第31話 匣のなかの匣のなかのさらに匣のなか
夏月は
『発掘』という言葉を聞いて、なるべく関わりたくないと思ったものの、これが宮勤めの悲しさだろうか。上司の命令により駆りだされてしまったのだ。ようやく、憧れの秘書庫に足を踏み入れたというのに、ゆっくりと本を読む余裕すらなかった。
――『秘書庫には珍しい書物がたくさんあって読み放題だし、字の読み書きができるものには楽しい職場なのだがなぁ……』
女官にならないかと誘ったときの、あの言葉は詐欺ではないだろうか。自分は騙されたのではないだろうか。
夏月は切実に洪緑水の言葉を疑いはじめていた。
もっとも、解読する巻物が増えれば、代書屋としてもらえる代金も増える。だから、夏月に悪いことばかりではないのだと言い聞かせながら、泣く泣く秘書庫をあとにした。
後宮というのは不思議なところだ。
何度か通ったおかげで見知った風景も増えてきたと思ったのに、来るたびに違う表情を見せる。洪緑水は先輩女官とは違う道を好むようで、夏月からしたらまったく新しい道を覚えさせられているのと同じだった。どこに向かっているのか、さっぱりわからなかった。
慣れているのだろう。洪緑水は、迷いのない足どりで後宮に小径を進んでいく。
衛士が控えている洞門まで来ると、身分を証明する札を差し出して名前を告げた。
「写本府の洪長官だ。一緒にいるのは写本府の夏女官」
形式的に名乗りをあげているが、衛士は洪緑水の顔を知っているようだった。こういうのは、ちょっとした仕種で違いがわかる。衛士は洪緑水の顔をはっきりと確認して、拱手して礼を尽くしたからだ。その顔を確認したときの顔つきは、知っている人を見るとき独特の、「ああ」という気配が漂っていた。
「ここから先は……後宮の女官でも許可がなければ入れない場所だ。なかで見たことは他言しないように」
いつもは調子がいいことばかり言う洪緑水が、珍しく警戒した様子で注意喚起した。
洞門をくぐったあとで、そんなことを言われても困る。夏月が断れないように、あえて伏せていたとしか思えなかった。
「夏女官は前の女官より口が堅そうだから、よかった。後宮に出入りする女官がいないと、どうしても不便で」
「はぁ……」
言われて、良良という元女官の顔を思いだしてしまった。夏月の婚約者を略奪愛した娘は、確かに話好きそうな顔をしていた。そこが朱銅印の心を射止めたのだとすると、口が堅そうな娘というのは、年ごろの娘としては、よくない評価なのではないだろうか。
――婚約破棄の話なんてそろそろ忘れたいのに、勤め先が何度も思いださせるというのはどうなのでしょう。
夏月が眉間に皺を寄せながら考えていると、洪緑水からまさに朱銅印の話を切りだされてしまった。
「そういえば、女官勤めを了承してもらって写本府としては助かっているが、朱銅印との結婚の話は進んでいるのか?」
「は……結婚ですか?」
思わず、不遜な発音で返してしまったが、上司に対してよろしくない。ごしごしと指の腹で眉間の皺を伸ばして、できるだけ穏当に返答する。
「婚約は破棄されました。上司の管理不行き届きですよ。朱銅印殿は良良さんと結婚するそうです。報告はなかったのですか」
「ええっ? そ……それはなんと言ったらいいものやら……わ、悪かった」
ちょっとした嫌みのつもりだったのが、真面目に謝られてしまった。拍子抜けする。
「別に……かまいませんよ。婚約だなんて一日で断られたことだってあるくらいですから」
「一日で……婚約破棄ですか? それはまぁ、なんというか……見る目のない人たちですね」
いまさら慰めのつもりなのだろうか。そんなおためごかしを言われても、気休めにはならない。その場しのぎの慰めに受け答えするほうが、むしろ煩わしい。
一日のこともあれば、五日のこともあった。どちらにしても結果は変わりない。
――『お嬢さんと息子は合わないと思いますので』
一言で終わりだ。そのなかでは、朱銅印との婚約期間が長いほうだったと言うだけだ。
「落ちこむようなことではありません。ただ、父の期待に添えられなくて申し訳ないと思っているだけです」
相手から拒絶されること。自分のやりたいことを否定されること。
