安心して捜索していい」
などと、穏やかに言ってのけた。
木乃伊ではなく白骨だから大丈夫というのは、だいぶ強引な話じゃないだろうかとは思ったが、それならいいかと、ほっとしたのも事実だ。
「わかりました」
夏月は観念するしかなかった。人の都合に鋭く切りこんでくるのは、初対面のときからそうだったが、どうも話の進め方に違和感があった。彼の普段の調子からすると、ずいぶんと焦った様子だ。
「調査を、と言う話でしたが、もしかして、祭祀をする日にちが迫っているのですか? まさか……――清明節?」
訊ねているうちに心当たりに気づいてしまい、顔色を変える。
いままで放置されていたぐらいだ。珍しい祭祀なのだとしても、王族の霊廟から祭祀の巻物を回収する理由なんて、そう多くはない。
慰霊、鎮魂、子孫繁栄、厄災祓除といったところか。
いまは時期的に、清明節が近い。清明節には一族の霊廟で先祖供養をする慣習があるから、霊廟で祭祀をするというのはありそうな話だった。
「よくわかったな、夏女官……実はそうなのだ」
洪緑水は悪戯を見つけられた子どものように、ばつの悪い顔をして言う。
「と、十日ほどしか準備の期間がないではありませんか。いま文献調査なんてしていて間に合うのですか?」
「間に合わせるしかあるまい。だめなら、いま発見されている巻物の部分だけを再現することになるだろう」
「あれは真ん中の巻ですよ。最低でも、前と後ろに一巻ずつ……全三巻はあるはずです」
夏月が解読した範囲では、序文も結びの文もなかった。祝詞にしても祭詞にしては不完全だ。どうりで洪長官はたびたび写本府を留守にしていたはずだ。先日も六儀府の朱銅印とともに巻物の虫干しをしていたが、祭祀の準備に追われていたのだろう。
「祭祀は王命なのだ。清明節にこの霊廟で行われていた祭祀を復活すると宣った」
苦い口ぶりからは、夏月ごとき新人女官が心配する範囲のことは、わかっていると言わんばかりだ。
「去年の人死にが多かったからでしょうか」
災害や飢饉、戦乱があると、民の心が王から離れ、国が傾くと言われている。
王の力は強大だが、得体の知れない人死にが続いたせいで、妙な噂が流れていたことは街外れに引きこもる夏月の耳にさえ入っていた。
「市井の噂では天原国を滅ぼした呪いではないかと……」
表向き、黒曜禁城の街中では、天原国という名前が出てくることはない。けれども、いつもと違うことがあると、どこかで誰かが呟くのだ。これは呪いではないか。天原国の王の末裔はどこかで生きていて、復讐しようとしているのではないか、などという、ありもしない噂が人から人へと伝わっていく。
「それはもちろんあるだろう。陛下としては、悪い噂が流れているのを放っておけないのだ。民の不安を取りのぞくためにも、清明節という日程は動かせない」
洪長官は、夏月の言った類のことはすべて飲みこんだ上で、この霊廟にやってきた。王命というのは、宮勤めでは絶対だ。逆らう手段はない。
あごに手を当てて少しの間、思案した夏月は、手燭を祭壇の上に置いて、持ってきた巾包みを広げた。なかには、ふたつ巾包みが入っている。外の大きな巾は巻物が見つかったときに使えるから、折りたたんで袖にしまった。
「二手に別れて捜索いたしましょう。わたしは祭壇に向かって右手の小部屋から確認いたしますから、洪長官は左手の方からお願いいたします。はい、筆記用具です」
夏月は墨と硯と筆、それに竹筒に入れた水が入った巾包みをひとつ手渡した。
「もしかして眉子に持たされたのか」
「調査をするのですから当然です。発掘したものは記録する必要があります。祭壇に近いほうから右一、左一と番号を振りましょう。どの部屋のどこから出てきた巻物か、今度は記録をしていきませんと」
やると決めたからには早くすましてしまおうと言うすばやい足どりで、夏月は洪緑水の返事を待たずに動きだした。祭壇の壁に沿って最初の小部屋に入り、手燭を高く掲げる。部屋と言っても人工的に作られた部屋ではなく、自然の風穴だ。のみで広げた痕跡はあるが、基本的には自然にできた岩壁のままのようだった。
「この部屋は石棺が三つ……うっ」
石棺に蓋は閉まっておらず、明かりを近づけると中身がそのまま見えた。
