第32話 匣のなかの匣のなかのさらに匣のなか②

「もしかして、あの巻物、ここから発掘されたのでしょうか?」

「そう。十二年に一度しか行われない鎮霊祭だとかで、誰も詳細がわからないのだと。六儀府りくぎふが古い文献を探して秘書省に泣きついてきたのだ」

 言われて、姉から言われた言葉を思いだす。

 ――『いえ……秘書省と六儀府は、ときおり後宮の奥に出入りする部署なのです。後宮の奥に古い霊廟があり、近々祭祀があるそうですから、その準備に追われているのでしょう』

 六儀府は祭祀を司る役所で、朱銅印が勤めている部署だ。

 おそらく、朱銅印は祭祀にまつわる文献を探す責任者で、秘書庫に通いつめるうちに、良良と親しくなったのだろう。

 思考がどうでもいいことに流れてしまうのは、一種の現実逃避だった。

 ――王族の霊廟に入ったなんて、もし他人に知られたら首が飛ばないだろうか。

 ――いまからでもお断りできないだろうか。

 できれば、逃げだしたいという気持ちと、天原国てんげんこくの秘書が、なぜ琥珀国王の祖霊廟から発掘されたのだろうかという好奇心が夏月のなかでせめぎあっていた。

 しかし、知りたいという気持ちが、結局は畏れより強いのが藍夏月という少女なのだ。

「まずはこのなかに祀られてるものを確認しましょう。この祖霊廟に祀られているのは、ここ三代の国王で、王后はいません。ほかに八人の王子が合祀されており、石棺は十一あります」

「石棺は十一……ということは、なかはさして広くないのでしょうか」

 泰廟にある藍家の巨大な墓を思いだして、夏月はそれならまだましだろうかと、ほっと胸を撫でおろす。

 墓は大きいほうが子孫繁栄に繋がるとされ、巨大であるがゆえに一族郎等が入っていることが多い。正確に数えたことはないが、藍家の墓に入っている石棺は十一より多い。二十でも足りないかもしれない。父親は石棺を二階建てにできないかと、石工と相談していたくらいだ。

 藍家の霊廟は、その近くに祭祀用の廟堂が立てられており、一周忌などはそこに道士を呼び、親戚が集まって供養する。

 先日、仮死状態になった夏月が三日ほど寝かされていた場所だ。

 見たところ、巨石の周りには廟堂はない。どうやら、なかに入らないといけないのだとわかり、夏月はごくりと生唾を飲みこんだ。

「失礼ですけど、おうかがいしてよろしいでしょうか。先日虫干ししていた巻物は、全部、天原国の秘書だったのですか?」

「いや、違う。大半は琥珀国の葬儀の祭詞だった。確認したが、国王が崩御なさったときのもののようだ。どうやら、あの秘書は朱銅印が持ってきたもののなかに交じっていて、どの王の石棺に納められていたのかわからないようだ」

「ずいぶん、いいかげんですね。代々の国王の幽鬼に呪われますよ」

 呆れかえって思わず幽鬼などと口にしてしまった。

「それは嫌だな……あるいは盗掘したものが幽鬼に襲われて、どこかに投げ出したものが交じった可能性もあるだろうよ」

 笑いながら幽鬼の話を返されてしまった。幽鬼という言葉に反応したのだろうか、夏月のうなじがまた、ぴり、と痛みを訴える。

 後宮に入ると、ときおり感じるその痛みは、まるで霊廟に入るのはやめておけと警告しているかのようだ。できれば、その警告に従って、ここで待っていますと言いたい。なのに、夏月が口を開くより先に、洪長官が入口の鍵を外し、両開きの扉を大きく開け放ってしまった。

 冥府への入口のごとく真っ暗い口から、びょうびょうと不気味な風が吹きあがってくる。

 夏月の躊躇など気にかけることもなく、洪長官は足早になかに入ってしまった。どうやら彼は幽鬼を恐れる人ではないらしい。入口に置いてあった手燭に火打ち石で火をつけて、洪長官はひとつを夏月に手渡した。

 手燭は琥珀国では広く使われている明かりとりのひとつだ。金属でできた、蓋のない急須といった形をしており、なかに油が入っている。こよりの先から少しずつ油を吸い、長く明かりが保てるようになっているのは、蝋燭と同じような仕組みだ。

「なかに入るぞ。入ってしばらくすると、急な下り階段になっている。途中、踊り場があって方向転換しているから足を滑らせないように気をつけて進みなさい」

「は、はい」

 あとを追うように歩きだすと、階段の縁に足先が当たった。

 手燭の明かりだけではよく足下が見えなくて、まるで体から離れた魂が闇に吸いこまれてしまいそうだ。

 闇と言っても、冥府で見た闇とはまた違う。どちらかというと、後宮の内側に入っていくときと同じ感覚だ。自分の手を折り足を折り、体を縮めて、小さな匣に折りたたまれていくような狭苦しさに苛まれる。息苦しい。首の後ろがぴりぴりとする。夏月は慎重に、つま先が床についているかを確認しながら一段一段を降りていった。