――自分が思っているより悪い方向へ物事が転がっていくこと。
それはいつものことだ。だから、婚約破棄ごとき、たいしたことではない。誰も怪我をしなかったし、誰も死んでいない。夏月の心がほんの少し傷ついただけだ。自分が傷ついてすむくらいのことなら、夏月が我慢すればいい。他人を巻きこむ罪を背負うのに比べたら、ほんの軽微な痛みだった。
――大したことはない。
うつむきがちになった夏月の前で、不意に洪緑水が足を止めた。
「しかし、藍家のお嬢さんが九十九回も婚約破棄とは……過去の婚約者というのは、藍思影殿が本気で結婚させようとして選んだ婚約者だったのですか?」
何気ない思いつきを口にしたようで、鋭い一言だった。
洪長官というのは、見た目は雅なやさ男だ。仕事ができる人というより、街の妓楼を遊び歩いていそうな風貌の色男だった。けれども、ふとした瞬間に、放たれた矢が真芯を捉えるような一言を放つ。言葉遣いはやわらかいのに、見た目の軽薄さに似合わぬ、鋭い着眼点をついてくるのが、どうにも奇妙だった。
夏月がただ苦手だと言うだけではない。泰山府君に話したのと同じだ。床に落ちた染みのように、目に見えるようで見えない、ほんのわずかな違和感を覚えるのだった。
どきり、と夏月の心臓が嫌な一打ちをする。
「なにが言いたいのです」
「一回や二回ならよくあることでしょう。でも、九十九回というのは普通じゃない。まるで、九十九回、婚約破棄させることが目的だったみたいだと思っただけですよ」
言いたいことだけ言い捨てると、洪緑水はまたすたすたと歩きはじめる。
こういうところが勝手な上司だ。身長差があって歩幅も違うのに、思いつきで足を止め、人の気持ちを乱したあげくに勝手に歩きだされたら、ついて行くのが大変ではないか。
――『九十九回、婚約破棄させることが目的だったみたいだ』
その言葉は、夏月の心に鋭く、そして重たくのしかかる。
おそらく、そのとおりなのだと夏月自身、気づいていた。父親の心配そうな顔を思い浮かべながら、期待に応えられない自分を歯がゆく思う。
夏月という娘がすぐに結婚して相手の家に収まるような性格ではないと、父親からは見抜かれていたのだろう。何度も見合いをさせて、九十回を超えるほど婚約を繰り返していたのは、夏月が遊んでいていい猶予期間だった。
――だからこそ、もう九十回以上、婚約破棄したからこそ、朱銅印と結婚するべきだったと、とわかっていたはずなのに……。
上司のほうから話題にされたとはいえ、感傷的な会話など早く打ち切るべきだった。どことなく気まずい空気が流れたまま歩くうちに、目的地についたらしい。庭木をぐるりと回ったところで洪緑水が立ちどまった。
神聖な雰囲気に気圧されて、夏月もはっと足を止める。
顔を上げた先には、巨石を組みあげた祠があった。
庭の奥まった場所にあるにしては、その寸法の感覚が歪に感じるほど大きい。こんな巨大なものがよく近くに来るまで気がつかなかったと感心してしまう。それぐらい、巨石の威容は、圧倒的な存在感だった。
屋敷の屋根付き門のように大きな一枚岩を、どうやって持ちあげたのだろう。
左右の壁面も巨石、上に乗るのも巨石。
その間には、あとから作り付けたものなのだろう。鋲を打った木製の扉が設えられていた。
近くに立てられた棒には五色の吹き流しが飾られている。
自然にできたものではないだろう。人の手で組まれたとわかるだけに、なおさら感嘆させられていた。
「ここは……霊廟ですか」
「そうだ。王族の祖霊廟になる」
あっさりと言われて、夏月は息を呑んだ。
祖霊廟というのは、琥珀国では子孫繁栄のための祈りの場で、そこに参るのは血縁者だけ。よそものはたとえ姻族でも足を踏み入れないのが慣例だ。琥珀国における祖霊廟というのは、異国の者には想像もつかないほど重要な、一族の拠りどころだった。
身分の高い人の墓――王族の祖霊廟ならなおさらだ。
庶民がおいそれと近寄れない王族の秘奥のはずだった。
しかも、夏月はつい先日雇われたばかりの員外の女官だ。こんな重要な祭祀の場に連れてこられるとは思わず、背筋に冷や汗が滲んだ。
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