本当に、洪長官が言ったとおりの白骨死体だ。誰かが動かしたのか、あるいは地震でもあって石棺のなかで転がったのだろうか。頭蓋骨がなぜか足下に転がっている。
金糸の刺繍のようなものが残っていたが、衣服はすでに原形をとどめていない。ぼろぼろの繊維くずがところどころに散らばるだけだ。
「これは……位置的に一番先に埋葬された太宗でしょうか」
石棺の周囲を見回して、側面に刻まれた名前を確認する。ふたりの王子と一緒に埋葬された太宗で間違いなかった。手燭を石棺の縁に置いて、拱手して頭を下げる。
足下側にある頭蓋骨を手にとってみた。
土に埋められていないからなのだろうか。ずいぶんと綺麗に白骨化している。黄ばんだ骨は古めかしく、まるで磨いたように艶が出ていたが、干涸らびた死体と比べると、怖くはなかった。正確に言えば、怖さの印象が違う。自分がより苦手なのは木乃伊のほうで、冥界で見た杭を打たれた幽鬼の血を流した姿だった。
一般の霊廟とは違うから比較できないが、王族の墓だと言うのに、やけにすっきりとしている。線香立てもなく、副葬品も見当たらない。
細長い線香がたなびくなか、果物やお菓子を山のように積み、冥銭も用意してある賑やかな藍家の廟堂とは正反対だ。神聖な場所だとわかっているが、死者は寂しくないのだろうかと思ってしまう。石棺に巻物をしまうような棚や櫃がないのを確かめて、夏月は次の部屋に向かうことにした。
太宗の次は世宗の墓だった。
作りは太宗のものとほぼ同じ。祭壇や家具もなく、自然にできた小部屋に石棺が置かれているだけだ。こちらの石棺も蓋はない。死体はやはり白骨化しており、頭蓋骨の位置が足下のほうへ動いていた。
平らな場所を探して手燭を置き、同じように礼を尽くしてから頭蓋骨を拾いあげる。
親子だからだろうか。白骨化した頭蓋骨でさえ、額の広さや眼窩の位置が似かよっている気がした。
三つ目の部屋に入ると、先のふたつとはまったく違う作りだった。
そもそも、自然の風穴を利用しているから、部屋の大きさはままならないのだろう。
こちらは思っていたよりも大きな部屋になっていて、そこからさらに岩穴が枝分かれしている。
「ここもまた……大広間のような……」
風穴から風穴へと入っていくうちに、方向感覚が狂ってしまいそうだ。思わず振り向いて、祭壇のそばで灯籠が明かりを放っているのを確認してしまった。
風穴というのは、似たような景色ばかりで道に迷いやすいと、本で読んだことがある。
ひとつの部屋からまた別の部屋のと繋がる図を見たことがあるが、まるで蟻の巣のようだった。
手燭の仄かな明かりしかないのは、なんとも心許ない。吹き抜ける風に揺れ、早く歩けばまた揺れ、いまにも消えてしまいそうだ。
地下の世界がこんなにも絶えず風がわたるのだとは知らなかった。書物を読んでいただけではわからない現実をまのあたりにして、こんなときなのに心の底が感動で震えている。
――まるで
鹿の鳴くような、人の嘆きかなしむような音は、幽鬼の客がやってくる前兆だった。
どこかに岩穴の狭い場所があり、笛のように音を出しているのだろうとはわかっている。それでも、甲高い音を聞くと、幽鬼が訪れるのではないかと心待ちにする自分がいた。
「祭壇のときと同じだ。向かって右の部屋から回ろう」
あえて声を出して部屋に入ろうとすると、
「夏女官」
と呼びかける声がした。あるいは、風の音をそう聞き間違えたのかもしれない。
ともかく声の主を探そうとぐるりと見回したとき、ふっくらとした白い手が手招きしているのに気づいた。人好きのよさそうな、女の手だ。
「
見知った相手だと安心して、夏月は手のほうへ近づく。
暗闇のなかに、外廷の下っ端女官が着る灰色の交領襦裙が浮かびあがってくる。
夏月と同じ写本府の先輩女官だった。
「こちらには石棺はないようですね……あれ、でもなにか頭にぶつか……あっ」
入りこんだ場所は狭い部屋だった。両側に壁が迫っていて、気をつけていないと服がこすれてしまう。
石棺どころか、なにか物をしまうような場所もない、ただの岩の凹みのように見えた。
ところが、ぶつかった岩を避けるように頭を下げた瞬間、がくんと体が沈んだ。
夏月の体は、裂け目に巻きこまれるようにして下方へ、さらなる闇の胎内へと落ちていった。
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