 風が思っていたより強い。気をつけていないと手燭の火が消えそうになる。かといって、ささやかな炎を守るために、壁から手を離すのも怖かった。

 自分の手の少し先で明かりを放っているのは、まるで自分の命の炎のようだ。

 もし、ここで風に吹き消されてしまったら、この闇のなかで、ふぅっと自分の命も消えてしまうのではないだろうかと、そんな妄想が湧きおこる。

 ゆらゆらと、炎が消えそうに細長く伸びたその瞬間、闇の奥に、泰山府君の顔が見えた。

「……いいえ、違う」

 自分はまだ死すべき運命ではないと冥府の王が言ったのだ。

 だが、同時に死相が出ているとも警告されていた。

 霊廟に足を踏み入れるようなときに、嫌なことを思いだすのではなかった。足場のいいところで立ちどまった夏月は壁から手を離し、髪に挿した簪に触れる。かすかな、りん、という涼やかな音は、不思議と気持ちを落ち着かせてくれるようだった。

 ――自分はまだ死なない。

 冥府の底でそう決めたばかりだ。闇のなかで心細いというだけで心をゆらがせるわけにはいかない。ふぅっと大きく息を吐き、胸いっぱいに息を吸う。手燭で足下と壁を確認してから、夏月はまた、先を行く洪緑水を追って、階段を下りはじめた。

 変化が訪れたのは、先を行く明かりが消えたあとだ。明かりが消えたのかと焦って、

「洪長官!」

 と叫んだが、返事はなかった。代わりに、声の反響がおかしいことに気づいた。階段が終わり、別な場所に繋がっているせいだと気づくのに時間はかからなかった。

 逸る気持ちを抑えながら足を進めると、唐突に、自分を狭く匣のなかに押しこめていた圧迫感が薄らぐ。

 広い空間にいた。吹き抜ける風の音が、ここが巨大な風穴だと知らしめる。

 洪長官が燈籠に火を入れてくれたからだろう。洞穴の大広間はうすら明るかった。暗闇に慣れた目が、蠢く根に似た、複雑な細工の影を捉える。

「祭壇……?」

 夏月の口から、吐くような息が零れた。言葉を口にしたそばから、闇と風とに搦めとられていくかのようだ。広い空間独特の、音にしたそばから霧散していく感覚がした。それでも、夏月の声はちゃんと届いていたらしい。

「そう……ここは古い祭壇だった……らしい」

 洪長官から答えが返ってきた。声が聞きとりにくい気がして一歩近づくと、大きな祭壇の向こうに、神像が見えた。自然の壁を穿ったところを祭壇にして、神像を並べてあるらしい。その両脇の壁には、道教の寺院ではよくあるように旗が掲げられていた。

 ひとつは琥珀国王のもの。もうひとつは泰山府君を祀る旗だった。

 この国の王族の姓は『碧』だ。その一文字が刺繍された豪奢な旗は、この自然の風穴が管理された場所であることを鮮やかに知らしめている。

「真ん中は泰山府君の像だ。運京のあたりは昔から泰山府君への信仰が厚いから」

 奇妙に突き放した、他人事のような物言いだった。

 それが逆に彼のなかの感情が剥きだしになっていることを示しているようで、夏月は珍しいなと思った。わずかの間しか話していないが、洪緑水は他人を評するときに手厳しい物言いをすることがあるが、あまり自分の感情を表に出さない。それは彼が部署の長にまでのぼりつめているせいだろうと考えていた。

 ――でも、違う。もっと違うなにかが、この人の感情を強く抑えつけている。

 その信念を揺るがせるだけのなにかが、この霊廟にはあるらしい。

「洪長官は泰廟へはお参りしないのですか?」

 思わず、夏月は訊ねていた。

 琥珀国では泰山府君を祀っている。灰塵庵から近いせいもあり、夏月自身、泰山府君への信仰は厚いほうだ。泰廟へは週に何回もお参りしている。なのに、洪緑水は違うのだろうかとその横顔を見つめた。沈黙でさえ、いつもの彼より感情の動きが雄弁な気がして、その感情の苦い味を夏月も知っている気がした。

「廟を参ったところで、死者には会えまい」

 ふいっと顔を背けた様子からは、彼のなかに霊廟に対する思い入れがある様子がうかがえる。

「洪長官死者となっても会いたい人が、どなたかいらっしゃるのですか?」

 夏月の言葉のささいな綾に気づいているのかどうか。青年は小さく笑って、

「そうだな……親しい人が亡くなれば、もう一度会いたいと思うのは自然な気持ちではないだろうか」

 そう言った。屈託のない物言いが、やけに胸に沁みる。

「自然な気持ち……」

 ――幽鬼に会いたいと思ってもいいのだろうか。

 月のない夜、もう街中がひっそり静まりかえる時刻に、『万事、代書うけたまわります』という札とともに、鬼灯を出していていいのだろうか。

 祭壇の裏に回り、手燭を掲げて神像の顔を仰ぎ見れば、泰山府君像は、より恰幅がよく、髭を生やした中年の姿をしていた。

 これが一般的な泰山府君の印象なのだと告げたら、夏月の知る冥府の王はなんと言うだろう。蟻たちのすることなどにいちいち興味はないと一蹴するだけだろうか。

 なぜか、興味がないと言いながらも、「私はこんな顔ではない」と不機嫌になる神の顔が見えた気がした。

 暗闇のなかにいるせいか、やけに冥府の主のことを考えてしまう。

 神像の両隣に並ぶのは、琥珀国のかつての王だろう。祖霊信仰の強いこの国では、氏族を興した祖先を像にして、神像と一緒に祀る習慣があるからだ。神像の周りには巻物をしまうような場所がないのを確認してから、祭壇の裏手で屈みこんだ。

 こういう作りの祭壇は、祭祀を行ったあとに、祭詞を述べた巻物を祭壇のなかにしまうことが多い。巻物を探すなら誰でも真っ先に調べるはずの場所だった。

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